きっとわたしは、彼女のあの、まるで花の咲いたような、暖かい春が世界を包み込むような、あの笑顔を見たからずっと、すっかり彼女の虜になってしまっているのである。
 彼女はいわゆるギャルであり、クラスでも目立つ可愛い女の子の立ち位置であるといえるが、わたしがあの子に向ける「可愛い」はどうやら他とは毛色の違うものらしかった。あの子の瞳はこんなにぱっちりとしていて、その底の見えない虹彩に友人を映して嬉しそうに笑う表情などは、何にも代えがたく可愛い。作り物みたいに整った顔も華奢な肩や首筋も白い肌も長い髪もスカートからすっと伸びる脚も、靴下に覆われたつま先まで、全てが愛しくあった。そんな彼女____名前をNとしよう、Nの1番の友人といえば、間違いなくわたしであった。どういう縁か仲良くなったNとわたしは、1年と3ヶ月をかけて友人と表現して遜色ない関係になった。そしてこの文章は、一般的に地味な女子高生である「わたし」と、また一般的にギャルな女子高生である「N」の日々を綴った日記のようなものだ。

 ある日、わたしはNに出会う。連日の雨に桜の散りかけた4月初旬のことである。少しだけ丁寧な服を着た大人たちと慣れない制服を着たわたしたち。入学式だった。中学からの知り合いはいたけれど、あまり期待はしていなかった。動悸による若干の苦しさを覚えながら校門をくぐり、桜の花片がぽつぽつと浮かぶ池のそばで彼女とすれ違ったが最後、もうその日は彼女のことしか覚えていない。入学式はきっと退屈だった、彼女が退屈そうにしていたからそうなのだと思う。彼女に思考と記憶とを侵食されて、代わりに中学からの知り合いの名前と顔とを忘れた。
 次にNとすれ違ったのは入学式の次の登校日だ。入学式から5日ほど経って、桜はまだ柔らかい緑の色をした葉を残して全部散った。Nにすっかり脳みそを奪われて他のことがすべて抜け落ちてしまった、わたしの心みたいだった。
 Nと同じクラスになった。Nとは机が遠かったけれどわたしはずっとドキドキしていて、机が遠かったからばれないようにそっとNのことを見ていた。Nは初日のうちに仲のいいクラスメイトを作っていたが、わたしはNのことを見ていたから誰ともまともに話せなかったし、Nと仲よくなれる方法ばっかり考えていて誰の名前も覚えられなかった。そうしてわたしはそっと「地味な女子高生」の役をすることとなった。
 初めてNと話したのは、放課後にあった美化委員の顔合わせだった。委員会決めの時間、Nが美化委員を希望したのを見てわたしも美化委員を希望した。初めまして、と挨拶をしたときにはもうNの名前も声も知っていたけれど、Nがわたしに名乗ったこと、Nがわたしに声を聞かせたことが重要だった。わたしの中でNが濃度を増すと共に、桜の葉が少し緑色を濃くした。
 その日の委員はNと一緒に指定された理科室へ行って、他のクラスの美化委員と軽い自己紹介をしてお開き、という程度の簡単な集まりだった。Nはさっきわたしにしたように名前を名乗って、わたしにしたような笑顔を作って、わたしに言ったように「仲良くなりたいです」と自己紹介を終える。その笑顔はいかにも作り笑顔とわかる表情であったが、それすらも愛おしくあった。
 そのうち、高校生であるわたしたちは定期試験を迎える。空梅雨の対義語があるとしたらそれはきっと今だろう、雨が肌にまとわりつく6月のある日であった。この頃には、まわりの人間が思っているよりもNがよく笑うことをわたしは知っていた。週に1度とはいえ委員会で2人になるうちにわたしは、着実にNの仲のいいクラスメイトへと昇格していた。
 Nがわたしに「数学教えて」と言ってきた。Nは典型的に数学が駄目な文系で、我慢出来ずに点Pに動くなと無理な指示を出してしまうようなタイプだった。対照的にわたしは数学が得意、というよりは好きで、たとえば整理券などで3桁や4桁の数字が配られるとまず素因数分解を試すようなタイプだ。Nがわたしに数学を教えてほしいと頼むのも不思議ではないし、わたしはもちろんふたつ返事で「いいよ」と言う。
 勉強会の会場は学校近くのカフェ、入口近くのカウンター席で、Nはいつも期間限定のドリンクを注文した。「1口交換しようよ」とNに言ったときの表情、少しだけ唇を尖らせた仕方ないなあ、って書いてある表情が大好きで、わたしはいつも期間限定のドリンクを飲み損ねていた。1口交換し終えたら、Nは気が進まなさそうにテキストとノートを取りだすのである。
