いぎたなし、と、どこかたどたどしく復唱した鈴芽に頷いて見せた記憶が草太の脳裏にひらりと蘇る。たしか高校三年生、彼女が受験生の冬のときのことだった。
「漢字で書くと、こう」
ノートの端に「寝汚し」とシャーペンを走らせると鈴芽は感心したように「へえ」と声を上げる。宮崎の地を踏んで、彼女に会いに行った冬の日。窓の外の吹きすさぶ海風は露出した皮膚を刺すような冷たさだった。草太は「受験生に指導をお願いします」と環から頭を下げられ、そうして暖かな彼女の部屋に立ち入ることを許可された。
鈴芽は湯気の立つマグカップのふちに慎重に口をつけ、ゆっくりとココアを嚥下していた。
「なんだか実感わかなかったけど、本当に先生みたい。宗像先生だ」
「みたいって……まあ、おかげさまで教員免許持った先生だし、専門は国語だし」
「ぐっすり眠っている様子を意味します。ちなみに現代語としてもほとんど同じ意味で使われます」と咳払いしてかしこまった説明をすると、目の前の鈴芽は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ふーん、草太さんのことだね。覚えやすい」
「……俺は朝は強いほうだけどな」
「それはどうかなあ」
ふふん、と機嫌が上向いた鈴芽にその当時、草太は首を傾げたのだった。
◇
無機質なアラーム音が最初に鳴ってからきっかり五分経った。草太が与えた猶予は早々に終わってしまったらしく、スヌーズ機能で彼女のスマートフォンは再びけたたましいアラームを響かせ始めた。
──にも関わらず、頭まで布団を被って鈴芽は穏やかな寝息を立てていた。
本来今日は日曜日の朝で、教職に就いている草太は休みだった。しかし看護師として働いている鈴芽は不定休であり、日曜日に仕事というのも珍しくはない。「草太さんにとってはせっかくの休みだし……安眠妨害をしたくないから私は客間のほうで寝るよ」と土日祝日の前夜のたび、毎回律儀に遠慮する鈴芽を説得することにも慣れてきた頃合だった。そうして昨晩もいつものごとく説き伏せて、結局同じ寝室で就寝した。
今朝。懸念通り、草太は鈴芽のアラームに起こされる羽目となり、草太が鈴芽を起こすことになった。まあ知っていたけど、と口の中でもごもごとごちる。
「鈴芽さん、朝。起きないと」
「んえ……あと四十分……」
「いくらなんでもそれは強欲すぎる」
「朝ごはんを食べなかったら間に合うはず」といった旨のことを、寝ぼけた声で言い連ねていることはなんとか推察できた。布団に阻まれくぐもった声を発する主は未だ顔を見せてはくれない。
子どもたちの鼻頭や頬が冷気に晒され赤く色づく頃からだった。気がついたら、いつの間にか冬の朝の風物詩となっていた。
「こら。看護師さんが朝ごはんを抜いたら駄目だろう。看護師の不養生」
「でも……さむいし」
ようやく頭だけ出した状態で、暖を求めるかのように鈴芽は草太の肩口に顔を寄せてくる。起き抜けの体温に気を許しそうになって、草太は「いやいや」と首を振る。
鈴芽の弱々しい頭突きを易々と躱して、草太はサイドテーブルに置いていたエアコンへと手を伸ばす。日も登らない時間帯、彼女のスマートフォンの時刻は六時十四分だった。暗い室内でリモコンの表面をまさぐり、一番大きな丸型のボタンを親指で押すとピッと音がしてエアコンの作動音が聞こえ始める。
もう一度、鈴芽のスマートフォンの画面を確認した。そして一五の数字になった途端、即座に切り替わったアラームの画面をタップして止める。
「……部屋が暖まるまでの、あと五分だけな」
「んふふ」
「ありがとう」と柔らかな声で言う鈴芽にため息を吐く。妙に強気な部分がある彼女が素直に甘えてくれる機会は、実はそう多くはない。そして草太はそういう部分に弱い自覚もあった。
「蓋を開けてみれば、いぎたないのは鈴芽さんのほうだったんだよな……冬限定で」
