【タイトル】胸を貫く呪い
【本文】
 村が眠っている。月明かりの下、人々の気配は深い水底に沈んでいる。起きているのは、夕方の雨に濡れた新緑の草木とフィーナだけ。時計を見ると、短針が九の位置を指している。もうじき日付の変わる時刻だった。
 フィーナはまるで眠れていなかった。のそりと自身のベッドから這い出し、室内履きに足先を入れる。足音をひそめて歩こうと思っていても、微かにぱさりぱさりと音がたってしまう。
 フィーナの爪先はアドルの部屋へと向かっていた。でもきっと、このくらいの足音ならば彼を起こしてしまうことはないだろう。
 ランプは持たない。眠れずに夜闇の中にずっと居たから。フィーナの目は月明かりだけでも辺りがよく見えるように順応していた。昼間から夕方にかけてずっと雨が降っていたが、次第に雲は晴れて、今ではすっかり美しい星月夜だ。春だけれどこちらに夏の一歩が近づいてきている、雨上がりの澄んだ空気。
 そっと彼の部屋のドアを開けて、閉めないままアドルに近づく。一歩進むたび、薄い素材の長いスカートの寝巻きが脚に絡んでくる。
 フィーナはそっとアドルを見下ろす。ゆっくりとした規則的な寝息をたてていた。フィーナはすうすうと穏やかに、気持ち良さそうに眠るアドルの顔をじっと見つめる。窓から入ってくる月明かりが、アドルのくっきりした鼻と長い睫毛の影をつくっていた。普段着込んでいることが多い彼にしては珍しく、胸元が大きく開いた寝巻きを着ており、寝返りではだけたのであろう肌がちらりと見える。いけないものを見てしまったようで、フィーナは視線を逸らした。
 夜風が吹きこんでくる。釣られるように窓のほうを見上げれば、アドルの部屋の窓は少しだけ開けられており、夏の気配のする青々しい空気が室内に雪崩込んだ。濡れた新緑の匂いはフィーナの胸の一番大事な部分ををとん、と突き刺した。
 もう、今晩が最後だから。記憶以外の何もかもが満たされた生活は、すでに終わりを迎えていた。私にはやるべきことがある。フィーナの青い髪が、ぬるい風で揺らされる。
 小さく静かに息を吐きながら部屋を見回す。机の上には、表紙を上にして伏せられた読みかけの本が放置されていた。ベッドの足元に置かれた、綺麗に磨かれた鎧の側には剣が立てかけられている。明日着るのであろう洋服は几帳面に畳まれていた。フィーナはベッドに視線を戻すと、アドルの顔の側にしゃがみ込む。
 毛布は腹にしかかけていなかった。アドルはやや首を傾けつつも、上を向いて眠っている。白い枕に美しい赤が無造作に広がっていて、それを見ていると、フィーナは自身に呪いをかけることを躊躇わざるをえなかった。
 愛おしい赤。深い眠りに落ちている彼から起きそうな気配はしなかった。フィーナは片手で髪を寄せて、ベッドに片手を沈ませる。健やかな寝息を、一瞬だけそっと閉ざすようなキスだった。唇同士が触れるだけ。月明かりでつくられた二つの睫毛の影が交差する。
 アドルは知らない。自身の想い人と知らぬ間に口付けを交わしたことを。その人が、愛おしげに自身を見つめていることを。
 フィーナは自分ですると決めたこととはいえ、生身のアドルの息の温かさや唇の柔らかさに、全身がかっと熱くなっていくのを感じた。一瞬で湧き上がる幸福と後悔、自責の念。それからアドルへの想い。私だけが抱えておける、アドルさえ知らない私だけの秘密。最初で最後のキスは、諸刃の刃だった。離れがたい、離れがたい、離れがたい。この夜が明けたら、アドルはこの町のために剣を携えて行ってしまうのだ。今日が、ここで過ごせる最後の平穏な時間。彼はまたこの日々に戻ってこれると思っているだろう。しかしフィーナはこの日が最後の夜だと知っていた。今日をアドルと過ごす最後の夜にしなければならないことを、思い出してしまったのだ。
 私と彼の生きる時間の流れは違うから、自分だけの秘密を作りたかった。私がいたことを忘れないでほしい。私も、彼がいたことを忘れたくない。だからこれは、呪いなのだ。アドルへの想いをずっと鮮明に胸の中に飾っておくためには必要な行為だった。
 フィーナはアドルに背を向けて立ち上がる。アドルの部屋のドアは、静かに閉ざされた。
おわり!
ありがとうございました☺️
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【大遅刻】キスの日のアドフィー書く
初公開日: 2024年05月30日
最終更新日: 2024年05月30日
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コメント
キスの日、7日目━━
イースのアドルとフィーナの二次創作を書いています。
残る君
pixivに上げたSSS集「蚊帳の外」の続編になるかならないか
ぱな