雨がしとしとと夜の街を濡らしていた。煌々と人工の明かりが照らす道を、帰路を急ぐ人々が傘で顔を隠しながら足早に行き交う。都会の駅の改札口からはひっきりなしに人の群れが吐き出されては、また吸いこまれていくの繰り返し。毎日何一つ変わり映えのしない風景。そんな風景の一部として、アズールもまた改札口で傘を差しながら大きくため息を吐いた。
 アズール・アーシェングロットの人生は順風満帆とは程遠い、ロクでもない毎日の中で構成されている。小さな田舎の港町で育ち、どうにかこうにか進学をして都会のそれなりに良い企業に就職した。多分、そこまではそれなりに悪くない道だったはずだ。家庭はそれなりに複雑な事情があったが、それでも両親から沢山愛情を受けて育ってきて。多少いじめられてもそんな奴らを全て見返す勢いで努力をした結果、それなりの名門校へと進学をして。皿に努力を積み上げて、誰もが羨む様な企業になんとか就職を決めて。そして――もう社会人として働き始めて三年程経過するが、笑えるくらいに精神を食い潰されている。
 アスファルトに降り注いで跳ねた雨水が、スラックスの裾に染みを作る。ザーザーと街を包み込む雨音が意識をどこか遠い所へと誘っていく。寝不足と疲労の蓄積した体は悲鳴を上げていて、頭がガンガンと痛んだ。
 時折、死んだ方がマシだと思うことがある。毎日出勤するために乗る電車をホームで待ちながら、規則正しく並べられた線路の上に飛び込めたらどんなに楽だろう、と思ってしまうことがある。馬鹿げた考えであることはわかっていた。それでも、毎日の様に休みなく働いて、悲鳴を上げる体にエナジードリンクを流しこんで無理矢理動かしていても、『クズでノロマ』の烙印を押され続ければそれはもう、死が甘美な誘いに見えるのも仕方がない事だろう(勿論、実行に移すつもりはないけれども)。いつか、いつか自分を馬鹿にする愚かな人間達を見返してやろうと必死に足掻いているけれども、それももう限界に近い。キラキラと無駄に眩しく光る繁華街の明かりを恨めし気に睨み付けながら、重たい足を束の間の休息を得るために動かし始める。
 パラパラと傘を叩く雨音は普段であれば心地良いはずなのに、今は神経をとがらせる耳障りなものにしか聞こえない。ちらりと見た時計は、知らぬ間に午後の十一時を指している。
 もう何度目かもわからない大きなため息を吐いた時、視界の端でライトアップされたやけに大きな広告が目に入った。なんとなくその広告がひっかかって、アズールは思わず足を止める。どこかの二人組のアイドルが出した新譜の広告らしい。シックな衣装に身を包んだ背中合わせの二人組。鮮やかなターコイズブルーの髪に、一房だけ色の違う黒のメッシュはやけに目につく。極めつけは、左右で色の違う瞳だろうか。多忙を極めているせいでテレビなんて見ないアズールには、最近の流行の知識などないに等しい。きっとこれだけ大きな広告を出しているのだ。世間を騒がす有名なグループなのだろう。
―――アイドル、か。
 写真に写る二人の顔はよく似ていた。誰に向けているのかわからない笑顔を見つめながら、殆ど八つ当たりの様なことをアズールは心中で吐き捨てる。
―――歌って踊って、ちやほやされていればいいだけなんて、楽な仕事ですよね。
 傘にぶつかる雨音が知らぬ間に強くなっていた。自分がぼんやりと広告の前に立ち尽くしていた事に気が付いて、アズールは顔を顰めながら足を自宅の方向へと向ける。家で休める貴重な時間は有限だと言うのに、無駄な時間を過ごしてしまった。目に焼き付いたターコイズブルーのことは忘れようと、小さく頭を振る。一瞬だけ振り向いた視界の先で、まだあの広告は眩しく照らされ続けていた。
                ❀✿❀
『アズール氏、アイドルなんて興味あったんだ』
 ブラックもブラックな――とにかく真っ黒な職場でようやくもぎとった休日を使って、アズールは大学で仲の良かった先輩と久しぶりの通話にいそしんでいた。
『しかもよりにもよってリーチ兄弟とは。今をときめくアイドル~wwって感じじゃん』
「別にはまったわけじゃないですよ、イデアさん。気になる、だけで」
『それはもう沼おち寸前って奴でしょ。フラグ乙』
