ドブ崇め
ドブというのは、一枚の紙ぺらだ。それは溝口恭平という名前に一応は貼り付いているけれど、セロハンテープみたいな心許ない繋がり。その紙ぺらが溝口恭平にたくさんくっついていて、奴を覆い隠している。だからドブの紙ぺらを一枚剥ぎ取ったところで溝口恭平の顔は見えない。とても便利だ。ドブの形だけの優しさとか嘘の愛情とかの恩恵にあやかりたい奴は、ドブを自分の祭壇に貼り付けて、ドブドブドブドブ唱えていればいい。俺もその一人。自分の祭壇に、何かあるのと無いのとではまるで違う。たとえあるものがあのいけすかない男でも。心を落ち着かせることくらいはできる。
そしてドブというのは、崇拝しやすいかたちをしている。ドブの紙はぺらぺらしていて掠め取りやすいし、ドブを崇めて丸めてゴミ箱に捨てたところで、罪悪感は湧かない。溝口恭平のことなど知らなくていい。ドブは悪い奴なので、誰もそれを咎めない。
人を手段として扱ってはいけません。カントが中学の教科書から出てきて、俺の頭の中で叫ぶ。じゃあ手段として扱わないってなんなんだ一体。考えてみると、俺を手段として扱わないでいてくれているのは弟だけな気がしてくる。俺が罪を反省することを、無条件に信じてくれている。俺は弟を一度裏切ったし、罪悪感なんてほとんど抱けない人間なのに、それでも俺を信じてくれる。本当にありがたいし、嬉しいことだと思う。
でも俺は弟に手段として扱われても、別に構わない。それで弟が幸せになるならいいんだ。黒田さんもだ。あのとき俺とドブは逮捕されたけれど、黒田さんが罪に問われることは無かった。それが俺は素直に嬉しかった。手段として扱われてもいいと思うこと、それが人を信じることだし、好きになることなのだと思う。
弟も俺に手段として扱われても構わないと、きっと思ってくれている。だけれど、俺はもう弟を手段として扱ったりしない。俺がそうしたくないからだ。過去の自分と弟を救いたいことを言い訳に、黒田さんのために働いてきた。弟はそんなことを望んでいなかったにも関わらず。俺はもう、弟を裏切りたくない。弟が信じるような兄になりたい。だから弟は俺の祭壇にまつられるべきではないのだ。黒田さんも、今はもう祭壇に乗ってはいない。感謝の思いは消えていないけれど。やはり俺は、弟を裏切りたくない。
そんなわけで俺の祭壇にはドブしかいない。出所してから二年ほど経った夏に、ドブが俺の家に転がり込んできたとき、俺は一度は捨てたぺら紙と同じものをもう一度剥がし、祭壇に貼り付けてドブドブドブドブ呟き始めた。それも弟を裏切ることになるかは分からずにいた。ドブと暮らすことは弟も了承してくれていたし、いいんじゃないのかと思っていた。ドブがお前は結局誰かに頼らないと生きていけないんだ、とか大門くんはかわいいね、とか言うときに生じる妙な安心感も、俺がドブ崇めをやめないのに一役買っていた。それに、ドブだからいいじゃん、とも思っていた。これはなんの根拠も無く。溝口恭平じゃなくてドブだからいいじゃん。
だからドブが死んで、溝口恭平という名前が俺の周りに次々現れるようになったとき、俺はなんだか不思議な気分だった。溝口恭平さんのお宅ですか? という警察からの電話からはじまり、溝口恭平の検死、溝口恭平の死亡届、溝口恭平の葬儀。俺はあいつの葬儀のために、溝口恭平とかいう文字を、書類に書かないといけなくて、嫌だった。ドブが家に転がり込んできてから半年ほど経っていた。死因はあいつにお似合いだった。クリスマスにカップルに刺されて横死。女の方が昔ドブと付き合っていて、それを忘れられなくてあなたと一緒にいるのに苦しいだのなんだの喚いて、じゃあ殺しにいこうと男が提案して、二人して刺しにきたとか。そういう馬鹿な奴らに殺されたところとか、二人が現行犯逮捕されたところとか、あいつにふさわしい最期だと思った。いつか誰かに殺されるだろうというのは、ずっと思っていた。警察官だった時からずっと。殺されて当然の奴だと思っていた。だから俺はさして驚かなかったし、ショックも受けなかった。ただ、腹への銃弾でも死ななかったあいつが刺されて死ぬなんて、老いというのは怖いなぁ、とあいつを笑ってやった後、自分の行く末に失望しただけだった。
