冷たい海風が鼻に染みて、思わず巻いていたマフラーを鼻の辺りまでぐいとずり上げる。視界の端で、荒れた黒い海の波間に白い波の花が散っていくのが見えた。北国の冬は厳しいとは聞いたが、ここまでとは思わなかった。
 真っ暗な寒空に点々と瞬く星の下、数歩先を歩く九龍の背中を追って海岸沿いの道を歩く。遮るものが無いせいで潮風をモロに受けながら、俺と九龍は静かな夜道を歩いていた。正直言って、雪が降っていないとはいえこんな寒い中を歩く今の俺たちを見かけたら、海へ心中しに行くのかと思われそうだ。俺だってそう思う。
「どう? 凍えそうなくらい寒いだろ、こっちの冬の海って」
「そうだな、一時間前の俺の首を絞めたいくらいには」
 振り返った九龍へぶっきらぼうにそう返すと、九龍は苦笑して「さすがにもう帰るか」と提案してきた。俺は無言で頷く。そんな俺を見て、九龍は笑いながらも踵を返して俺の手を取り、元の道を戻り始めた。
 初めて九龍の故郷まで来て、せっかくだから冬の海に行ってみたいと溢したのは確かに俺だが。まさか、今時期で既に身が凍るほどの寒さになっているとは思っていなかった。もし雪が降る時期だったら、さすがの九龍もオーケーを出さなかっただろうな。
 長袖を重ねた上にコートを着込んで、マフラーや手袋を装備してもまだ冷たい風が突き刺してくる、九龍の故郷。これから更に寒くなるのだと思うと、旅行ならまだしも俺はこちらには住めないなとぼんやり考えた。
「オレの街って、山と海に囲まれた街だから潮風がすごくてさ。雪のシーズンなんか本当に風冷たいんだ。外歩いてるだけで、鼻と耳が取れそうなくらい寒いんだよ」
「聞くだけで寒そうだな」
「でもそういう時って、鍋がめちゃくちゃ美味くてさ! あとストーブをガンガン焚いた部屋で食うアイスが美味い」
「狂ってる……」
「甲太郎もやってみなって! ハマるからさ」
 その前に温泉に向かわないとだけど、と一言付け加えながら、九龍はまた明るく笑う。
 街灯が点滅している広い駐車場に戻っても、九龍が去年買ったワンボックスの軽自動車がポツンと停められているだけだった。やはり、こんな時期に海へやってくる人間などいないだろう。そう考えながら周辺を見回していると、何かを察したらしい九龍が車のロックを解除しながら言う。
「ここって大体長距離トラックしか停まってないけど、たまに海釣りの人も来るらしいよ。何釣れるかはわかんないけど」
 運転席に座ってミラーを調整する九龍へ返事をする事なく俺は助手席に滑り込み、俺はさっさと備えてあった毛布で体を覆った。それを見て、九龍はくっくっと喉を鳴らしながら笑う。
「だから言ったじゃん、絶対に寒いよって」
「俺は二度と冬の海には来ない、誓ってもいい、絶対にだ」
「はー、甲太郎ほんと面白すぎ」
 そんな寒がりな甲太郎の為にコンビニに行ってあげますかねー、と笑いながら、九龍は車のエンジンをかけて発進させた。
 途端、車の窓から見える景色がゆっくりと流れていく。きらめく星が散る夜空の下、荒々しい白波を立てる海が、俺たちが乗る車の進む速度に合わせて遠ざかっていった。そうして大きな古い看板を通り過ぎたあと、防風林に視界が遮られて、海の様子はすっかり見えなくなった。
「この街ってさ、」
 街灯が照らす道を進んでいる中で、九龍が不意に口を開いた。
「都会に比べると本当に何にもなくてさ。ショッピングモールも無いし、学生が遊べる場所なんて無いし、やる事といったら虫取りとか釣りとか。冬になったら雪で色々遊べるけど。まさに田舎って感じ。でも逆に、都会の騒々しさとか窮屈さは無くて……まぁ、なんて言うか」
 じっと静かに話を聞いていた俺へ、九龍がちらりと一瞥して続ける。
「見せたかったんだよね、甲太郎にさ。オレが暮らしてた場所を」
 ずっと東京で暮らしてたって言ってたろ、と付け加えた九龍の言葉に、はっと学生時代の会話を思い出した、そう、確かにそう言った。生まれてからずっと、ほとんど東京から出たことが無かったと——きっとこれからも、あの場所から離れることは無い、と考えていた事も。
 もしかして、せっかくの長期休暇にわざわざ俺を連れて帰省したというのは、故郷を見せたいからというより、俺をあそこから連れ出すという意味もあったんじゃないか。
 そこまで考えて少し頭を振り、シートに深く座り直す。
「ま、悪くない場所だと思うぜ。寒すぎるのが欠点だけどな」
「それはオレも同感」
 明るく笑いながら、九龍はようやく見えてきたコンビニの駐車場へと車をゆっくり停めた。
 コーヒーでも買うか、と渋々毛布を体から離して降りる準備をしていた俺に、九龍が「甲太郎、」と静かに声をかけた。
「これから、オレがいろんな場所に連れてくからな」
 他の人間が聞いたら、なんて事もない発言だろう。
 けれどそれは、他の誰でもない俺にとっての意味は。
「……ああ。頼むぜ、九龍」
 俺はそう返しながら、九龍の肩を軽く叩いた。
 九龍も少し照れくさそうにしながら、俺の肩を叩き返した。
「まあ、まずはホテルに向かわないとだな。チェックインがギリギリじゃないか?」
「大丈夫だよ、あとちょっと走らせたら着くし」
 そんな他愛無い会話をしながら、俺たちは車から降りてコンビニの入り口へと向かった。
 コンビニに入る直前、一度だけ振り返った真っ暗な寒空に星が、普段よりもずっと綺麗に輝いているような気がした。
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