ボアが、リンウェルの足を踏みつけていった。詠唱を止めなかったリンウェルが、突進していったボアを寸のところで避けたその時だ。大きな牙がその薄い腹を突き破らなかった代償に、硬く尖った蹄がリンウェルの紺色のブーツを圧して駆けた。
「リンウェル!」
ロウが咄嗟に名前を呼ぶ。その声には応えず、苦悶に表情を歪ませながらそれでもリンウェルは術を完成させた。風の力をまとった刃がボアを切り裂き、そうしてその巨体は粒子となって空気に霧散した。
「……戦闘終了だね」
左手で開いていた本をパタンと閉じて、リンウェルはアルフェンに笑いかける。
「もうズーグルの姿は見当たらないね」
「そうだな。もう少し進めそうだな」
アルフェンがリンウェルの言葉に頷いて、トラスリーダ街道の道の先を見据える。夕日に暮れる中にぼんやりと見えるのは、恐らくヴィスキントの領将の根城だ。
背を向けたアルフェンにリンウェルも続こうとして足を踏み出した時だった。──ロウは、その表情が再び歪む様を見た。
しかしそれも一瞬のことだった。リンウェルは即座に顔を改めてアルフェンと同じように前を見据える。密かに背後を顧みても、しんがりを務めるシオンの顔色は普段通りのものだった。
気のせいだった、とは考えにくい。ロウは確かにボアの前足がリンウェルの足を踏みつけて行ったのを視界に捉えた。そして、痛みに耐えるようなその表情。
シオンに治療を願い出そうか──だが、リンウェルのレナ人を厭うその振る舞いはロウの目からみても苛烈だった。グミの類も貴重品だ。申告なしに勝手に使うのはなるべく避けたい。
リンウェルがその痛みに耐えているのならば、しばらくは見守るべきかもしれない。シスロデンから峡谷や海洞を抜け、風望の丘でメナンシアに足を踏み入れ、ようやく首府を望んだところなのだ。絆が深まることもなく、冷え冷えとした線がそれぞれに引かれている。腹の探り合いのような空気も漂う中で、仲間内での無用な争いは避けたいのが本心だった。
静観するというのは得意ではない。妹分のようなリンウェルのことが心配でないと言えば嘘になる。ただ自分ができることとなれば、なるべく早く治ることを祈るのみだ。
街道を少し進んだところで、メナンシアの地はすっかり夜闇に染まっていた。吹き抜けていく風はカラグリアやシスロディアとは異なり肌に良く馴染む。幸いにも、周囲にはズーグルの気配がない。
さざなみのように揺れる草木に囲まれた小高い丘には、目印となるような一本の木が生えている。お誂え向きといったように、煮炊きができそうな開けた場所がそこにはあった。万全の状態でヴィスキントに乗り込むべきだというアルフェンの案に従い、一行は野営の準備を始めたのだった。
パチパチと爆ぜる焚き火にロウはうっすらを目を開けた。夕食で腹を満たし、武器の整備や持ち物の点検など各々が時間を過ごす中で、ロウは早々に眠りについたことを覚えている。
半月はちょうど中天あたりにあった。見張り当番はシオンだったと当たりをつけて、火の周囲を見渡してもその姿はない。ロウが身を起こして更に視界を広げると、果たしてシオンの影はそこにあった。
ロウの隣。口を半開きにして寝息を立てている、仮面で顔の半分が覆われているその男はアルフェン。そしてその横に小ぢんまりと身を寄せているリンウェルと、身を屈ませているシオン。
高く結えられた薄桃色の長い髪が地面に着くのも厭わず、シオンはリンウェルの足元に手を翳していた。淡く青緑色に輝くその温かな光を知っている。
「……治癒術?」
思わず口に出すと、シオンの青い瞳がロウを一瞥した。しかしそれもすぐに手元へと戻っていく。
「うなされていたのよ。……夕方の戦闘の時でしょうね」
「……そっか、シオンも知っていたのか」
シオンはロウの言葉に反応することなく治療を続ける。その光が収束するまで、視線を逸らすことができなかった。
リンウェルの寝顔は穏やかだった。爛々と輝く瞳は瞼に閉ざされたまま。
ボアという巨体のズーグルに踏みつけられたのだ。痣程度では済まないだろう。骨折して運悪く発熱したのかもしれない──リンウェルの顔を見下ろしながら思考を巡らせていた時、シオンが口を開いた。
「強情なものね」
「……リンウェルが起きている時には言うなよ」
ロウの言葉にシオンはちらりと視線をやるのみで、そのまま立ち上がり焚き火の側へと腰を降ろした。風によって形を変える炎は、シオンの輪郭をゆらゆらと変える。
「もしかして、今までもこんなことやってたのか?」
「リンウェルが操る術は強力だわ。あの子が私たちの旅に着いてくるというのなら、戦力として数えるだけよ」
夜に溶けるシオンの表情は闇に陰りよく見えなかった。声色は普段通りの淡々とした、ただ事実を述べるだけの温度を感じさせないもの。
確かに、シオンが言うこともリンウェルの治療をする理由にはなり得るのかもしれない。しかし、美意識の強いシオンが、髪や衣装の裾が汚れるのも気にせずに身を屈めて治療を施すまでの理由足り得るのか。
これまでも負傷した人を見つければ治癒術を使ってきていた。術は無限に使えるわけではない。術者の負担にもなる、有限の施しだ。
横たわった沈黙に、ロウは首を振った。どこかで遠く、ズーグルのいななきが聞こえる。
「……もうひと眠りするわ」
「……」
無言を貫くシオンにひとつ息を吐く。木をくべるシオンの背中に向かって口を開いた。
「ありがとうな。リンウェルを治療してくれて」
「……あなたにお礼を言われる筋合いなんてないわよ」
木を食って燃える炎がシオンの顔を照らし出す。そこには、ロウが思っていたよりも随分と穏やかな表情を浮かべた仲間の顔があった。
おわり
カット
Latest / 81:19
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
ロウとシオン(+リンウェル)
初公開日: 2021年11月07日
最終更新日: 2021年11月07日
ブックマーク
スキ!
コメント
メナンシアを目前にした頃の話