 少しずつ問題が解けていくとNも気が乗ってきたようで、質問するときの声色が明るくなっていく。Nとわたしで1冊のテキストを覗き込んで、2人の距離が近くなる。Nはきっと無意識である、無邪気に質問する姿も、少しずつわたしの方に近付いているのも。わたしも同じテキストが鞄にあったが、出したことがなかった。
 ずっとテキストを見ているNを見つめていたら、ある瞬間に目が合った。Nの瞳は間違いなくわたしを見つめていて、わたしはそれに動揺して、1秒も目を合わせられただろうか、すぐに逸らしてしまう。少し見つめられただけでくらくらするほどの動悸がして、N以外の音が遠くなって、N以外の景色がぼやけて、なにも考えられなくなってしまった。あからさまに照れたわたしを見てNは心底楽しそうに笑った。
 「あはは、いま照れたでしょ?」
 何も言えなかった。
 「アタシのこと、好きになっちゃった?」
 ああ、こんなの、こんなのなくたってもうずっと。
 Nがその右手からペンを離した。ノートにペン先を付けたまま手を離したから、何にもならない線がノートに残ってしまった。Nはそのまま右手を伸ばし、わたしの唇にその指先が触れそうになったところで、わたしは身体ごと後ろへ下がった。遠くなっていたまわりの音が帰ってきて、思考が奥の方から冷えていく。
 「なあんだ、図星じゃん。」
 Nが右手を引いて、頬杖をつく。
 「アタシも好きだよ。」
 Nは、わたしの見たことのない顔で笑った。心の内をすべて見透かすような、なんとも邪悪な、なんとも可愛い顔で、悪戯っ子のように笑った。暗めの焦げ茶色をした、元の黒目よりも少し大きいカラコンの縁が酷く印象的だった。

 夏休みを直後に控えた7月初旬の浮遊感も顔負けに、わたしの頭の中はすっかりNのことで持ち切りだった。浮ついたまま試験の対策もできずに元々苦手な社会科で赤点をくらったわたしに比べ、Nはちゃっかり全教科を無事にパスしたようだった。悔しいのでNに「社会教えてよ」と言ってみたら、案の定「ノリで覚えるだけじゃん」と返ってくる。これだから文系は、と悪態をつきながら、結局はNのその可愛い表情、可愛い仕草に負けて全部許してしまうのだった。
 「ねえ、そんなことより!! 今月末から夏休みじゃんか、どっか一緒に行かない?」
 「……補習がなかったらね。」
 少しだけ意地悪をしたら、「それはごめんって」と何の悪気もなさそうに謝られた。きっとNのことだから、わたしがNのことを考えすぎたせいで赤点になったことも、仮に予定が補習と被ったとて、補習なんかよりもNとの約束を優先することも知っているだろうに。
 「補習の日教えてよ、その日は避けるからさ。」
 「えっと、確か7月の最後のほう。30日とか。」
 「ふーん。」
 「ふーんって……なんか予定してた日付とか、ないの。まあ夏休みだし、バイトとかもしないし、わたしはいつでも会えるけど……。」
 ごそごそと帰り支度を進めるわたしをよそにNはスマートフォンの画面を見つめている。これといった表情もなく画面を見るNの顔立ちはとても綺麗で、そこに乗るのはNの愛嬌を引き立たせる甘めのメイク。1+1が2で、2の10乗が1024で、57がなんか素数っぽい、Nが可愛いことはそれらと同じくらい当たり前のことであるのだが、わたしは何度Nを見ても慣れることができないままでいた。Nを見つめているうちに帰り支度の手は止まってしまう。もうクラスメイトはみんな帰ってしまって、教室には夕焼けと湿った風と、わたしたちだけ。世界がわたしたちだけになってしまったみたいな、センチメンタルな錯覚…いつものこと。そしてこの錯覚をNが壊してしまうのも、いつものこと。
 「あっこれこれ、日程調べてみたら31日だったしラッキーじゃん、一緒に行こうよ。浴衣とか着てさ。」
 そんなNだから、ますます好きになった。
 「お祭り? あの神社ってこんなのやってたんだね、わたし地元なのに知らなかった。」
 「ね、アタシも。なんか3年くらい前?からやってるみたいで。小さいお祭りだけど意外と楽しいらしいし、ねぇいいでしょ、一緒に行こ! 金魚すくいとかやりたいな〜。」
