日課のランニングは、早朝のまだ日も昇らない暗がりから始まる。アパートからまっすぐ東に向かって走り続けると、その途中に歩道橋がある。そこで一旦呼吸を整え、再度スタート。最近できた大きなショッピングモールを通り過ぎ、片側二車線の道へ出る。さらに走り続けると、中心市街地を流れる川にかかる大きな橋に辿り着く。その橋は山なりになっていて、勾配もなかなかある。そこを通り過ぎてひたすら東へ。ビル街にひっそりと佇む寂れた神社がゴールになる。片道五キロの道なりだ。その頃には朝日が昇り、帰りは背中に太陽の光を浴びながら、西に向かって走る。家に着くころにはもうくたくたで、それでもシャワーを浴びてすぐに出社の準備をする。健康的な生活のように見えるが、俺は俗に言う社畜という生き物だから、帰宅は深夜近いし、睡眠時間も圧倒的に少ない。それでも走り続ける理由がある。
 「あれ、何か病気しました?」
 健康診断の結果を勝手にのぞき見したのは、隣のデスクの宇佐美だった。声高らかにコレステロールの数値や視力、尿検査の結果を音読するものだから、慌てて取り上げて頭を叩いた。
「勝手に読むな」
「体重減ってますね、もしかして気にしていたんですか?」
「してない。健康づくりだ」
 若さが羨ましい。どんなに無理をしても、どんなに深酒しても暴食しても、どんなに夜遊びしても、すべてにリカバリーが効く二十代だ。俺にもそんな時代があったのに、三十代の半ばを過ぎると途端に全身にガタが出る。「きつい」「疲れた」「もう嫌だ」で済むならいい。それが客観的なデーターとして突き付けられるから厄介だ。今年の春の健康診断の結果は分厚い封筒で返ってきた。中には『二次検診を受ける方へ』の手紙も同封されていた。
「健康とか、もうすっかりおっさんですね、あっ、前からそうでした」
 お前もじきにこうなるからなと、言葉には出さずに念を込めて尻を軽く蹴る。せいぜい三十代になった時には後悔すればいい。俺のことを馬鹿にした今日のことと、今までの好き勝手生きてきた生活を。宇佐美を追い払い自分のデスクに座ると、いつもの弁当を広げる。今日は、いや、今日も鶏むね肉とゆで卵とブロッコリーの詰め合わせだ。このメニューは、完璧に筋肉系お笑い芸人の影響だ。
 今日もいつものように五時に家を出る。凍てつくような空気の中を無言で走る。新聞配達のバイクとすれ違い、早朝に犬の散歩をするご老人とすれ違い、ウォーキングをするご婦人とすれ違う。いつもの顔なじみと軽い会釈をして、その頃には東の空が少しずつ白く染まる。雀の鳴き声が響き渡り、徐々に町に朝が来る。休憩ポイントを過ぎると、そこからは自分との戦いだ。止まりたい気持ちに喝を入れて、早い呼吸と歩幅がシンクロする。もう少し、あと少し。頑張れ、頑張れ。額に流れる汗が目に染みる。ランニングシューズの靴底に小石が挟まったのか、走るたびにコツコツと間抜けな音がする。ああ、この石を除きたい。一旦立ち止まって靴を脱ぎたい。この間抜けな音が気になって仕方がない。それでも走り続ける。痛くなるわき腹を抑えながら、最後の力を振り絞ってスパートをかけると、ようやく橋が見えてきた。なだらかな勾配の、その頂上。今日は、いる。
「おはようございます」
 青年はその場で軽くストレッチをしながら俺を待っていた。完全に顔を出した朝日が彼を照らす。水面に光が反射して、眩しくて目を細めた。彼には俺のその顔が辛そうに見えたのだろう。「大丈夫ですか」と駆け寄って来た。
「大丈夫です、さっき着きましたか?」
「はい」
「じゃあ、ラストスパート行きますか」
 先程よりもスピードを上げて、橋を二人で駆ける。一人だった呼吸が二人重なる。神社までもうすぐ。ちらりと横目で彼を見る。平気な顔で、しかも少し笑っている。宇佐美にしろ彼にしろ、若さがただただ羨ましい。いや、今まで仕事を盾に自分の健康を蔑ろにしていた俺が悪いんだけど。
 あと500メートル、あと400メートル。あと100。50。10メートル。
「着いた!」
 神社の鳥居にタッチする。滝のように流れる汗と、乱れる呼吸。Tシャツがびしょびしょだ。中年の身体に片道5キロは辛いことは分かっていた。途中で何度も、やめようと思ったことか。もっと短い距離にしようと思ったことか。それでも止められない理由は、ここにある。
「じゃあ、また」
「はい」
 青年は来た道を再び走って帰る。橋を渡って、右に曲がった中心市街地に住んでいると話していた。2年ぐらい走り続けていて、一人暮らしで、実家が九州で。知っているのはそれぐらい。片手で収まる情報しか無い。それでも、ここ半年はずっと彼と走り続けている。出会いなんてロマンチックなものはない。ただ同じ時間に橋に辿り着き、同じ時間に神社まで走る。目的地もタイミングも同じだから最初は気まずかったが、気が付けば会釈をする仲になり、気が付けば声を出して挨拶をするようになり、気が付けば橋の上で待ち合わせをするようになった。会話という会話は無い。2年ぐらい走り続けていた事実は自分から話していたし、九州産まれというのも彼が少し訛っていたから尋ねただけだ。あとは、顔が良いとか、背が高いとか。
