『君とつなぐ糸が溶けるまで』
 人は過去を切望する時がある。神様に祈る事がある。無信仰を掲げていても、度を超えた絶望の前に、人は自然と地面に膝を着いて、地べたに涙を降らせて天を仰ぐことがある。神さま。居ない筈がない神さま。貴方がいたのなら、目の前の絶望は起きなかったはずなのにと頭の中は最大限の疑念で一杯なのに、その声帯は絞り出すようにして神さまと祈る。ある時のイサミは、ルルにとって光だった。スミスを、世界への切符を切ってくれた庇護者を失った時に得た、一筋の希望だった。自分が何者かを深く知る前に、世界で唯一味方であるスミスの代わりになってくれた。父親という社会的通念を知る前に得た、世界にたったひとつだけの”スミス”の代わりに。そのイサミを失って、スミスが起動停止したブレイバーンだと知った時、二人を同時に失ったルルを包んだのは空気ではなく絶望だった。肺に浸食し、血管を犯し、頭のてっぺんから足のつま先まで浸潤した絶望だった。イサミの名を呼ぶだけの嗚咽は、世界にこだまするルルの身を奪った絶望の産声だった。その響き渡る声を聞きながら、項垂れる者達の声はあまり知られていない。ルルを過去へと走らせたのも、あの時の幸せを取り戻そうともがいたのも、全てはこの絶望から始まっているようだった。だが絶望はもう少し前から始まっていて、ルルの自我が生まれる前の世界に生まれていた。その時誰かが強く願ったのだ、ここは現実じゃない。目の前に起こったことは現実なんかじゃない。神はいない! 神さまなんか存在しません! だってここに神さまはあらわれませんでした! そうでなければ何故! 神さまがおわすのならば、何故! 私の前には死体が転がっているのでしょうか!? ルルの慟哭に負けぬ悲しみと絶望がそこにあった。腰が抜けて地に伏せて、這うように体を寄せていく。
 「…ハル」
 返事がなかった。カワダの目には、どす黒い血が床にこびりつき、毛足の短いカーペットを汚しているのが分かる。その出血元が、ハルの頭から噴き出しているのが分かった。人体のどこかに穴が空いているのだろう。あってはならない事だ。耳と鼻と目と汗腺くらいしか人間に作られた穴は許されていない。人為的な方法で穴を空けてしまったら、人間はそこから出血してしまう。分かっている。それなのに呼びかけられたキングは、自分から体に穴を開けたように見える。その手元には拳銃がある。硝煙が香る。手に握られていることから、それが彼の頭に穴を空けたのだと、どんなに察しが悪くても一目瞭然の姿である。カワダはカーペットを這うようにして近付いた。揺さぶる。巨体はぐにゃぐにゃと左右に揺れて、その振動が無くなると動かなくなった。何の生理的反応もない。そうしている間にも、地上を飛び回る巨大な物体の風切り音がひっきりなしに聞こえる。地を這うのはキングの安否だけでなく見つからないようにするためでもあるが、それもいつまで通用するかは分からない。どこに逃げても終わりなのだ。カワダは忌々しげに半分風穴があいている基地の上空を睨んだ。ゾルダートテラーが何かを探さんと、ひっきりなしに飛行している。彼らに銃口を向けられたら、この部屋ごと跡形もなく消え去ってしまうだろう。
 この戦場に、人類の兵器として残っている物を全てつぎ込んだ。それでも殲滅に至らなかった。人類の負けである。敗走を許すほど、彼らは人道的な存在では無かった。地球の表面から全て人類を殲滅せんと大群で空を飛び回り、見つけた先から攻撃を加えていく。焼け野原だ。人類という種が誕生してから築き上げた文明も文化も、繋いできた命も全てが焼け野原。それを手をこまねいて眺めて、少しでも命を繋ごうとしなければならないだろう。だがカワダにはその気力が失せてしまった。数えきれないほどの部下を死なせておいて、これ以上どう決着をつけるというのだ。人類の命運はとうにATFの手のひらの上から転がって、デスドライヴズに拾われてしまっている。その重責をもっとも抱えていただろうハル・キングは、基地の一室で拳銃で自殺した。カワダが確認しても息は無い。傍に置かれたメモには、『卑怯者と揶揄されるだろう。だが職務を全うした者への贖罪と懺悔がこれ以外に思い付かなかった。許されると思っていない。』と走り書きの震えた文字が並んでいる。カワダはその紙きれを、思い切り床に叩きつけた。カワダの体の前面は逃げるな!と叫びたいところだが、仕方ないとカワダの体の背面は呟いている。一体誰がこの状況下で冷静な判断が出来るのだろう。…人類は負けたのだ。人類はこれから衰退する。それどころか、生き残ることすらも出来ないかもしれない。浮かぶのは先人への贖罪と、何故か頭のてっぺんからつま先まで衝くのは悔しさだ。くそ、くそ、くそ。カワダが大きく息を乱す。もうゾルダートテラーに見つかる事など恐れていなかった。死はここにある。頭上を飛んでいる! 今もぶんぶんぶんぶん、鬱陶しい蠅のように自由に空を闊歩して! シャイセ、友人の口癖が移ったのかドイツ語がカワダの口から漏れた。
 「ここで降りなさい」
