見たい映画を見逃さず見るにはもはや1日1本以上でないと足りません。というわけで、今日は梅田ブルク7改めTジョイ梅田と塚口サンサン劇場に連続で行ってきました。
 まずはTジョイ梅田で見てきたのは、以前からこれは見ようと目をつけていた「月」。
※写真は今見たら自分の姿ががっつり映っていたのでなし。これでわたくし人形使いは吸血鬼ではないことが証明されましたね。
 本作は、実際に起こった障害者施設での殺人事件である「相模原障害者殺傷事件」をモデルとした作品。主人公である元有名作家・堂島洋子が務める森の中の障害者施設では、職員たちによる入所者への日常的な虐待行為が日常化していました。そんな施設での実情を目にしながらもなんとか日々を過ごす洋子ですが、いっぽうで同僚の「さとくん」という青年は日々の業務にストレスや疑念や使命感を募らせていきます。そしてさとくんはとうとう、「心を持たない障害者は処分するべき」という考えのもと、殺人に踏み切り――。
 本作はまあ当然のことながら、「実際に起こった障害者殺人事件をモデルにしている」という点がまず最初に目を引きます。また、施設内で行われている虐待行為や入所者の様子が生々しく描写されている……というか、調べたところ実際の障害者が出演しているそうです。本作における入所者の中にはほとんど監禁状態だったり、外界の刺激にまったく反応しなかったりという重度の入所者も遠慮なく描写されています。
 ことフィクションの世界では控えめに、場合によっては「尊い存在」として神聖化されて描写されることも珍しくない「障害者」という存在を、そして彼らや彼女らが生活している障害者施設の内情を「フィクションとしての都合良さ」を排除して、隠さずにカメラを向けていることにまず衝撃を受けました。
 都合の良さを排除されているのは障害者側だけではありません。前述のとおり、本作の障害者施設では職員による入所者の虐待が日常的に行われています。その虐待行為もやはりフィクションとしてわかりやすい虐待ではなく、例えば「懐中電灯の光を当てててんかんの症状を起こして遊ぶ」といった生々しい具体性のある行為で、見る人によっては強い嫌悪感を覚えるであろうものとでした。
 しかし、直接的な虐待行為をしているわけではない洋子やその同僚たちもまた、障害者施設での仕事を望んでやっているわけではないのが、本当は障害者の世話なんかしたくないのがまったくカックせてないんですね。
 思うに、本作の全体を貫くテーマとして、「都合が悪いから、汚いから、醜いから隠しておきたいけど、薄紙一枚貼る程度の隠し方しかできていないから隠しているものが見え見え」があるんじゃないですかね。
 虐待行為を行っている職員たちはわかりやすいからまだマシであって、障害者が虐待を受けていることを知ってショックを受けたり、そのことで院長を問い詰めたりしている洋子の行為はあくまで上っ面でしかないというのが見え見えという。
 洋子は自発的に行動をしない長期入所者「きいちゃん」の誕生年月日が自分と同じであることから親近感を覚えますが、それにしたって洋子が一方的に自分の投影したいことを投影してるだけなんだよな結局。
 というか本作、どうしても前述のような障害者に関する描写や実際に起きた事件を題材にしているという点ばかりに目が行きがちですが、そうした部分は実は舞台設定にしか過ぎず、本当にこの作品の中核にあるのは「価値のある人間/価値のない人間」「価値を失うこと」だと感じました。
 本作に、ひいては現実に通底しているのが「価値」という概念です。
 主人公である洋子はかつては有名作家ですが、現在は息子を失ったことがきっかけとなって書けなくなっており、「作家としての価値」を失っています。
 その夫である昌平は、ミニチュアを使った映画を作ることで自分の価値を確保しようとしていますが、世間に評価されていません。
 洋子の同僚である陽子も作家を目指しているもののうまく行かず、さとくんは同僚たちから軽んじられています。
 このように本作の登場人物は、誰も彼も価値を得られず、あるいは失っています。そして「価値という概念」に誰もが振り回されているんですね。
 障害を持つ幼い息子を亡くした経験を持つ洋子は劇中で再び妊娠しますが、出産前検査で自分の子供に障害があるかどうかを調べるかどうかを悩みます。「検査で妊娠中の子供が障害を持っていることが分かった場合中絶する」という選択をとることは、「障害を持っている子供には価値がないのでいらない、健常な子供には価値があるのでいる」ということにほかなりません。では、すでに死んでしまった障害を持っていた自分の息子には生きる価値がなかったのか?
 作中終盤でついに施設内の障害者の選別と殺害を決意したさとくんと洋子が対峙するシーンでは、この問いはもっと直接的に、さとくんに投影されたもうひとりの洋子によって問われます。
 すなわち、「出産前検査で障害を持っていることが分かったら中絶すること」と「ベッドから起きることもできず自発的な行動もできないただ生きているだけの障害者を間引くこと」は同じ「価値」観からの行為なのではないか?
 すなわち、洋子もさとくんも、自らが他者の価値を決定し、選別しようとしているのではないか?
