お題「オリオン座が見えると気がついた日、無数の提灯の前でした、物の見え方が違う人の話」
エンジンを止めた車から降りるのと、携帯が着信で震えたのは、ほぼ同時だった。
『どこまで停めに行ってるの?』
「ええっと、近くのパーキングがいっぱいだったので、ちょっと遠くまで停めに行ってて」
取るやいなや投げかけられた問いに、嘘は容易く口から滑り出た。リトアニアは車に鍵をかけて、街灯の少ない田舎道を歩き出す。車通りの少ないここなら、路駐しようが誰も咎めたりしないだろう。
『ああそう、まぁいいや。早くおいで。でないと間に合わないよ』
電話の向こうから、人々のざわめきが潮騒のように聞こえてくる。適当に相槌を打って、リトアニアは着信を切った。しんと静けさが肌寒さと共にリトアニアを包み込む。間に合わなくてもいいのだから、足取りはゆっくりだ。
最終営業日なんだって、という一言が今日の業務を大いに狂わせた。昼食を食べ終えて、引き続き山のように積み上がった仕事に取り掛かろうとしていたとき、ロシアがぽつりと言ったのだ。
なにがですか、とリトアニアは尋ねたが、本当は尋ねるべきではなかったのだ。尋ねたら最後、もう今日の業務はスケジュール通りに進まない予感があったというのに。けれども尋ねなかったら、それはそれでスケジュールは狂っただろう。
あの宇宙博物館、とロシアは言った。かつてここでは科学技術立国を打ち出し、その啓蒙のために数多の施設が作られた。その中で、自分とロシアの間にしか通じない「あの」がつけられるような施設は、ひとつしか思い当たらない。
「ねえ、連れてって」
ロシアが言う。懇願というほど重くなく、断られても問題ないような口調で言うのだから、リトアニアはそっとため息を漏らす。断る選択肢など与えられていない身にすれば、彼が口にすることはどれも命令なのだ。いっそ、子どもみたいにねだられた方が、仕方がないなぁと堂々とため息をついてもっともらしく腰を上げられるのに。
締切迫る書類の山を机に残して、リトアニアはロシアを車に乗せて道をひた走った。車内は静かだった。ぽつりぽつりと会話はあったが、大半が沈黙だった。ハンドルを握っているのは自分のはずなのに、始まりも道中も静かなせいで、自分の手ではないものによって運ばれているような気がしてならなかった。結局四時間ほど沈黙を分かち合い続け、二人は目的地にたどり着いた。
冬を間近に控え、日没は早い。辺りが水気を増して薄暗くなっていく中、ロシアを目的地の前で降ろして、リトアニアは車を動かした。最終営業日とあって客も多く、近くのパーキングは満車だった。それでもほんの少しいったところは充分空いていたのだが、リトアニアはそれを無視して車を走らせた。ようやく訪れたひとりの静寂から、まだ身を引き剥がしたくなかったからだ。
手に入れた束の間の自由時間を噛み締めて、歩きながらリトアニアは空を見上げた。すっかり宵闇に覆われた空に、ぽつりぽつりと星が瞬いている。もうオリオン座が見える時期なのかとため息をつけば、まだ息は白くならずに空気に溶け込んだ。
消えたくないなぁ、とロシアが呟いたあのときは、息が白くなる時期だった。情勢を鑑みえれば、ロシアが消えるなんてことは毛頭考えられず、むしろ消されるのは自分の方だとリトアニアが腹の中で思って聞いていると、どこか気の紛れるところに連れてってと言われたのだ。あのときのロシアはどんな風に言ったか、リトアニアは覚えていない。ただただどうしたものかと頭を巡らせる方が忙しくて、ようやく捻り出したのができたばかりの宇宙博物館に連れて行くことだった。
当時はまだ物珍しかった上に、スケールの違う話を聞けば気も紛れるだろう、と思って選んだのだが、行ってみればそこで語られていたのは、何万何億年と存在する星もいずれは必ず死を迎え、超新星爆発を起こしてブラックホールとなることだった。よりによってその話題かとリトアニアは冷や汗を流しまくったが、目の当たりにした映像は当時の最新技術が生み出した大迫力のもので、たしかにスケールは馬鹿なくらいに大きく、あまりに大きすぎたためにふたりしてポカンと口を開けるしかなかった。終わってみれば、それがいっそおかしくて笑えたのだ。
「さすがに、星が終わるときまではいなくていいやって思っちゃったよ」
あのときのロシアの苦笑を思い出しながら、オリオン座を見上げる。ベテルギウスが爆発して、見知ったオリオン座の形が崩れるときぐらいなら、もしかしたら自分たちは存在しているかもしれない。だがそのころにはきっと、今とはまったく異なる姿と名前になっていて、使う言語どころか思想も思考もコミュニケーションの取り方も異なっているに違いない。
それでもたぶん、相手のことを本当に理解することはできないという点だけは変わっていないだろう。
「やっときた」
ロシアは宇宙博物館の門の前で待っていた。てっきり、もうとっくに中に入っていると思っていたリトアニアは、想定外のことに目を瞬かせた。
「もったいないことしたね。点灯式、綺麗だったのに」
博物館は数々のランタンで彩られ、ちょっとした祭り会場のようになっていた。もう二度と灯りがつくことがない施設は最後に明かりで満たされていて、きっといつもは目につかなかったところでも見ることができるだろう。それはたしかに美しい光景だ。
明日どころか数時間後には、ここは光を失い、静かな終わりを迎える。星々のように超新星爆発を起こすことなんてあり得ず、ましてやブラックホールが現れることもない。ただただ野に帰り、またそのうち人が手を加えて何かを生み出すだろう。
そういう終わりを、自分たちは無数に見ていくのだろう。辺りにいる人々が見るよりもはるかに多い回数を、この身体で経験していくのだろう。抱く感情も、見方も、いつか「人」とはずれてしまうだろう。いや、もうとっくにずれているに違いない。
この光に包まれた終わりの場所で、それを分かち合っているのはロシアとリトアニアのふたりだけだ。
だから気が乗らなかったんだ、とリトアニアは前を行くロシアの背を見つめる。
認知革命、農業革命、産業革命を経て、この地球を覆い尽くす種族となったホモ・サピエンスとそっくりな姿をしておきながら、自分たちは「それ」ではないのだと突きつけられる場所なんて、この世界の至るところに存在するというのに。なにもわざわざ「あの」とふたりにしか通じない場所が終わりを迎えるときに、そこを選ばなくたって。
人の波が入り口に立ち続けているふたりを避けて、次々と博物館の中へと流れていく。このままきっと、ロシアはここに立ち続けるに違いない。
リトアニアはため息をついた。そうでもしなければ、やってられなかった。肺の奥底から息を吐き出して、その様子に少しだけロシアがたじろいでいるのを見て、その手を取って門の中へと踏み込んだ。
「せっかくなら終わりを中から見ましょう。俺もいますから」
人の波を掻き分けて進みながら、前を見つめたまま、リトアニアは後ろのロシアに向かって言った。潮騒のようなざわめきが強くて、その声はもしかしたらロシアには届かなかったかもしれない。それでも黙ったままついてくるロシアの手が、少しだけ力を込めてリトアニアの手を握り直した。
今こそここにブラックホールが現れるべきだと、リトアニアは思った。