二度寝はしない。王子さまに逢うときは、可愛い私でいたいから。
「お嬢、起きて。朝だよ」
柔い声がする。私の大好きな声だ。私の寝起きモードに合わせてくれる優しい声が好き。
「ん…」
「お嬢の寝顔がすごく可愛いから寝かせてあげたいけど、さすがに遅刻するよ?」
「んー」
「お嬢、早くおきて?起きないと___」
「…とー?」
ふわふわする温かい布団の中では、何一つ現実のことなんてないのではないかと思う。
この言葉だって、きっと。
「早く起きないと、キス、するよ」
同時に、すりっと頬を撫でられる感覚がする。そのまま指が緩やかに私の唇をなぞる。
目なんて覚めなければいい。
そう思った瞬間だった。目が覚める?つまり、私はまだ眠っているいるということだ。
それでも感じる感覚は、声は、現実のもので。これは今すぐ目覚めなければまずい気がする。
本能的に目を開けると、あと15cmというところまで、憂太が迫っていた。
「ちょ、憂太、待って」
「あ、起きた」
憂太はおはようと穏やかな声で笑いかけてはいるけれど、さっき言っていたことと、やろうとしたことは多分本気だったと思う。憂太の辞書には、嘘とか冗談という言葉はない。
「ちょっと残念だけど、しょうがないね」
にっこりと笑った憂太は、もう一度私の頬をさすってから、ゆっくりと私から離れた。
「さすがに急がないと遅刻するよ」
憂太の声に時計を見ると、私の頬が引きつった。いつもよりは30分も遅い時間だ。王子様に逢うときは二度寝しないのがルールとか言ってた自分が恥ずかしい。
「今日の朝ご飯はパンだったよ」
早くい行かないと、五条さんがマーマレードを食べつくしちゃうから、と笑う憂太はもうしっかり白い学ランを着ていて、いつでも学校に行けそうだ。
「下でまってるから」
そう言って扉が閉まると、私はそっと自分の頬をなでた。さっきまで憂太が触っていたところが熱い。とは言っても、シンデレラタイムは待ってはくれない。場合によっては私だけじゃなくて、憂太の遅刻まで招いてしまう。シンデレラには似つかぬ蹴りで私は布団から飛び出し、セーラー服に着替えると、鞄を持って脱兎のごとく階段を駆け下りた。
テーブルに用意してあったパンは最後の一枚で、五条さんが食べようとしていたのを横からぶん取ると、五条さんから非難の声が上がった。
「憂太が待ってるし、遅刻するから無理」
「俺が送ろうか?」
「五条さんは来るだけで生活指導に私が呼び出されるから、出禁」
もぐっと、パンと牛乳を口の中に放り込むと、洗面所に向かった。前に五条さんに送ってもらった時は、女子生徒がみんな窓辺に張り付いてしまって、学校の風紀を乱した罰で私が生徒指導に呼ばれた。私、全然悪くない。それ以来、五条さんには送りを絶対に頼まない。
ばたばたと歯磨きと、簡単な化粧をすませると、私は憂太を探した。家の中にいる気配はない。多分もう外。
「いってきまーす」
私が一声かければ、家の中から人が出てくる気配や行ってらっしゃいの声がする。が、今は1分を捻出したい。いつもなら、皆にちゃんと挨拶をするけれど、今日は振り返らずにばたばたとでていくしか仕様がない。
私と憂太は別の高校だ。私はここから20分だけど、憂太は40分はかかる。私の遅刻は多分ないけれど、憂太はぎりぎりかもしれない。さすがにそれは避けたいところだ。
「憂太!」
「乗って」
家の前にはもう、憂太がバイクを停めている。
いつも、だ。この瞬間だけは特別だ。憂太の背中に頬をつけて、憂太の胸に腕を回す。
憂太以外にも、何人もバイクに乗せてもらったけれど、こんなにしっくりくる背中は憂太だけだ。
「あ、スカート長くした?」
「忘れた」
「ほら、伸ばして」
憂太に促されて、スカートを伸ばす。
「お嬢の足を、他の奴らの視界に入れたくない」
憂太の声色に影がおちる。もし万が一、私の足をみた男の人がいたら、今すぐ抹消しかねない勢いだ。
「大丈夫、伸ばしたよ」
