そのラッパは天使の吹くもの。天国へ誘う為のもの。階段を作るもの。道筋を示すもの。地上に漂う哀れな魂を、神の御許へと遣わすための音。その音の悲痛さが鼓膜を揺らし、脳を揺らす。その音がまっさらなこころに文字を落として来る。戦死という冷酷な文字を。
「落としてしまったようだが」
サタケが何かを拾い上げた。床と軋んだ音を立てたのは、腕時計である。安っぽい作りの腕時計である。新兵の時に買ったであろう年季の入った物だ。ベルトは交換されたのか修繕しているのかやけに真新しい気がする。それに加えて盤面には傷が付いているようだ。動いていないのかと思ったが、秒針はちくたくと動いている。現役の時計だ。だが、式典に参加したプラムマンの腕には別の時計が嵌っているのをサタケは見ている。
「君のだろう」
「ああ…申し訳ありません。サー」
「君が物を落とすなんて珍しいな。大事な物なんだろう」
ええと頷きながら、プラムマンは腕時計を受け取る。その手には力があまり入っていないように見えた。腕時計を制服のポケットに滑り込ませる。まるで生き物がそこに昔から住んでいたかのように、すとんとそれはポケットに落ちた。従順なペットであるかのように。
「顔色が悪いな」
サタケが気遣うように声を掛けるが、それは張りぼてか木偶に聞かせているかのように彼の体を通り抜けて、声だけが通ってしまったような感覚がする。抜け殻というのにはまだ質量がある。だが今にも消え失せてしまうような危うさがあった。サタケもこの後指揮所に向かわなければならない。プラムマンとて同様の業務がある。だからこの追悼式で消え失せている場合ではないだろう。だがこのような兵士を見たことが無いと言えば嘘になる。生気を失い、英気を失ってしまうことは軍人であればあることだ。死が近しい職業である。その自覚はある。いくら鍛錬によって磨き抜かれた肉体でも、人間は豆腐のようにもろく死んでしまうことがある。その死を、実戦経験のない自分よりもプラムマンは見ているはずだ。それこそ眺めるまでに。そのうつろな瞳が、プラムマンの前のサタケに注がれる。その瞳から、透明な涙が流れ出して頬を伝った。サタケは動揺する。若い頃の合同演習から顔馴染みである。酒を酌み交わした時もあった。その時の陽気な姿が浮かぶ。仲間たちと談笑し、演習で鬼のように厳しい顔が緩むのを横目で眺めたこともある。その瞳が吐き出した水にサタケは少なからず混乱し、何かしなければとプラムマンの肩を掴んだ。
「上級曹長」
「お見苦しい所を。忘れてください」
透明な涙だった。日に焼けた肌との対比して、あまりにその透明感がこころを掴んで離さないでいる。ハンカチを出すのも忘れていた。指で拭うのが正解では無いだろうが、咄嗟に頭に浮かぶものが何も無い。
「忘れられないよ」
かろうじてそう振り絞るのが精一杯だ。涙が止まったであろうが、うるんだプラムマンの瞳がゆるゆるとサタケを見やる。怪訝な目である。
「忘れるのも務めです」
「ハンカチも差し出せない俺に、そんな弱みを見せてもらっては。…歯がゆいばかりだ」
「忘れてください」
プラムマンは繰り返す。だがうつろではなく、次第にいつもの声の調子に戻っていた。聞きたいことは山ほどあった。この腕時計は、何故泣いたのか、その相手は追悼式にいるのか、どのような関係か、君が。泣くほどの相手への尽きぬ興味を押し殺して、サタケはただこの涙を誰にも見せまいと盾になる事しか出来ずにいた。そのせいかがっちりとプラムマンの両肩を掴み、その顔を誰にも見せぬように腕の中に押しとどめている。
「俺に何故見せたんだ」
「…漏れ出しただけだ」
「君らしくない。いや、それだけの相手なんだな。分かったよ」
何を納得しているのか、一人でサタケは呟く。そうだ。それ以上に深入りするのが正解とは思えない。だがこの場で、プラムマン上級曹長が取り戻されるまではサタケ二佐としてこの場にいなければならない気がした。大丈夫、と気休めにならない言葉を贈るでもなく呟く。
「忘れられないかもしれないが、その」
「落ち着いてください」
「なんで俺が慰められてるんだ…?」
あべこべな事実に、サタケが困惑しているのを見てプラムマンはふっと笑う。
「落ち着いてください」
「…はあ、心臓に悪い」
サタケは素直な言葉を口にする。それは相手がプラムマンだからだ。年上の教官経験のある相手。軍人としての実戦経験は数知れず、実績を作り生き残ってきた猛者だからだ。素直に感服する彼の業績に、人柄に目がくらんで見誤ったのか? いやこの相手をそこまでサタケは知らない。知らないはずだ。失われたパズルのピースが目の前にぽつんと落ちた気がした。それを拾っていいのかがサタケには分からない。
「忘れてください」
目を合わせて子供に言い聞かせるように落ち着いていて、プラムマンのまっすぐな瞳にサタケは頷くしかなかった。今はこのピースを拾って大事に胸に抱えなければならない気がした。