 「いいよ、浴衣着ていくの?」
 「うん、アタシのお母さんが着付けできる人で浴衣も何着かあるし、貸したげるよって言ってくれたから……せっかくだしさ、浴衣で一緒にプリ撮ろ!」
 誰も行かないなんて言っていないのに一生のお願いと言わんばかりに手を合わせて頼み込むNは、よっぽど夏祭りに行きたいらしかった。いいよ、と言えばあの世界で1番可愛い笑顔になるだろうし、少し悩む素振りを見せればきっと少しだけあざとく頼み込んでくる。生きているだけで、とはまさにこのことで、文字通り何をしてもNは可愛かったし、Nはそれをきっと自覚していた。こうして、わたしの夏はまたひとつNで埋まった。
 夏休みが始まってから3週間ほど、わたしたちは片手で数えられる程度だけ顔を合わせた。夏祭りに行き、映画館にも一緒に行って、あとはNのショッピングに付き合ったり、機会があったら行こうねと言っていたパンケーキ屋さんにも行った。8月の経過とともに蝉の声は寂しさを帯びていくが、そんなのわたしの知るところではなかった。Nと会った日のことを思い出して、次にNと会える日のことを考えて、そうしていたら夏休みなんて短いものだった。
 ひとつ8月とNの似ているところを挙げるとしたら、いつだって唐突であるところかもしれない。急に降ってくる雷雨みたいに、Nから連絡が来た。わたしたちはあまりSNSなどでやりとりをするタイプではなかったから、こんな夜更けにNから連絡があるのは珍しいことと言えた。“いまから会える?”のひとこと。会えない理由なんてわたしには全くひとつも見当たらないけれど、会えるよ、なんてすぐに返すわけにもいかなくて、ぼんやりと着ていく服を考えながら“どうしたの?”と返しておいた。
 曰く、花火がしたかったらしい。近くで花火大会があったのに行き損ねて、それが悲しくて連絡をした、と。23時を過ぎる頃に集合場所と言われた公園へ行ってみたら、申し訳なさの裏に弾む心を隠しきれていないNがコンビニの袋を持って待っていた。
 「いやぁ、まあ許してくれるかなって……。」
 「……いいよ、わたしも花火、したかったから。」
 お互いに、絶妙な嘘だ。Nと会えるから、Nと花火をした思い出ができるからわたしはここへ来たし、Nはわたしがここへ来ることをきっと確信していた。
 花火、どうしてもやりたくて。そう言いながらNは花火を取りだし、ライターが点くかの確認をする。高校生とはいえまだ未成年、ほとんど触ったこともないであろうライターを扱うNに少しだけドキドキした。いつもよりも少しだけシンプルなNのメイク、いつもより少しだけ気の抜けたNの服装、それらはいつもより少しだけわたしの心拍を早めた。
 「これね、なんか色変わるんだって。不思議だよね〜、よくわかんないけどすごい!」
 「炎色反応って勉強したでしょ。多分それだよ。」
 「へぇ〜。」
 「……もっとこう、興味ある振りとかしなよ。」
 「あはは、ごめんってば。」
 少しも興味無さそうに謝るNが花火のおかげでいつもより楽しそうで、ここに来てよかったと心底感じた。8月の湿度とひとけのない暗さでクラクラしそうな程の非日常を感じながら、Nが笑うたびわたしは幸せになった。LEDの街灯に照らされた公園内は夜更けとはいえ十分に明るく、きっと手持ち花火をするには向いていなかったけれど、わたしのなかではNが1番綺麗だからそれはあまり関係の無いことで、Nが楽しそうに笑ってくれたことが1番重要だった。花火を使い切った後もわたしたちは、段々と薄くなっていく火薬の匂いに包まれて一晩中話をしていた。そうして、薄明るくなってきた空を見てバタバタとわたしたちは帰路に着く。家族に悟られないよう帰った自室で、Nからの“今日はありがとう、また連絡するね”のメッセージを、眠るまでずっと眺めていた。
 夏休みの課題が配られる頃、Nと「長期休みの課題は早めにやる派か」という話をしたとき、Nは初めに計画こそ立てるが結局ためてしまうタイプ、と言った。らしいと言えばらしいけれど、負けず嫌いなNのことだからきっとためてしまってもなんとか終わらせるのだろう、そう思っていた。そんな予想は、1ヶ月経った今になって解答を得た。