今日はそのドブの葬式の日だ。冷たい風が吹いていて、空は阿呆みたいに澄んでいた。東京からでも富士山が見える空ってやつだ。葬儀会場の入り口には、故 溝口恭平と書かれた札が立っている。その文字からなんとなく目を背けながら会場に入ると、黒い服を着た男数人がいる。その真ん中に、黒田さんが立っていた。黒田さんが俺に気づき、こちらに近づいてくる。
「堅志郎」
「黒田さん。ありがとうございます、何から何まで……」
「こちらこそ、申し出を受けてくれてありがとう、嬉しかったよ。最後に何かしてやりたかった」
差し出された手に導かれるみたいに握手をする。出所してから初めて会った黒田さんの手は、記憶の通り大きくて暖かかった。だけれど、手には皺と黒ずんだ染みがあった。顔にも。まるで老人みたいだったし、老人だった。
葬式の手配は黒田さんがしてくれていた。ドブが死んで数時間後、どこから聞いたのか黒田さんのお使いがやってきて、そういう申し出があった。葬式は金もかかるし手続きも面倒くさいので、俺はありがたく受け入れた。
黒田さんの手を眺めながら、ボスに迷惑をかけたくて下についてたわけじゃない、と言っていた、半年前のドブを思い出していた。黒田さんの出所後の支援を全て断って俺のところに転がり込んできたドブは、どこか得意げだった。俺が育英会からの追加給付という形で出所後の支援を受けたのを知って、ダサいと言って笑っていた。家も無い、仕事も無い、肩書きも無い。それでいて人に頼りにきた立場でよく偉そうにできるな、と思った。
それと同時に、なんだか少し悲しかった。黒田さんがドブのことを恭平と呼ぶ声音とか、二人で俺の分からない話をする光景とかが悔しかったから。もう悔しいと思えないことが悲しかった。それから、黒田さんはお前に支援したかったんじゃないの、と思った。黒田さんの言葉を聞くと、やはり親心みたいなものがあったのだろう。
会場には、少しずつ黒服の人間が増えていく。デカくていかつい人間が大半で、少し笑えた。黒田さんに案内されるままに座った一番前の通路側の席で、俺は葬儀場の様子を、ぼんやり眺めている。忙しなく動く黒服の人間たちの様子とか。それを見守っている黒田さんとか。祭壇に乗っている、大輪の花に囲まれたドブの顔とか。
黒田さんの支援を受けていたら、何か変わったのだろうかと思う。黒田さんは今は引退したものの、今の組員にも慕うものが大勢いるということは、この葬儀場の様子を見たら分かる。
あの馬鹿なカップルだって、ドブが支援を受けていたら、報復が怖いと思い直したりして、死なずに済んだかもしれないのに。馬鹿なやつ。
弔辞は、俺の知らない男がした。組員の男らしかった。昔、親が黒田組に借金をして逃げ回った末に雲隠れしたとき、ドブが助けてくれた。そういう話だった。
『今まで辛かったよな。ひでえ親。二つ選択肢がある。一つは内臓売るか体売るか。二つ目は俺たちと、組のために働くことだ。親がいなくても大丈夫だよ。俺たちでもう一度、やり直すんだ』
男は弔辞をたたんで盆に置いて、泣き出した。ガタイのいい背中がぶるぶる震えていた。つられるように、あちこちからすすり泣きの声が聞こえた。読経中もそれは聞こえ続けていた。ドブの死を悼んでいる人間の群れに、俺は呆然としていた。呆然としながら焼香した。わけが分からなかった。夢を見ているのかと思った。葬儀の場にあてられたか、義理人情のある人間の振りをしているとしか思えなかった。弔辞を聞いても、俺は悲しいなんてこれっぽっちも思わなかったから。ただ、あぁ、あいつまたそんなこと言ってたんだな、そもそも一つ目の時点で二つあんじゃん、と思っただけだった。俺がおかしいんだろうか。
