恋、なんて呼んでいいのかわからない。
甘いときめきも、むず痒い切なさもない。気づけば彼の背中ばかり見つめていて、振り向いてくれるのを待っている。同時に恐れてもいるのだけれど。
わたしは彼が好き、それからたぶんちょっとだけ――怖い。
「ふたりとも、お疲れさま。無事に帰ってきたね」
コフィンの扉を開けると、出迎えにきたドクター・ロマンが軽く両手を広げて立っていた。わたしとマシュが側に駆け寄ると、理知的な目元を柔らかく細めて微笑みかけてくれる。
「マスター・立香、マシュ・キリエライト両名、カルデアに帰還しました」
マシュがきびきびと報告するのに目を向けてドクターは司令官らしく頷いた。それでもマシュを見守る表情は優しい。
「うん、マシュも立香ちゃんも本当によくやってくれた。微少特異点は無事に修復されて、弾力性のある歴史に統合されていくようだ」
そこで彼はわたしを振り返り、甘い笑みを浮かべた。鳩尾のあたりがきゅうっと縮んで、鼓動が少し早くなる。最近はドクターと目が合うといつもこう。いつのまにかついドクターの姿を探しているし、笑いかけられると顔が熱くなる。まるで乙女気取りで気恥ずかしいからマシュにも黙っているけれど、ドクターのことを思うとほっとするのだ。
「じゃあ、マシュ、聖杯はボクが預かろう。報告書は後でいいから、キミたちはまず熱いシャワーを浴びて、よく眠るコト。いいかな?」
はい、と礼儀正しい返事をしたマシュは盾の格納スペースから聖杯を取り出した。ふわりと周囲の空気が歪み、瞬間的にその場の時間がコマ送りのように飛ぶ。まばたきした次の瞬間には、聖杯はもうドクターの手の中にあった。彼は表情ひとつ変えずに聖杯を片手で持ち、空いた右手をわたしたちに向けて振った。
「明日は一日予定を入れずにおいたからね。自由に過ごしてくれればいいよ」
おやすみを言うドクターを残して部屋を出ると、マシュと連れだって真っ白い廊下を歩く。ふたりの足音だけが重なって響き、否応なくここが狭い空間だと思い知らされる。わたしはマシュに小さく囁いた。
「ねえ、マシュ。どうしてドクターは聖杯をあんな風に持てるのかな」
聖杯。わたしもレイシフト先で何度も扱ったことがあるけれど、あれはドクターがやるように軽々と持てるような物ではない。重量が、というわけではなく、存在の重さが時空を超越しているのだ。聖杯が近くにあると体が勝手に引き寄せられるように聖杯を求め、一度手にするともう二度と手放すわけにはいかないという気持ちになる。頭の中は自分の願望と祈りと欲望とではち切れんばかりになり、相当強い意志を持っていないと一瞬で聖杯の虜になってしまいかねないのだから。
マシュは考え込むような表情になって、目を伏せた。
「実はわたしも、不思議に思っていたのです。英霊の加護を持つわたしですら、聖杯の魅力にはやはり抗いがたい物を感じます。わたしたちが聖杯を持ち帰るたびにドクターが地下の保管室に運んでいるようですが、一度もドクターが聖杯の呼び声を聞いている様子はありません」
ドクター・ロマン。いつも優しくて穏やかで、時々お調子者で抜けていて。だけど後ろから見つめる彼のまっすぐ伸びた背中はいつだってどこか張り詰めたものを感じさせる。頼もしく見えると同時に、なぜだか不安をかき立てられる。ドクターを見るたびに胸の奥がざわつくのは、恋だろうか、それとも。
「……先輩?」
返事をしないわたしを覗き込んで、マシュが小さく聞いた。わたしは頭を振って笑顔を作ってみせた。
「なんでもないよ」
秘密を隠しているのはきっと、わたしだけじゃない。そんな予感がした。