 わたしはNの部屋に招かれ、勉強会という名目でNの課題を終わらせるための手伝いをしていた。と言っても、お互い終わってない課題を持ち寄って、泊まりがけで課題やったり喋ったりしようよ、という比較的緩い雰囲気のものである。1ヶ月前に言っていた通りになったNと、やることがそれくらいしかなくてやたら課題の進みが良かったわたし、つまりわたしはこの勉強会に参加するメリットは薄いのだが、Nに手伝ってほしいと言われて断る理由などなかった。しかも泊まりで、なんて願ってもない幸福だった。
 やはりというかなんというか、教室にいる時よりも近い距離にある真剣な表情のNがなんだか新鮮で、わたしはそればかり見つめていた。それでもわたしの方が進捗は良く、なんとなく手持ち無沙汰なわたしは本棚から適当な小説を取り出してぱらぱらとめくってみる。その多くは、耳にしたことこそあるものの、趣味じゃなさそうで読んでいない表題だった。適当に開いたページの数行だけ読んでみて、案の定、わたしは本を閉じてしまう。きっとわたしの本棚をNが見たとしたらNも同じことをするだろう。わたしはそれが少しだけ寂しいけれど、Nの本棚にある小説たちは全てわたしが書店で見かけたときになんとなくNを思い浮かべたものばかりで、それがとても嬉しかった。
 「ねぇ〜ここさ、もう解いた?」
 「どこ、現代文……? なら全部終わってるけど、現代文なのに答え見たがるの珍しいね。」
 「いやぁ、そうじゃなくて……これさ、悲しい物語だよね〜と思って。死後の世界で一緒になるために死ぬのってなんかよくわかんないんだよね。」
 「……ほんとに幸せかどうか心配になる?」
 「幸せじゃないことないんだろうけどね〜、アタシはおんなじこと出来ないな〜って。誰かのために死にたくないもん。それとも彼氏できたら違うのかな。」
 「ふーん……。」
 「あ、でもアンタは結構死んでそうだよね、好きな人のために。」
 わたしがNのために。Nのために……?考えたこともなかった。わたしはNのことを好いているが、わたしはNのために死ねるだろうか。あの可愛い顔のために、あの可愛い声のために、あの可愛い身体のために、あの可愛い表情のために、あの可愛い仕草のために。あの、可愛くて可愛くて仕方がないNのすべてのために。だがどことなく、そうは言っているものの、Nは誰かのために死にそうであると感じた。Nはきっとわたしのために死ぬことがあるし、わたし以外の誰かのために死ぬこともある……どうしてか、そういう直感があった。黙り込んだわたしに、Nは無邪気な表情で茶化してくる。
 「あはは、別に死ななくても誰も怒んないよ。アンタがアタシのために死んでくれなかったら、アタシが怒っちゃうかもしれないけど。」
 「それ、わたしに怒っても仕方ないんじゃない?」
 「…………あっねぇ、これっていくつ?」
 「え……? 22/7じゃない?」
 「よっ、天才〜。」
 「円周率っぽいね。」
 「え、円周率って22/7なの?」
 「正確にはちょっと違うけど……というか、わたしじゃなくて電卓使いなっていつも言ってるでしょ。」
 「電卓よりアンタのが計算早いよ。」
 「そんな訳ないでしょ……。」
 先程までの話はどこへ仕舞ったのか、Nはいつの間にか現代文のノートを閉じて数学を始めていた。わたしは真剣さを増したNの表情から目を離すのを惜しく思いながらも、今の今までノートの端に落書きをして「やっている風」を装っていた日本史の課題に戻る。中学時代、いつまで経っても覚えられなかった平安京と平城京の違いをNのおかげで覚えられていた。思えば、Nと22/7の話をしたのは2回目だった。Nは1度目のことをきっと覚えていなかっただろうが、当のわたしはと言えば、Nとたった1度だけ、授業の隙間にある5分休みにほんの少しだけ触れた平安京と平城京の話を酷く鮮明に覚えているようだった。
 日が傾いてきた頃、Nがついに音を上げた。喋ったり遊んだり、真面目に勉強をしたり、おやつを食べたり……気合を入れて朝の11時に集まったはずが、気が付けばあっという間に18時を迎えていた。ちょっとタイム、とベッドに転がったNは、全力で伸びをする。そして夏用の薄い掛け布団をきゅっと抱きしめ、ごろごろと端から端を行ったり来たりしはじめた。