 さとくんは要所要所で、繰り返し「僕は洋子さんと同じ考えです」という言葉を口にします。これはつまり、さとくんの行為は実質的には洋子と同じものである、もっと言えば洋子がしたいけれどやれない、できない行為であるという意味だと感じました。
 さらにさとくんは、同じく要所要所でまるで他の人の意志や同意を受けて行動しているかのような言動を取ります。これ、このさとくんというキャラクターは一個のキャラクター、さらに言うならモデルとなった一連の事件の犯人ポジションと言うよりは、観客席でこの作品を見ている我々が心のどこかで「価値のない障害者」に対して思っていることそのものの擬人化なんじゃないでしょうか。
 口で誰もが平等であるべきとか障害者だって尊重されるべきだとか言うのは簡単です。しかし、自分がその世話をしたいと思うか? 自分が障害者になりたいと思うか? 家族が、これから生まれてくる自分の子供が障害者だったら? 日常的に障害者の糞尿に塗れる生活を送れるか? 自発的な行動を一切起こさない障害者に対して、意志や心を見出すことができるか? 価値のないものに価値を見いだせるのか? 価値のないものは必要か? 価値のない自分に耐えられるか?*
 さとくんというキャラクターは、そうした問いそのものだったと思います。
 本作は、「障害者にも平等に価値はある」という上っ面のハッピーエンドでもなければ、実際の事件をまとめたドキュメンタリーでもありません。本作の本質はこの問いそのものだと思います。
 終盤で、洋子は夫の昌平の自分の作品がフランスの小さな映画祭で受賞したことに涙を流して喜びます。このシーンを見ているときのなんとも空々しい気持ちが忘れられません。このシーンは、間違いなく観客にどうしようもない薄っぺらさを感じさせるために意図されていると思います。
 受賞したとはいえ、賞金はたった5万円。映画祭と言っても非常に小規模なもの。そしてなにより価値は永続しない。この受賞で二人の人生に絶対不変の幸福が約束されたわけでもなければ、過去の悲しみが帳消しになるわけでもない。
 思い出の寿司屋に行ったふたりの背後で、施設で大量殺人が行われたニュースが報道されるあのシーン、ふたりがまったく預かり知らないところで一連の事件が行われていた、完全に手遅れだったというあのシーンの残酷さよ。
 洋子は衝動的に立ち上がって施設に向かおうとします。そして言います。「私にできることをしなきゃ」。この時点でもうなにひとつ残ってないんですよね彼女にできることなんか。このセリフの虚しさたるや。
 そして本作はここで終わります。もはやできることはない。
 思うに、本作は前述の通り「価値」という呪縛に囚われた人々=私たちの姿、そして知らず知らずのうちに自分だけではなく他者の価値を決めている人々=私たちの姿を描いた作品であると感じました。スクリーンの中の人々は、誰もが自分の一側面、自分の「価値」感の一側面であると感じました。そういう意味では、本作は実際の事件をモデルにしているということとはまた違った点で、現実側に一歩踏み込んだ、ある意味メタフィクションとさえ言える作品だったのではないかと思います。
 次は塚口に移動してこれ。
 もはや説明不要の名作です。残念ながら「グランブルー」は見逃してしまったのでこっちは絶対に見るぞという鋼の意志で見てきました。
 まず言っておかなくてはいけないのがゲイリーゲイリーああゲイリー。
 みんな大好きゲイリー・オールドマン演じる悪徳警官スタンスフィールドがもう最高。ひと目見てやべーやつとわかる見た目なんですがどこか茶目っ気があって好き。冒頭の戦闘シーンだけでも濃厚なゲイリー・オールドマン成分が吸引できます。そしてタブレットを噛む仕草と暖簾を開ける仕草は誰もが真似するよね。
 言うまでもないことですが、ジャッキー・チェンは高いところから落ちるのが仕事、トム・クルーズは飛行機からぶら下がるのが仕事、ならゲイリー・オールドマンは爆死するのが仕事です。本作でもいい感じに爆死してくれてるので最高。マイベスト爆死シーンには本作のラストが殿堂入りですよ。
 そしてナタリー・ポートマンにも言及せねばなりますまい。調べてみたら本作撮影時のナタリー・ポートマンは11歳。この年齢で実にさまざまな顔を見せてくれます。
 これはただ単に「かわいい」とか「美しい」ではなく、唯一無二性だと言えるでしょう。もちろん彼女の魅力を引き出したリュック・ベッソン監督の手腕もあるでしょうが、本編中でナタリー・ポートマン演じるマチルダが見せる少女の顔、大人の女性の顔、子供の顔、娘の顔、恋人の顔そして母親にさえ見える顔といったさまざまな顔は、いずれ時間の経過で失われて二度と戻れないこの年齢、この瞬間の彼女でしか表現しえなかったものだと思います。改めてこの作品を見ると、「ひとりの人間がこれだけの表情を見せられるのか!」と驚かずにはいられません。
 個人的にはリュック・ベッソン監督というと「フィフス・エレメント」や「ヴァレリアンズ」といったSF映画のイメージのほうが最近は強かったんですが、改めてこの作品を見ると独特の乾いた空気感を感じられました。そして、ひとり残されたマチルダが鉢植えの観葉植物を木の根元に埋めるラストシーンにかかる「シェイプ・オブ・マイ・ハート」がまたいいんだ……。
 サンサン劇場はこうして突然往年の名作を上映し始めるので油断なりません。今度は何が来るのか楽しみです。
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Tジョイ梅田「月」、塚口サンサン劇場「レオン完全版」見てきました!
初公開日: 2023年11月02日
最終更新日: 2023年11月03日
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