「よかった」
安堵した憂太が改めてバイクのエンジンをかける。準備ができたところで、改めて、憂太の胸に腕を回すと、憂太の背中の熱がじんわりと広がる。バイクの熱と振動で、余計に強く握りしめたくなる。
「憂太、時間大丈夫?」
「大丈夫」
「本当?」
「うん、お嬢が他の誰かの背中をこうやって抱きしめるくらいなら、僕は遅刻してもかまわない」
さ、行くよ、と憂太が声をかけると同時にバイクが動き出した。
そんなこと、するわけないし、したくない。憂太がいない日は、いつも車で通学だ。そもそも、今日は例外。普段、私が寝坊する日は、憂太がいてくれる日だ。だれが何回起こしに来ても、絶対起きない。憂太が起こしにくるまでは、ベッドの中で眠り続ける。憂太と一緒に居たいがための、可愛いわがままだ。憂太だってたぶん気づいている。
同じ時間を別々に過ごさないといけない私たちの、ちょっとした逢瀬。私の学校に着くまでの20分。憂太の背中の広さを存分に感じながら、少し強めの朝の風が、私たちの頬をすり抜けていった。
「はい、到着」
憂太の優しいところは、学校の校門の目の前にバイクをとめないところだ。そういうところがこういう世界にいながらも、ちゃんと普通の高校生を装えているなと思う。五条さんとは大違いだ。
バイクを停めると、憂太はエンジンを切った。私は、エンジンが切られてからもバイクから降りず、憂太の背中に頬を寄せていた。
「行きたくないね」
「そうだね」
早く学校へ行きなよとは、憂太はいわないでいてくれる。私がその気になるまでいつも待っていてくれるから。
「帰りは、また迎えに来てくれる?」
「もちろん」
私が憂太の背中から名残惜しく頬を離して、バイクからしぶしぶ降りると、憂太も一緒にバイクをおりてくれた。憂太は降りると、ヘルメットを私の代わりに脱がせてくれて、憂太もヘルメットを脱ぐと、続けて私の髪を軽く整えてくれる。
「約束、ね?」
「うん、約束」
憂太が、今朝のように、私の頬をすっとなでる。
「お嬢、朝の続き、してもいい?」
そういわれて、朝の記憶がよみがえる。記憶をなぞるように、憂太が頬へ、そして唇をなぞる。
「だめ、って言ってもするんでしょ?」
「お嬢が嫌がるなら、しないよ」
それは、するって言っているようなものだ。だって、私が嫌がることはないのだから。
「お嬢、すきだよ」
憂太がゆっくりと私に覆いかぶさる。学校の一区画側。誰が通るかわからない場所。二人とも制服で、身元なんて簡単に割れてしまう。それなのに。
「僕が来るまで、他の男の人は見ないで」
「うん」
「他の男に触らせないで」
「うん」
「待ってて」
うん、と答える前に、憂太は私の唇にキスをした。ゆっくりと入り込んでくる舌に、一瞬ここがどこかわからなくなる。甘い唾液が、私の中に流れ込んでくる。何度か繰り返しながら、憂太の息遣いが少しずつ遠のいて。
いつの間にかしわになるぐらい握りしめていた、憂太の白い制服を離したと同じぐらいに、憂太が私を抱きしめていた腕を解放した。
「これで、今日も頑張れる」
「うん、私も」
「いってらっしゃい、お嬢」
「憂太も、いってらっしゃい」
バイクが大きな音でエンジンが轟く。
憂太は、ヘルメットをかぶる前に私の唇にもう一度だけキスをした。
「だめだ、止まらなくなりそう」
ほんのりと頬を染める憂太が可愛くて、かっこよくて。
「憂太、早く逢いに来てね」
離れがたいけれど、憂太の額に私からのいってらっしゃいのキスをすると、ようやく憂太がヘルメットをかぶった。
「いってきます、お嬢」
排ガスのにおいが立ち上って、ようやく憂太のバイクが発進する。予冷の音が鳴るのも構わず、私は憂太のバイクの音が聞こえなくなるまで、ずっとその場に立ちすくんだ。
もっと一緒にいたいなぁ、その声は憂太に届いたかわからない。その答えは、夕方に憂太が迎えに来て抱きしめられたときに知ることになるけれど、今の私はまだ、知らない。