 「どうしたのN、お腹減ったの?」
 「うん……つかれた……もういい……。」
 Nを見つめたり漫画を読んだりと自由にしていたわたしとは裏腹にこつこつ課題を進めていたNは、随分とお疲れのようだった。表情もなんだか普段よりしゅんとしている気がして、中々の愛らしさを見せていた。しかしそれも束の間、何かいいことを思いついた、とも言いたげな顔をしたと思えば、Nはわたしの目を見つめて、悪戯っぽくこんなことを言う。
 「ねぇねぇ、ちょっとこっち来てよ。」
 「……? 別に疲れてないしいいよ? 」
 「え〜いいじゃんいいじゃん。アタシのベッドに入れる貴重な機会だと思ってさ、ほらほら。」
 Nはそう言いながらちょうどベッドの半分くらいを空けるようにして、ここに来て、と言わんばかりにマットレスを軽く叩いてみせた。ぱたぱたと足を動かすNは相変わらずとてもとても可愛くて、そして、相変わらず蠱惑的だった。Nは、わたしがNのことをどうしようもなく好きなのを知って、そして、今回の勉強会という名のお泊まり会にほんの少し、本当にほんの少しだけの期待をしたのも全て知っていて、こんな風にからかってみせるのだった。あざとい、と言ってしまえばそれまでなのだが、そのあざとさも含めてすべて大好きなものだからもうどうしようもない。案の定、わたしは絵に描いたように動揺してしまった。そんなわたしを他所にほらほら、早く早く、と楽しいのを抑えきれない表情でNはわたしを見つめていた。わたしはなんだかそれが悔しくて、少しの反抗で仕方ないなあ、と呟きながらも、Nに言われるままに空いた半分へ収まるのだった。
 「……ちょっと、ドキドキしたでしょ。」
 わたしの目をじっと見つめたまま、Nはまたあの、悪戯っぽい表情をする。全くもってちょっと、などではないのを知っているくせによく言えたものだと、わたしは心の中で悪態をつく。先程までよりもずっと近い距離にNの表情が、呼吸があった。夏のじめじめした蒸し暑さから隔絶され半袖では少し肌寒さすら感じるこの部屋で、思考のの奥の方から体温が上がるのがわかった。呼吸する度に上下するNの肩が、横になっているせいでよくわかる。Nの長くて柔らかい髪がNの形をなぞってベッドに流れている。大胆なオフショルダーで露になった華奢な首周り、夏らしい白の大きなフリルから伸びる色白の腕、短めのトップスでギリギリ隠されたきゅっと引き締まったくびれに、ホットパンツに包まれた細めの腰、すらりと長い脚は裸足だった。
 「……今日ね、パパとママいないんだ。」
 「…………え?」
 段々と日が傾いて、外の景色が暗くなっていく。夕焼けのオレンジが窓から射し込んで、わたしたちがさっきまで使っていたテーブルや、その上に置かれたコップ、テキストにノート、それらの影を色濃く形作っていた。ちょうど夕日の差し込まないあたりに置かれたベッドはわたしとNを薄暗く包み込んだ。Nの表情が見えなくなる。わたしの鼓動は早くなる一方で、あまりにもどくどくとうるさく、また、Nもそれを見透かしたように笑っているから、ひょっとしたらNにもこの心音が聞こえているのではないか、とすら思った。
 「えへへ、嘘々。いや、確かにパパとママはいないんだけど、なんていうかそういうのじゃないよ。」
 「………………。」
 いよいよ夏休みも開けようという8月31日。明日からまた毎日Nに会える、ということ以外は、今日明日は世間で自殺者が増えるらしい、という雑学にも満たないなにかだけがこの日付に紐づいた知識である。そんなカレンダーも空白で埋まっている日に、突然の彼女からの連絡が携帯電話を鳴らした。
 課題は先日の勉強会で全て終わらせたし、夏休み中にやりたいね、と言っていたことは大抵やり尽くしたと記憶しているが、どうしたのだろうか。もっとも、Nから連絡をくれるだけでこの上なく嬉しいのには間違いないし、Nのことだから、きっとわたしには想像もつかない何かがあるのだろうけれど。そして、そんな予想は的中する。
 海に行きたい___もう16時を回った頃に来たのは、そんな突拍子もないひとことだった。

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