目が覚めたとき、体がふうわりと軽くて、ああ、わたしは死んだのだと思った。
つま先立って歩いてみても、だれもわたしに気づきはしない。雲にでもなったような、蜃気楼のような、心許なく自由で、さびしくて、ああ人恋しいと、叫びたいような気持ちがする。
ふと視界の端でやわらかな金が揺れ、わたしは目を奪われた。待ってと叫んでも捕まらなくて、走って、もがいて、ぐんと腹の底が冷える。長い腕がわたしの体を掴んで持ち上げた。くるんとまるまって、わたしはまるで仔猫みたい。くすくすと込み上げる心地よさに笑っていると、涼やかな瞳がわたしを覗き込んだ。
「猫だ」
「ああ?」
彼の声に金色が振り返る。鋭い視線に打たれた胸が、ときんと軽やかに跳ねた。
「猫はいい」
「おまえが猫好きなんて、聞いたこともねえぞ、蜜柑」
蜜柑と呼ばれた彼は甘さのない目つきで金色を一瞥し、わたしの顎を不器用にくすぐる。
「『心の支えは猫』と三島由紀夫は言った」
綺麗な二重に彩られ、瞳は濡れて艶やかだ。
「谷崎潤一郎は気に入りの猫を剥製にしたそうだぞ」
「剥製だって?」
思わずといったふうに金色が目を開く。わたしも驚いて、その拍子に背中の毛がぶわりと逆立った。彼は素知らぬ顔のまま突っ立っているので、わたしは震える体をなんとか捩り、金色の胸へと飛び込んだ。おっと、と言いながらも金色の上体は揺れず、しっかりとしたぬくもりをわたしにくれる。
金色はわたしを抱え込んでじっと観察するような目で見てきたが、急に落ち着きなく足を踏み鳴らし、「蜜柑、まずいな、こりゃ」と言った。
「まずい? 何がだ。おまえのまずいことに俺を巻き込まないでくれ」
「おまえも関係ある」
「どうした」
「三日前、ひとを轢き殺しただろ」
「殺した」
「そのとき巻き込んで轢いた猫だ」
彼は金色の腕のなかにおさまるわたしを覗き込み、金色を見て、またわたしに目を落とした。
「まさか」
ちいさな呟きはひとりごとのようで、雑踏に紛れて消えてしまう。
「そのまさかだぜ。見ろよこの胸の飾り毛を。俺はな、一度見たものは忘れないんだ。小学生の頃、隣の席のたくみくんが俺の消しゴムを盗んで名前まで消してくれたが、俺は自分の消しゴムをちゃんと覚えてた。微妙な凹みとか、でっぱりとか、あるだろ。消しゴムにも個性があるんだ。たくみくんの消しゴムの特徴もちゃんと覚えていたから、その辺に落ちてたたくみくんの消しゴムを、ちゃんと盗み返してやったぞ、俺はな」
自慢げに胸を張るので、わたしは危うく落ちそうになってしまった。慌てて服に爪を立てる。生地が軋む、嫌な音がする。
「おまえも覚えてるだろ、蜜柑。いっしょに公園に埋めただろうが」
「まさか」
彼は冷たい面持ちのまま繰り返す。瞬きの拍子に、目の下に翳が生まれた。
暗くて、さみしくて、泣いてしまいそうな土の下。
愛されて剥製になったのならさいわいでしょうね。
わたしをもっと撫でてください。わたしを愛して、そうしていっしょにいきましょう。暗くて、さみしくて、泣いてしまいそうな土の下へ、みんないっしょなら、ねえ、構わないでしょう。
「猫の幽霊か」
彼は自分の顎を指先で神経質に擦り、瞬きを繰り返す。そんな彼を放って、金色はのんびりとした調子で言う。
「こういう時ってさ、やっぱり寺かな」
「神社じゃないか。猫好きの神様に預けるとか」
「そんなやついるかよ」
「八百もいれば猫好きも犬好きもいるだろう」
「トーマス好きもいるか?」
「いるんじゃないか」
どこか投げやりな言葉に金色は目を輝かせ、わたしの耳に唇を寄せる。
「トーマス好きの神様がいたらさ、伝えてくれよ。『あなたを心から信望したい殺し屋がいますのでどうか夢に出てきてください』って」
「夢で逢ってどうする」
「決まってるだろ。どの機関車がトップハム・ハット卿を支えるに相応しいか朝まで討論会だ」
「神様も大変だな」