 このランニングを継続する原動力は、健康づくりなんていう健全な動機じゃない。恋だ。
 中年の恋なんて笑ってしまうよな。だからずっと黙っている。こんなことを打ち明けると、きっと青年はもうこの橋で待ってくれなくなる。みっともないよな、気持ち悪いと自分でも分かる。だから黙る。黙って、走って、別れて。それでいい。彼と一緒に走る数分間が貴重なのだ。中年の青春はきっと儚い。彼にも恋人がいるのかもしれないし、結婚しているのかもしれない。一緒に走ることだって、明日には叶わなくなるかもしれない。俺だっていつ病気するか分からないし。
 だから、黙る。言わない。ただ一緒に走ってくれれば、それでいい。
 我ながら健気だと思うと、乾いた笑いしか出てこなかった。そうやって一人でニヤニヤしていると、彼の背中はずっと遠く、段々と小さくなり、消えた。
 「寒い」
 明日が正月という大晦日。早朝は相変わらずいつもの様相だ。深夜は氷点下まで気温が下がり、凍った水たまりに滑りそうになって肝が冷えたこと以外は、普段と変わらない。耳が千切れるほど痛いのに、10分も走ればうっすらと背中に汗が流れる。去年の今頃はこたつで寝て起きて、酒を飲んでまた寝ての繰り返しで、自慢の腹筋の上に脂肪が乗っていた。もともとは筋肉質だったのに、会社の宇佐美はそんな俺の栄光など知らずに「中年って嫌ですね」と腹の肉をつまんでいた。今では「健康のために走るって、いよいよ老人ってカンジですね」と、また新しい嫌味を言うようになった。あいつは俺が骨になっても嫌味を言うだろう。
 いつものように橋の手前でスパートをかける。その頃にはしんどさも消え、導かれるように足が前に出る。継続は力なりとはよく言ったものだ。身体が10キロのランに慣れたのだ。
「おはようございます」
 今日は俺が早かった。2分程待つと、遅れて青年が来た。
「今年最後のラストスパートですね」
 二人で肩を並べ、一気に駆け降りる。冬休みに入った町は、いつも以上に静かだった。車や人も、雀すらも飛ばない。ようやくすれ違ったのは、犬を連れたご老人だけだった。
「ゴール!」
 鳥居にタッチし、呼吸を整える。今年最後のランニングの片道が終わった。俺は冬休みだから時間もあるし、この後は帰ってジムに行く予定だ。青年はどうするんだろう。九州に帰るのか、それとも誰かと過ごすのか。汗をぬぐう姿を横目で見ていると、目が合ってしまった。胸が思わず高鳴った。おいおい、中年のくせにと心の中で自分を叱る。汗を流した青年も、相変わらずかっこいい。正直、タイプだ。でも言えない。ああ、ただただ悔しい。
「今年もお世話になりました」
「お世話になりました」
 深々と頭を下げられて、思わず深く下げ返す。営業をしている男の習性だ。
「では」
 ああ、また彼は去っていく。でも言わないし、言えない。好きだという言葉をぐっと飲み込み、「良いお年を」なんて、大人ぶったセリフを吐く。そのまま恋人とデートかな、それとも友人と買い物でも行くのかな。大晦日の街を、彼はどんな顔で、どんな服で歩くのだろう。でもこういうのもセクハラに抵触するのだろう。ハラスメント研修で学んだ。悲しい時代になったものだと思ったし、それでも、その流れに身を委ねないと若者に疎まれる。宇佐美も、目の前を走り去る青年も、同じ若者だ。俺は若くないから、自分の身の程を弁えている。彼のとっての俺は、ただ同じ道をランニングする謎のおじさんでいなければならないのだ。
「あの」
 青年は神社に再び戻って来た。少しだけ顔が強張っている。俺、何か不味いことを言っただろうか。
「明日も来ますか」
 突然の問いに、一拍置いて、慌てて頷いた。
「新年ランの後、初詣しませんか、ここで」
「えっ」
「あっ、予定とかありました?」
「ないない!します、初詣」
 青年の顔が明るくなる。俺も思わず、頬が緩む。
「そのままウチに来ませんか」
「えっ」
 今度こそ固まった。夢なのだろうか。いや、夢なはずがない。
「実家からお節が毎年届くんですよ。食べきれない量なので、良かったら」
 俺は青年の名前も知らない。どこに住んでいるのかも、何歳なのかも、何をしているのかも。互いに不可侵の領域のまま、今年を終えようとしたらこの展開。勿論期待などはしてはいけないが、この幸せな気持ちを瓶に詰めて、記念に持ち帰りたいと思うことは、中年には許されるのだろうか。
「最高の年明けですね」
 そう言うと、青年は満面の笑みで「俺もです!」と元気に返してくれたのだった。
【終わり】
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月鯉現パロをだらだら書く
初公開日: 2024年02月02日
最終更新日: 2024年02月02日
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タイトルの通り、月鯉現パロをつらつらと書きます。