「なんか久しぶりに聞いた、その言葉」
ふあ、とあくびをしながら幾分かすっきりした声色で鈴芽は言葉を返してくる。ようやく起床のスイッチが入ったようだった。
鈴芽も本来、寝起きは悪い部類ではない。ただ、冬の寒さにはめっぽう弱いらしいというのは、同棲して初めて気付いた事実である。
「草太さんもあるでしょ、寒くて起きらんないって」
「あるけど、起きないと遅刻するだろ」
「どこまで寝ていられるか試すことない?」
「五分前行動を心がけましょう」
はぁい、と間延びした声で返事をする鈴芽の頭を撫でると、柔らかな毛先が波を作った。少し髪を跳ねさせてしまったかもしれない。身支度を整えるときに怒られるかもな、なんて明後日の方向に思考を飛ばしていたときだった。
「ねえ、もうちょっと部屋寒いよね?」
「ん? まあ……まだ、もう少し暖まってないかもしれない」
軽い羽毛布団をぺらりとめくると「ううう寒いってば」と鈴芽が拗ねたように言って素早く布団を引き寄せる。
「もう、草太さんの鬼」
「ごめんごめん」
でもそろそろ動かないとまずいんじゃないかと眉をひそめた草太に対し、鈴芽は「ね、部屋が暖まるまで、ちょっと良い話をしてもいい?」と声色を和らげて問いかけてくる。
「えっ、時間はないと思うけど……良い話?」
「うん」と鈴芽はひとつ頷いて、そのまま穏やかな声で続ける。
「その、冬の朝って寒いでしょ? でも起きたとき、布団の中だけは別世界みたいに暖かくて」
「そう……だな。今みたいに?」
「今みたいに」
軽い羽毛布団の下にはふたり分の体温がある。草太には少し暑く感じることもあるが、以前鈴芽は「草太さんと一緒に布団に入っていると暖かくて助かる」と言っていた。以来、彼女から湯たんぽのように扱われることもある。男女差、筋肉量の差かもしれないと、そのときもぼんやり考えたものだった。
「そんなときって、『この布団があれば北極や南極みたいなすごく寒い地域でも平気かもしれない。いや、大丈夫なはず』って思えて、なんだか無敵な気分になれるの、昔から。小さい頃から」
それは無邪気な感情だな、と思わず微笑む。昔からと言うからには、それは今も同じなのだろう。寒い冬の朝、布団の中でまるで小さな子どものようにむずかって起きたがらない鈴芽に、そんなあどけない部分が残っているとは正直なところ思ってもみなかった。
草太は自身のスマートフォンの画面を表示させる。時間は六時二十分となっているが、もう少しならばこの時間を楽しんでも良いかもしれない。彼女に朝食を手早く食べさせるにはどうしたら良いか、冷蔵庫の中を思い浮かべて既に算段を付け始めていた。草太も鈴芽と同じくらい家事を担っていたからお茶の子さいさいとまでは言えなくともある程度はまかなえる。
「でね、ここからが良い話なんだけど」
「けっこう自分でハードル上げるなあ」
「だってこうやって冗談めかさないと朝から深刻な雰囲気になるし」
少し呆れたように言う鈴芽に「なるほどな」と素直に感嘆の声を漏らしてしまう。そういう配慮があるとは思いもよらなかった。こういう部分は空気が読めるようになった「大人」の部分なのだろうな、と今度は不思議と寂しい気持ちにもなる。
「で、話を戻すんだけど……誰しも、これがあれば自分は大丈夫って思えるものがあるんだなって、ちょっと思ったんだよね。最近あまりにも寒くて」
「鈴芽さんの場合は寒い朝の暖かな布団なわけだ」
「うん。そりゃあ、今じゃこの布団だけ携えて北極や南極に行っても凍えるだけなのはわかるけどね。子どもっぽいって思わなかった?」
ふふ、と少し笑った気配がして釣られて草太も笑う。
「──草太さんも同じだなあって、そう思ったの」
「……俺?」
歌うように穏やかな声で紡がれた名前。思わぬところで出てきた自分の名前に草太はまつげを瞬かせた。
