わたしには妹がいる。七つ年下で、いまは三十二歳。
 かなめ、という名前のとおり、我が家の要だ。
 もともとは母がそうだったのが、年月とともに徐々に役割が移ってきて、妹が高校生になるころには、すでに母と半分半分で要を担っていたと思う。いまでは七対三くらいで妹のほうが優勢だ。
 たとえば、テレビを買いかえるときにどれにするとか、お盆休みやお正月に家族が集まる段取りをどうするとか、両親が旅行にいくときに、いつだれがどのようにして駅まで送るのかとか(だいたいの場合、わたしが駅まで送るよう命じられるが、できないときには妹がハイヤーを手配する)、雨が降りそうなときにペコの散歩をどうするかとか(妹は異常な頻度で天気予報をチェックして生きている)、大小さまざまなことが妹によって決定される。
 決めるというのはエネルギーのいることで、それに必要な量を常備していないわたしは、妹に従うことに慣れきっていた。もちろん、えー、だの、ちょっとめんどくさいなあ、くらいの不満はもらすが、じゃあお姉ちゃんが決めてよといわれたら大変なので、すぐに立ちあがって対応にあたることにしている。
 うちの同居家族は当初、父母わたし妹弟の五人で、むかしから二つのグループにわけられていた。妹と母はのこりの三人をぼんやりチームとよんでいる。そういう分け方だ。
 弟は結婚して家をでており、いまは両親が建てた家に大人四人が暮らしているという状態だ。
「お姉ちゃん、ごめん」
 平日の夜、八時過ぎ、仕事から帰ってきたかなめがそういった。
 わたしは父と台所のテーブルでゆうごはんを食べおえたところだった。お酒のグラスと枝豆だけをのこし、食器を片づけようかというタイミング。
 定年退職した父と、毎日ニコニコ定時退社のわたしは、我が家の家事を担当している。母はベテラン生保レディ、妹は病院勤務の薬剤師で、帰り時間は遅く、毎日一定でない。いちいち連絡してもらうのもお互いにめんどうくさいので、わたしと父は決まった時間に夕食をとってしまうことにしていた。料理は作り置いておくこともあれば、帰ってくるごとに調理することもある。献立しだいだ。
 そのとき父は、ほとんど白髪の油っ気のない髪を扇風機の風にそよがせ、Tシャツに短パンで椅子にあぐらをかいていた。食器を運びやすいように重ねようと腕をのばしたところで、わたしは空いたスペースを拭こうと台拭きを手に構えていた。足元ではミニチュアダックスの老犬ペコが尻尾をふりながらうろうろし、廊下をはさんだむこうの居間から、テレビの大仰な笑い声がきこえた。
「え? かなめ、なんて?」
 一瞬の間の後、わたしがきき返すと、妹はどこか怪訝そうな顔でいった。
「わたし、結婚するかもしれない」
 かなめは納得いかなさそうに首をかしげ、わたしもつられてかしげた。妹の表情とセリフがまったくかみあわず、言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「お、おお」
 わたしと父がどよめき、足元でペコが「ワン!」と鳴いた。
 かなめはむかしから、現実世界の恋というものを馬鹿にしていた。というよりも、自分にむけられる、恋愛感情からくる好意というものを信じていなかった。
 なのに、我が妹はとてもモテた。理由はとても簡単で、すごくかわいいからだ。中身に関しては見解がわかれるかもしれないが、見目についてはそうそう異論はでないはずだ。わたしが卵に鉛筆で線を四本ひけば完成する顔なのに対し(眉毛がほとんどないので)、かなめは西洋絵画で日傘をさしていそうな愛らしい少女だった。
 きっと、通りすがりの天使がつまづいて、うっかり母のお腹にはいってしまったのだと、子どものわたしは想像していた。あわてた天使は背中の羽根をばたつかせたにちがいない。その音ですら、わたしにははっきりと思い描くことができた。
 姉妹なのになぜこんなに差があるのかといえば、シンプルに母に似たのか父に似たのかのちがいだ。妹は母に、わたしは父にそっくりだ。母はいわゆる濃い顏なのだが、かなめの場合は父の成分でほどよく薄まっている。
 もっと歳が近かったら、わたしも嫉妬に狂っていたかもしれない。けど、七つも離れていたので、ただただずっと自慢の妹だった。
 わたしの小さいころの口癖は「かなちゃん見たことある?」で、うちにお客さんがくるたびに、ヤクルトレディとかクリーニング屋のおじさんような常連にすら、実にこまめに妹をみせびらかしていた。
「今日はじめて会ったのに、なんで告白なんかできるんだろう?」
 かなめがそうぼやいたのは、たしか中学生のころだ。
「むこうは前から知ってたんでしょ」
 もう社会人だったわたしは、姉ぶってそう答えた。
「でもわたしはちがうもん。それでOKなんてもらえるわけなくない? わたしが自分に一目惚れするとでも思ったのかな? でもそれって、わたしが一目惚れするタイプで、なおかつ自分がわたしの好みの外見じゃないといけないよね? けどわたし一目惚れなんてしたことないんだよ。とくに好みの外見もないし。ぜったい無理じゃない?」
 かなめはたたみかけるようにいった。
 かわいいだけじゃなく、勉強もとてもできたわたしの妹は、理屈をこねるのもとても上手だった。それに、姉としては好ましいことに、恋愛に関してとてもまじめであることもうかがえた。おつきあいに至るには、必ずお互いに恋心を抱いておらねばならぬとかたく信じているのだ。
「可能性ゼロなのに告白してくる意味がわかんない。そんなの自分の気持ちだけじゃん。そういうの受けつけない」
 見ず知らずの人に想いを寄せられたこともなく、理屈をこねる習慣もなく、ただ妹がかわいいわたしは「そうだねえ」とだけ答えた。
 でもたとえ、あるていど仲のいい相手からの好意であっても、かなめは「なんか裏切られた感じ」と受け取ることはないのだ。これまで彼氏がいなかったわけではないが、どれも、自分に興味のない相手をふりむかせての成就だった。
 不思議なのは、そうやってやっとつきあえたとしても、かなめにはどこかがっかりしたような風情があって、やがて、(世間一般とくらべて)わりと早く別れてしまうのだ。
 それでいて、漫画やドラマなど、創作の恋愛には本気で泣いたり怒ったり、勿論、笑ったりしている。
 かなめの趣味は観劇で、これに余暇のほとんどと費やしている。新幹線や飛行機を駆使していろんな場所へ出向き、ときには好きな俳優さんを追いかけて海外にいくこともある。
 この生活を失いたくないし、恋愛することに興味ももてないからと、「わたし、結婚しないで、ずっとこの家でお姉ちゃんと暮らす」というのが、ここ数年で口癖のようになっていた。
 わたしとしては、婚活するほどの熱意がないだけで、とくに結婚をあきらめたおぼえもなかったのだが、なにしろ、決めるということを放棄して生きてきた身の上であるので、まあそれでもいいかと受け入れつつあったところだ。かなめは仕事を、わたしは家事を主担当として、これまでどおり暮らしていくというのも悪くない。
 両親も、それぞれ仕事をもった娘たちが力を合わせて生きていくなら、それもまたよしと容認する空気だった。弟が早々と結婚し、すでに孫も二人いたことも後押しになったのだろうと思う。
 