 あの日――雨が降りしきる中出会ってしまった一枚の広告。目に焼き付いた鮮やかな海の色が忘れられなくなるのはそう難しいことではなかった。最初はそれこそなんとなく気になる、という所からスタートして。アズール・アーシェングロットという人間は、どうも気になったことをそのまま放置できる性分ではなかった。それから幸か不幸か、自分の気になってしまった――あの鮮やかな二人組は今話題沸騰中のアイドルで、ちょっとネットを検索してみるだけでこれでもか、という程に情報が溢れていて。比較的最近デビューしたばかりの期待の新生だということ。二人は双子だということ。年齢は自分と同じだと言うこと。それから――双子の名前はジェイド・リーチとフロイド・リーチということ。毎日色んなテレビやラジオ、雑誌に引っ張りだと言うこと。ファンクラブもあれば、ライブのチケットはプレミアが付くレベルだということ。洪水の様に情報が押し寄せては、また新しく追加されていく。気づけば職場の最寄り駅に隣接されたビルの中のCDショップで、アズールはあの日見上げた広告と同じジャケットのCDを手にとっていた。曲を再生した瞬間、胸の中に駆け抜けていった感情はどうも名付け難い。
『ライブのチケットとか倍率高すぎていくの無理ゲーでしょ。あーあ、アズール氏は難しい険しい道に進んでしまいましたなぁ~』
「ライブなんてそもそもいけませんよ。休み取れませんし」
『アズール氏の職場、ブラックだもんね』
 仕事の話を少し口にしただけで、通話相手――イデアは少しだけ口ごもる。
「……僕が望んだ道ですから」
『……。』
 重苦しい空気が画面越しにじわじわと漂う。どうしようもない空気にため息をつきながら、今後仕事の話はあまりしない様にしようとアズールは胸の内で決めた。
 テーブルの上に放置されたままの雑誌と目が合う。リーチ兄弟が表紙を飾っていて、つい買ってしまったものだ。とは言っても、疲れすぎていてまだ読んでもいなかったけれども。なんとなく、雑誌を手元に引き寄せてパラパラとページをめくってみる。数ページに渡って特集されていたのは、先日行われたライブのことらしい。スポットライトに照らされた二人の笑顔が何枚も切り取られている。
「ライブ……って楽しいんですかね」
『お、興味アリ?』
 写真の余白部分に被せるように詰め込まれた細かい文字は、どうやらライブの内容を詳細にレポートしたものらしい。
「……いえ、別に」
 水色のペンライトの光がどこまでも広がり、熱気が包み込むその空間に行けたらきっと楽しいことだろう。数週間前まで、アイドルなんてくだらないと思っていたのが不思議なくらいだ。勿論、どんなに想いを馳せてもその光り輝くステージに近付くことなんてできないことはよくわかっていたけれども。
「そんなことより、イデアさんは最近どうなんですか」
 これ以上整理されていない自分の感情を他人に晒すのは何だか嫌だった。読みかけの雑誌をぱたりと閉じて、また元の位置に戻す。きっとこれ以上彼らの事を知りたくなってしまえば、今のままでは満足できなくなってしまうから。この話はおしまい、とばかりに話を逸らせば、イデアはそれ以上何もつっこんではこなかった。他愛のない話を続けながらも、視界の端に映りこんだ二人がいつまでも虚空に笑みを向けているのが見える。虚しさだけが不思議と全身をすっぽりと覆っていくような、そんな気がした。
                   ❀✿❀
 ぐるぐると視界が回る。季節柄か、最近どうも雨が多いらしく屋根で守られたホームの先に見える線路には大粒の雨がばしゃばしゃと降り注いでいた。駅の電光掲示板には今日の終電の時間が表示されていて、それもあと十分後の話。今日も今日とてアズールは労働という名の地獄に食い潰されていた。
 ホームに自然と形成された列の先頭で、しゃがみこみたくなるような目眩と必死に戦う。何もしていなくとも、視界はぐらぐらと揺れる。否、ひょっとすると体が揺れているのかもしれない。自分が傍目から見てどうなっているのかは他人にしかわからない。とにかく、今日の体調は最低最悪のラインを漂っていた。きっと今鏡を見れば、酷い顔色をしていることだろう。こんなところで倒れるわけにはいかない、という意地だけで踏みしめる地面はまるで粘土のようにぐにゃぐにゃとしていた。