「私、あのとき……要石になった草太さんをミミズに刺したあと、とっても恐ろしくなったの。ああ、私は草太さんを失ってしまったんだって。この世界、現世のどこを探したってもう草太さんはいないんだって」
「そうして死に物狂いで草太さんを連れ戻しに行ったわけですが」と明るい声で言う鈴芽に、草太は口を噤む。
何も言えなかった。彼女がそういうふうに思っていたことは、今の今まで知らなかった。草太が要石になった後のことは鈴芽から掻い摘んで説明されていたし「怖かった」と震えた声で本心を吐露されたこともあった。
ただ、その「怖かった」は鈴芽自身の行動にかかるものだと思っていた。
怖くないわけがない。何も知らない状態でひとり強大なミミズへと立ち向かい、常世へと繋がる扉を潜ることをしたのだ。だから彼女のその感情は当然のものであると、そしてその行動を強いたのが自分であることに申し訳なく、そして腹立たしく思っていたのが草太だった。
しかし、今の鈴芽の言葉を考えると、その「怖かった」の矛先が自分が考えていたものとは違ったものへと向いていたのかもしれない。
「鈴芽さん……」
もう何年も前の話にはなる。それでも、腹の底をじくじくと焼く痛みはひどく鮮明だった。
「草太さんのいない世界を恐ろしいと思った。──でも裏返してみれば、今ね。草太さんがいてくれるから、私は大丈夫だと思えるんだって。そう気付いたの」
鈴芽の柔らかな声が、慈雨のごとくぽつりぽつりと落とされる。
「もちろん、草太さんさえいればって話じゃないんだけどね。でも、草太さんがいてくれるだけでこう……地獄の底からでも這い上がって来られるというか?」
照れたように気まずけに語尾を上げて、「な、なんちゃって」と笑った鈴芽は再び草太の肩へとぐりぐり額を押し付けてくる。
「だから、布団と同じ。草太さんがいても解決しないことはいくらでもあるし、悲しいことやつらいことも、これからもきっとたくさんあると思う。でも、草太さんがいたら寒い冬の朝だってなんとかなるし、眠たくてもどうにか遅刻せずにいられる。これから起こるたくさんの理不尽なことだってきっと乗り越えていける」
せり上ってくる何かで息が詰まりそうになった。腹の底の火傷のようなひりつきは消えてはくれないが、それでも胸が、心が温かな何かで満たされていく。
ぐ、と食いしばった奥歯に反して目頭が熱い。少しだけ鳴った喉奥の音が聞こえたのか、鈴芽は狭い隙間から草太の顔を見上げてくる。
「あれ、もしかして泣いてる?」
「な、泣いてない」
「へへ、良い話だったでしょ」
「……上げたハードルを優に超えてくるからびっくりした」
「でも朝からするにはカロリーの高い話だったね」と鈴芽は上体を起こす。布団が捲れた部分から流れ込んでくる外気が草太にとっては心地よい。
ベッドから降りて、シャッと勢いよくカーテンを引いた鈴芽が草太のほうを振り返った。外は薄らと明るくなってきている。夜明けだ。
「んふふ、目が少し潤んでる」
「明るさに目が沁みただけだよ」
「まだ全然明るくないのですが」
「気のせいだ」
「とにかく早く支度をしなさい」と言いながら草太も立ち上がる。スマートフォンの画面上、時刻は六時三八分を示していた。
明けない夜はない、と古くから使い古される言葉がある。長く感じられる暗い闇夜もいつかは終わることを示す希望の言葉。
鈴芽の言うように、これからの人生に待ち受けていることは多くあるだろうと、草太も考える。理不尽なこと、つらくて悲しいこと。どうしようもないこと。これまでの人生でもいくつもあったのだ。
ただ、これまでとは違って草太の隣には鈴芽がいる。
鈴芽の夜明けをもたらすのが草太の役割で、草太の夜明けをもたらすのは鈴芽の存在だ。
たしかに鈴芽さんがいたら俺も無敵かも、という呟きは、せっせと髪を梳かす鈴芽には届かなかったようだった。
おわり