火葬場で、黒田さんが言う。実はドブが死ぬ二ヶ月前、ドブに会ったのだと。黒田さんがどうしてもと言って、一緒に食事に行ったらしい。黒田さんがそう言って、あの男に断れるはずが無いのだ。会計はきっちり割り勘だったという。
「恭平は、お前のことばかり話してたよ。言ってたぞ、お前がかわいいって」
黒田さんが言う。それから、恭平の面倒見てくれてありがとうな、と言った。反射的にハイ、と返して頭を下げながら、俺は絶望的な気持ちに襲われていた。だって黒田さんにそんなことを言うなんて、まるで、本当にそう思っていたみたいだ。
「大門くんはかわいいね」
俺はそう言っていたときのドブの顔を思い出そうとする。俺の髪を撫でる仕草とか、キスの味とか、思い出そうとしてみる。だけど上手くいかない。その後に訪れる圧倒的な快楽と、そこにあった安寧しか覚えていない。なんだか満たされているような、錯覚めいたもの。それを感じさせるのが上手かった。
馬鹿な奴、と思っていた。俺がいいように利用してるのに、何も言わないから。俺があいつに情なんて湧いていないことに、気づいていないのだと思っていた。でも、気づいてそれでもいいように使われていたとしたら? ドブが俺に、手段として扱われても構わないと思っていたとしたら? ドブが俺の話ばかりしていたって、どういうことなんだ?
火葬場で、俺と黒田さんはドブが焼かれるのを待っている。黒田さんといられるのは嬉しいけれど、今日は胸が詰まって息が苦しい。早く帰りたい、早く焼かれろ、と思う。
なんで。なんで俺のところに来たんだよ。なんで黒田さんにそんなこと言ったんだ。お前のことをもっと大切に思っている人間と、誰とでもいいから仲良くやってくれよ。お前が死んだとき、お前のために泣いてくれる人間のところに行けばよかったのに。
そう思う俺は身勝手だろうか。いやそんなこと分かりきっている。俺は身勝手だ。ずっと前から。両親が死んで、弟を守ると決意したときから。崇めるのだって、誰でもよかった。ただドブを崇めやすかったというだけで。でも。だから何だよ。だから何なんだよ。
「堅志郎、顔が青いけど大丈夫か」
黒田さんの言葉に、はい、と答えてドブの喉仏を摘む。あいつの喉仏は綺麗に残っていて、どうせ地獄に行くのになと思った。
後悔なんてしていなかった。ただなんでこんな人生なんだろう。なんでこんなに苦しいことばかり起こるんだろうと思った。人が死んで、泣いている人間がいて、それがわけが分からないって、どうしてなんだ。どうやってあいつのために泣けばいいんだ。俺にかわいいねと言うドブは、何を考えていたんだろう。分からない。自分の人生のどうにもならなさに、俺は涙が出てくる。やっぱり涙は自分のためにしか出ない。そんな自分が嫌だった。
苦しい。苦しいのは嫌だ。なんでこんなに苦しいのか考えると、あの憎たらしい男が頭に浮かぶ。そうだよドブが馬鹿なカップルなんかに刺されて死んだから。ドブが俺がかわいいだなんて黒田さんに言ったから。全部ドブが悪いんだ。そうだ。俺が今苦しんでいるのも、俺が弟を裏切ったのも、俺たちの両親が死んだのも。全部ドブのせいだ、お前のせいだ。
家に帰ると、俺は祭壇のドブをぐしゃりと掴んだ。それから、世界中のありったけの恨みを吐き入れて、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。ドブはドブとの思い出と呼べるかもしれないコンドームとティッシュにごちゃ混ぜになった。俺の祭壇には何も無くなってしまった。あいつが死んだからではない。俺には溝口恭平を祭壇に上げることはできなかったのだ。
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