―――最悪だ。
 寒気が背中を駆け抜けていく。気を抜けば必死に縋っている手に持った傘を取り落としてしまいそうだった。頭の中がぼんやりとした靄で覆い隠されていく様な気分。これは久しぶりに酷い風邪をひいたかもしれない、と思うも今更その答えに気が付いたところでもう遅い。
 やかましい音を立てながら、電車の先頭車両がホームに滑り込んでくるのが見えた。鼓膜を激しく揺らすその音に、視界がチカチカとする。時間にして数秒の出来事だろうに、不思議と何もかもゆっくりに感じる。カクン、と足の力が抜けた。バランスを崩した体がゆっくりと前方へと倒れていく。頭の中で激しいエマージェンシーコールが鳴り響いているのを感じながらも、自由の効かない体には対した意味をなさなかった。眩しい光。ぐるぐると回る視界。ゆっくりと流れていく時間。コンマ何秒かの未来に感じる衝撃や痛みが少ない事を祈って目を閉じて―――グン、と強く襟を引っ張られた衝撃で息が詰まる。
「危ない」
 聞きなれたメロディーと共に、ホームに停まった電車の扉が開くのが揺らぐ意識の中で見えた。これに乗らなければ帰れない、と思うのに足は言うことを聞かない。同時に、自分の首根っこを掴む誰かの手も離れなかった。
「大丈夫ですか」
 前方へと傾いでいた体を誰かがゆっくりと支える。
「お怪我はされていませんか」
 耳をくすぐる涼やかなその声は、どこかで聞いたことがある様な気がした。それでも、霞がかった思考ではその答えを探り出すことは不可能に近かったが。
「……意識はありますか?声、聞こえてます?」
 軽やかな音と共に、止まっていた電車の扉が閉まる。じわじわと胸の内に終電を逃した絶望感が広がり始めるが、今はそれどころではない。
「おやおや、困りましたね」
 視界がぐにゃぐにゃと波打って、次第に意識が遠のき始める。自分を支えてくれている誰かが何かを話しかけているけれども、もう上手く聞き取れそうにもない。冷たく暗い眠りに落ちる寸前、明日の仕事の事が頭をよぎっていって、こんな時にも仕事のことしか考えられない自分にうんざりした。それから、ぼんやりとした視界の先で見えたヘテロクロミアを知っている気がしたのは、きっと気のせいだろう。
「……わ、うそ。ジェイド変なの家に連れ込んでる」
「ふふ、駅でたまたま拾ったんです。なんだか困っている様でしたので」
「あーあ、犬とか猫とかキノコ拾うのとは訳が違うんだからさー。ばれたら怒られちゃうね、ジェイド」
 暗い海の底を漂っている。水中越しで誰かが何か話しているのが聞こえた。
「もー怒られてもオレ庇ってあげないからね。絶対言われるよぉ。”アンタたち自分がどれだけ今注目されているのかわかってるの?今後もこの仕事を続けていきたいのなら考えて動きなさい!”って」
「おや、フロイドはヴィルさんの真似がとても上手ですね」
「怒られすぎて覚えちゃったぁ」
 キャッキャと笑う声に、ゆっくりと意識が浮上し始める。
「……おや、どうやら目が覚めた様ですね」
 ぼやける視界に、ターコイズブルーが揺れた。
「気分はいかがですか?」
「ねー聞こえてないんじゃない?ちょーぼんやりしてるもん」
 瞼が重たい。まるで金縛りにあったかのように体は動かなかった。
「顔真っ赤っかだねぇ。タコみたい」
「熱があるんですよ。可哀想に」
 ひんやりとした手が、汗でべったりと額にくっついた前髪を撫でる。
「カワイソーなんて一欠片も思ってない癖に」
「いじわる言う子には明日とっておきのレッスンを付けちゃいますよ」
「うそうそ、やめてよ。気分じゃねぇからヤダ」
 
カット
Latest / 59:03
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
のんびり作業
初公開日: 2021年09月19日
最終更新日: 2021年09月19日
ブックマーク
スキ!
コメント
アズジェイちゃん現パロを思いつくままにゆるゆる飽きるまで。
すばらしい旅
すべての人間が旅をするSF。旅によって人は自由になり、旅によって人を愛せる。
トチ