すすけた黒い革靴の先が地上に砂を落とす。背中越しに感じる薄いフェンスの冷たさが、いまは心地良い。
「君さあ、周りに迷惑かけて悪いとか思わないわけ?」
すだれ頭の上司が出勤早々に呟いたあの言葉が脳内でリフレインする。徹夜して作った書類の端が無情にもくしゃりと音を立てた。
あれから数時間後、足元では昼食を終えたオフィスレディや同僚たちが和気あいあいとビルに戻って行くのが見える。その中には親しい友人の姿もあったが、いまやそれさえどうでも良いと思えた。
人混みの中から、誰かが自分を見上げて指でさしている。
「なんだ、あれ?」
そんな風に見上げて笑っているように感じて、足が震えた。
これは、恐怖なんかじゃない。
そう信じたとき、革靴の底は静かに屋上の縁を蹴っていた。飛び込みさながらの、頭からの落下とともに覚えたはじめての浮遊感が、皺だらけのスーツをはためかせる。ビル群に飲み込まれていくカラスの群れの仲間であるように、都会で自由な羽根を手に入れた気分だった。
「コウカイはないのかイ?」
誰かが僕に囁く。
その声は非常に幼いが少年とも少女とも言い難く、恐らく人の声だろうとは思うのだが、生涯で聞いたことのない声質であった。
一体、何が後悔だというのだろう。
近寄らない走馬灯を手繰り寄せるがごとく日々を振り返りながら、そっと目を開いた。
そこで、一緒に落下していたのはピンク色のクマに似たぬいぐるみだった。
「後悔は、ないのかい?」
ぬいぐるみが再び流暢に問いかける。
死に際の三途の川や花畑とはよく聞くが、ぬいぐるみに話しかけられるなんてあるのだろうか。
「後悔はないよ」
死の淵でどうでも良いとばかりに僕が答えると、ぬいぐるみはビー玉のような瞳をコロコロと転がし、パチパチとまばたきをして微笑んだ。
「合格だ! 今日からキミは魔法少女だよ!」
突然、ぬいぐるみは頭のおかしなことを言いだした。いや、そもそもぬいぐるみが話しかけてくること自体がおかしなことではある。それに、よくよく考えれば、僕の身体はいつになったら地面に辿り着くのだろう。
そう考えた瞬間、身体が逆方向に持ち上がった。バンジージャンプのゴムが伸びきったように、びよんびよんと僕の身体が空中で弾む。窓ガラスに反射した眩い太陽が僕の身体を照らしている。
「キミの名前は、ミルキープリンセスだ!」
逆さ吊りにされた憐れな中年男性に、ぬいぐるみは嬉しそうに語りかけている。そして、ぬいぐるみは、その背中から質量保存の法則を無視した細長いステッキを取り出した。ピンク色とクリーム色をしたファンシーなステッキを。
「はい、これがキミのマジカルステッキだよ」
「え」
抗うこともできず、逆さにされたバンザイポーズのまま、乾いた手にステッキを渡される。握り締めると、埋め込まれた宝石が僕に呼応するように、キラキラと輝いた。ステッキの先から生えている白い双翼がふわりと広がる。
「さァ、唱えて!」
一体、このぬいぐるみ、良い年した大人に何をさせようというんだ。
「ミルキー・プリンセス・マジカルチェンジだよ!」
ぬいぐるみに促されて僕はその言葉を反芻する。
ミルキー・プリンセス・マジカル、チェンジ?
そう心で呟いた瞬間、太陽よりも眩く僕の身体が光り出す。遥か頭上の、足元に見慣れないピンク色の模様が広がっていった。黒のつまらなかったスーツが弾け、僕の身体から出た光が僕自身を包み込む。ポップコーンが弾けるように、たんぽぽの綿毛が風に舞うように、その光が身体のいたるところに収束しては広がった。
気づいた時、僕はステッキを両手で構え、あの模様――いや魔法陣の上に立っていた。最近、気になり始めていた猫毛の髪は豊かに腰まで伸びて、加齢とともに水分の失われた肌がみずみずしく輝いている。何より、ビルに映った僕の姿は14,15歳ほどの少女の姿になっていた。
「ミルキー・プリンセス! 可憐に参上!」
覚えのない言葉がくちから飛び出る。
ぬいぐるみは満足そうに頷くと、僕の肩あたりに浮遊した。
「さあ、行こウ。ミルキー・プリンセス! 悪の幹部が、スカイツリーで暴れているンだ!」
きっとこれは夢に違いない。大した走馬灯がないので、神様が気を遣った結果なんだ。突拍子もなく魔法少女にされたと自覚した瞬間、羞恥ともに後悔が浮かんでくる。とんだ迷惑だ。
「……これが終わったら、元に戻してくれるんだよな?」
ぬいぐるみに問いかけると、ぬいぐるみは目を弧にしてにやりと笑った。
「そうはいかないよ」
優し気な声色に足が震える。
「なぜ?」
そう訊ねようとしたとき、ぬいぐるみは淡々と言葉を続けた。
「魔法少女は、そんな簡単にはなれないンだ。魔法の世界にもコスパっていうのがあるンだヨ。キミさあ、周りに迷惑かけて悪いとか思わないわけ?」
足元のビルに入っていく同僚たちの後ろ姿を見下ろして、ワタシはピンヒールの爪先で壁を蹴った。
了