 プラムマンにそう言われ、車からどやどやと数名が降りた。その波に呑まれるようにサタケも降りざるを得なかった。彼らは示し合わせていたかのように武器を担ぎ、サタケを導こうとする。米軍の陸軍兵士だ。彼らはプラムマンの指示に従うだろう。サタケは一人何も聞かされていないらしいようで、離れていく軍用車に思わず体を向けて歩き出そうとしなかった。サタケから遠ざかる車のミラーにプラムマンの目が映った時、ほんの少し微笑んだ気がした。目が合ったことは間違いなかった。サタケに兵士が話しかける。
 「二佐殿をお守りしろと言づけられております。こちらにシェルターが」
 「しかし、しかしあれでは彼は」
 「…老兵は」
 兵士が言付けを口にした時だった。ゾルダートテラーのレーザーが、車を焼いた。一瞬の事だった。逃げる車をあざ笑うかのようにレーザーは車を分断し、蒸発させる前に爆発した。かけらがサタケの前に吹っ飛んで来るが、目を離せなかった。敵に見つかった!と兵士達が駆け出す。死に物狂いである。サタケの袖を引く従順な兵士もいたが、ゾルダートテラーが目の前に着陸したことで逃げ出した。車の上に座るかのように着陸した敵は、サタケに銃口を向けて来る。手元にある武器は、拳銃とナイフと。どちらも敵うはずもない。それでもサタケは動けなかった。車が炎上しているところから目が離せず、その壊れ行くさまを眺めているのに、邪魔をするゾルダートテラに、敵意が、悔しさが身体を衝いていた。悔しい。死の寸前でサタケがそう感じたのは、蒸発して消し飛んだので正確な記録は残らなかった。
 「なあ、スミス」
 イサミはよろよろとコックピットから立ち上がった。至る所が破損している。目に映るもの全てが破損し、この機体が無事ではないと敗者にまざまざと見せつけて来る。もう分かってるのにな、とイサミは出血している左足を引きずった。足の先がしびれていることが分かる。止血の手当てをするつもりもなかった。もう、殺されてしまうのだ。前面にいたスミスのおびただしい血がコックピットを彩っている。その血を踏んで滑ったイサミは、一人しか座れないはずの運転席にずるんと倒れ込んだ。そこには項垂れているスミスがいる。首の皮一枚繋がっている。出血はその為だ。イサミはスミスの体に身を寄せて、頭を動かさないように手を添えた。血の匂いが充満しているはずなのに、もう何も感じないや。イサミの鼻も死に近付いていて死神に五感を奪われたのかもしれない。
 「Bro。俺達やったよな…? 頑張ったよな俺達…」
 スミスは頷かずに美しい青の瞳がはんぶんだけ開いていて、イサミはその顔を深く覗き込まずに前を見ていた。割れた画面の向こうに、無惨にも侵略される地球が映っている。こんな時に索敵が出来なくてもいいのに、オルトスは従順にも周囲の状況をパイロット席に映し出している。そこに広がるのは地獄なのに、次第にゾルダートテラーの群れが気にならなくなって、イサミの目は青空だけが映っていた。
 「スミス、綺麗な青空だな。最後に見られてよかったよ…俺」
 イサミの手が遠慮がちに、人形のように動かないスミスの頬をアーマー越しでなぞる。そうして顔を覗き込んで、イサミは涙をこぼしながら笑った。
 「俺悔しいよ」
 イサミの瞳からぼたぼたと涙が零れた。スミスは動かない。だが、その瞳からはつうと涙が零れた。イサミは泣きじゃくっていておそらく気付いていない。あるいは気付いていても、彼は自身の涙を止められないのだった。悔しい。イサミの身を衝いていた感情に、彼は嗚咽する。
 「でもさ、でも…俺達やったよな? でも、でももっとうまくやれば良かった…俺、おれは…ッ…」
 スミスは頷きたくても首は動かせず、ただ涙だけが膝に落ちる。
 「悔しい…ッ…もっと、俺達に力があれば。もっと、早く弱点を見出してたら…。死にたくなかった。生きられると思ってたのに」
 ひ、と嗚咽を漏らすのはイサミ・アオ24歳の本音だった。
 「スミス…俺、お前とであえてよかった」
 どこかで無粋なゾルダートテラーが銃口をこちらに向けている。そのレーザーの光がいっぱいになっても、イサミは逃げない。ただスミスの肩を強く抱いて、彼を抱きかかえるようにして、共にここで死ぬ気でいる。それでも死にたくない、と言うのが本音だ。それでも、ここでスミスだけを残す選択肢などはイサミの中には無い。まぶしい。あつい。さようなら。
 
 ルルの慟哭が聞こえる。返して。私の大切な人を返して! そうだ。悔しい。過去が、得られなかった未来への羨望が断ち切れぬので、悔しい。もっと出来たはずなのだ。人間の尽力はこんなものではない。もっと奇跡が連続したのなら! そうだ。過去を、幸せになる筈の未来を返して! そんな生者の勝手な願望が積み重なり、ある者は記憶を引き継いで、ある者はすっかり忘れ果て、時の輪の中に閉じ込められる。いつだって世界を変えるのは、たった一つの願望なのだ。
 あの時イサミに抱かれていたスミスにも、実は感覚があった。もう一度やらせて欲しい。きっと今度はうまくやるから。神を信仰していなくても強く願った。ああ許されるのなら、今度は俺がイサミを抱いて戦うんだ。君に悲しい思いなんてさせやしないさ。この世界も、君が笑うだけの物で溢れさせようじゃないか! スミスの願いが叶った時、その瞳の色は緑に変わっていた。それまでの軌跡の中でそれぞれの輪は揺れ動く。その軌道を忘れぬように、彼らの歩み続ける道を見て行こう。
 
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