 結婚するかも、という報告を、なにか納得いかないという顔でしたきた妹に、わたしも父も、どよめいた後にはつい笑ってしまった。
「かなめ、おまえさん、もうちょっと父さんたちがよろこびやすいように報告できんか? 頬を赤らめるとか、うふふとはにかむとか、これから結婚しようかって娘にはそれ相応の態度というものがあるだろう?」
 父さんの言葉に、かなめは「だって」と、口をとがらせた。
「そうだよ」わたしは父さんを援護する。「あと、謝るのやめてくれない? まあ、気持ちはわかるんだけどさ。かえってよくないよ? お姉ちゃん、なんて答えても痛い感じになるよ?」
「でもさあ」
 かなめは口をとがらせたまま、さらに頬をふくらませた。普段からほとんど化粧をしない(ケバくなるからだそうだ)妹の顔は子どものころにもどったようだった。
 わたしはなだめるようにかなめの顔をのぞき込んだ。
「おめでとうしかないよ?」
 そういうとかなめは、マスカラのいらない、長くて密なまつげをぱしぱしとしばたかせた。目をあけるたびに、目蓋の、すばらしい幅の二重がきちんと折りたたまれるのに、つい見入ってしまう。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「怒ってない?」
「怒ってないよ」
 わたしが答えると、かなめはすん、と鼻で息を吸い、普通の顔にもどり、父にたずねた。
「今日のゆうごはんなに?」
「鮭のムニエル」
 それを聞くと、今度はわたしのほうをむく。
「本気の?」
「手抜きの」
「ねえ、本気のムニエルがいい」
「今日は手抜きのムニエルの日なの」
 そう答えると、かなめはじっとにらんできた。
「怒ってるの?」
「だから怒ってないって」
「じゃあ、本気のムニエルつくって」
 はあ、とわたしは息を吐いた。
「しょうがないなあ」
 ぱん、と父が手をひとつ叩く。
「ほれ、かなめは先にシャワーしてこい。お姉ちゃんの本気のムニエルは少々時間がかかる」
「はーい」
 かなめはお行儀よく応じ、廊下をもどっていこうとした。
「かなめ」
 わたしが声をかけると、妹は顔だけふりむいた。
「なに?」
「わたしが怒るってほんとに思った?」
 妹はにっと笑う。
「まさか。お姉ちゃんの無償の愛を実感したかっただけだよ」
「とんでもない妹なんだけど」
「ひひひ、あ、お父さん、わたしも白ワインのむ」
 そういって、テーブルののみかけの瓶をさし、かなめは風呂場へむかった。
「白はもうなかったよな」
 父は冷蔵庫をあけながらいう。
 
 
 
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