ああうるさい。やかましい。わたしはうんざりとした気になって、金色のぬくもりも鬱陶しくて、ぴょんと腕から抜け出した。あっという金色の小さな叫びも無視だ。わたしは自由に生きたい。死んでなお、わたしは自由に風を受けて生きたい。
あーあ、と金色はわたしの尻尾に向けて言った。
「あったかくて気持ちよかったのに」
「猫は気紛れだな」
彼はほんの少しだけ面白がったふうに笑う。
「剥製だなんてもったいないな。幽霊だろうが、猫は自由にいた方がいい」
殺したくせに、嫌な男。
けれどなぜだか嫌な気はしなくて、わたしはふたりを振り向いて、愛らしくにゃあんと鳴いてあげた。
目が覚めたとき、体がふうわりと軽くて、ああ、わたしは死んだのだと思った。
死んだってわたしはなんにも変わらない。わたしの尻尾は穏やかな天気に弾んでいるし、左右に伸びる髭は一歩踏み出すたびに楽しげに跳ねる。わたしの鼻腔に広がるにおいは、人々のよろこびとかなしみに満ちている。
「あ、見ろよタンジェリン。犬だ」
ふとわたしの名を呼ばれた気がして顔を上げる。
大柄な男がじっとわたしを見下ろしていた。
こんにちは。
お愛想をして尻尾を振ると、彼は無表情のままわたしの目の前にしゃがみ込んできた。差し出される指に鼻を寄せる。ポテトチップスと、チョコレートと、血と、やすらかな愛情のにおい。
「おとなしいな。飼い犬かな」
野良ですよ。今となっては、愛した主人もおりませんもの。
思いの外、彼の指先は繊細で心地よい。やさしくて、無機質で、だれをも愛さない冷たさがある。
やすらかな愛情は、だれのものなのかしら。
わたしは撫でられながら考える。わたしも愛してくれないかしら。わたしといっしょにきてはくれないかしら。
だってだってさみしいのだもの、くるしいのだもの、愛されなければ死んでしまう。犬って、そういういきものだもの。わたしがいま、そう決めたのだもの。
「人懐こいなあ、おまえ」
彼はなんにも知らないで笑っている。
三日前、わたしの主人を殺したな。よくもわたしの愛したひとを、よくも奪って、よくも。
どうして殺して笑えるの。どうしてわたしの胸を切り裂いて、わたしの命も愛も何もかも全てを奪って、どうして愛情のにおいがするの。
かなしい。さびしくて、気が狂ってしまいそう。
わたしはなんにも変わらない。ふうわりとして、体は軽くて、ただそれだけ。ひとりはふたりには二度とならない。
「タンジェリン、こいつを飼おうか。どう思う?」
返す人は誰もいない。周りに漂うのは冷たい沈黙だけ。
扉を開けた主人を言葉もなく撃ち殺し、噛みついたわたしをも撃った男の面影はない。右腕に覗く包帯だけが、わたしの生きた証であり、彼が人殺しである証だった。
わたしもけだものの端くれだけれど、彼のような無慈悲さはない。愛に育まれ、わたしは愛に生きてきた。
主人のためならなんだってできた。主人とともにいるためならば、わたしは走る列車にすら追いついて、窓を割ってみせただろう。
けれど死んでは追いつけない。主人は遠くへ行ってしまった。
愛するひとを返して。返せないのなら、ひとりにしないで。わたしとともにいきましょう。ねえ。ねえ。
「……やっぱり、だめか」
彼は急にわたしを撫でる手を止める。不審に顔を上げるわたしへ、彼は苦い笑いを唇にのせた。
「相方がな、動物嫌いなんだ。残念だが、いっしょにはいけない」
相方って?
目を白黒させるわたしを置いて、彼はすっくと立ち上がる。ポケットをまさぐり、飴玉をひとつ、わたしの目の前にぽとりと落とした。
「ごめんな。まあ、達者で生きろ」
彼は言うだけ言って、もう振り返ることもなく、さっさと歩いていってしまった。
わたしは飴玉なんていらないし、わたしはあなたに殺されたのだし、生きろだなんて、酷い言い草。
なのになぜだかわたしは立ち竦んだまま動けず、小さく消えていく背中を、ただじっと見つめていた。
それは落とされた飴玉が爽やかで甘くて切ない柑橘の香りをしていたからなのかもしれないし、彼の呼ぶ『相方』に、わたしを呼ぶ主人の声が重なったからなのかもしれなかった。