目を覚ますとそこは、海岸だった。
最後に記憶している、コンクリートの堤防ではない。
地面は白い砂だ。空には星がかがやいて、月が顔をのぞかせている。
僕は多分──、そうだ、海に落ちたんだ。
不安定で未熟な魔法を喰らって、魔力回路のゆがみに引っ張られて、後ろ向きに倒れて……、
落ちる間際、同じような、暗い星空が見えた。
あのまま死ぬと思った。子どもたちに、申し訳ないと。
じゃあ僕はなんで今、こうして息してる?
誰かが救けてくれたのか。あの冷たい海に、どうやって。
周りを見る。
隣に横たわる、ヒトではない者の存在に、そのときやっと気づいた。
紫色の肌、銀糸の髪、怪しげな多数の触手。
でも上半身から上はヒトの形。
──、人魚だ。
言い伝えで見、聞いたことのある存在だ。
けれどそれを実際に見るのは、はじめて──いや、父に連れられて闇オークションを物見に行ったことはあったか。マフィアは慈善事業ではない。そのときは、役に立ちそうなものを引き抜き、周りを様子見するにとどめたはずだ。ともかく、人外と呼ばれる種の者をこれだけそばに感じるというのは初のことだ。
触手の表皮のぬるりとした質感が見てわかる。未知のモノにふれるのは好きじゃない。ほんの少し前の自分の価値観が、違う色に塗り替えられていくみたいで。
気づく。
そのモノの、豊かな白銀のまつげに。海水のこびりついた眼鏡に。
左手にきざまれた、黒い火の粉のまう紋章に。
「え……、」
アズリエル、なのか。
では、このモノは。
彼の、彼らの生い立ちや出自については、大体見当をつけていた。
ここの隣の、隣の国の政府から逃げてきた、16に満たないガキなんて聞けば、裏社会の人間なら嫌でも、答えが絞れてくるものだ。
しかし。彼からそんな気配は……、
──違う。僕が『そんな気配』に、第六感を封じていただけだ、と。
あの国から、政府から逃げてきた、三人組の子ども。頭のキレる双子とその幼馴染。魔法力に長けて、とくべつな。それだけ特徴的な情報があれば、彼らの身元を特定することなど容易だった。ましてや、一大ファミリーのボスとあらば。彼らが零す会話の端々を盗むことは、身元を手のひらでにぎる僕にとっては容易かった。
そう、すべては僕が、自ら、知らないようにしていたんだ。
自分が自分でなくなっていく、その感触を。
それに名前を付けるのを。
ただ、僕は弱かった。それだけ、だった。
彼は、死んだように、眠っている。
僕が僕の第六感を解き放てば、彼が発する気配は、これだけ強かったのだとわかった。
アズリエルからは、彼自身のいのちの動きが伝わってくる。それが色濃くって、僕は、僕を殺すだけでなく、彼をも殺していたのだと悟る。アズリエルの存在は、全くヒトの匂いがしない。たったそれだけのことに意地を張って、本当に、弱い。
アズリエルと一緒に、このまま眠ってしまいたかった。けれど彼が、僕を眠らせてはくれなかった。
ともにいて心地のいい人から伝わる鼓動は、こんなに心休まるのだと思うと、僕は眠る気になれなくなってしまう。
神様と呼ばれるものが存在するなら、彼を連れ帰ってしまうのだろうか。
アズリエルは、僕の天使じゃない。冥王の配下ではないのだ。
大天使のひとり、なんだったか。
いつか、彼がのぞんで僕から逃げて、その翼をすてて僕のもとを飛び去ってしまうとしても、今だけは、僕の天使でいてほしいと。
気付けば、彼の左手に触れていた。ヒトならざるモノの指先は、僕と何一つ変わらなかった。
ただ、彼の冷たい末端にぬくもりを分けたくて、その手をとった。
アズリエル、とつぶやいて、彼の頬に涙をおとした。透明越しに、紫色が透けた。
幼い意固地で、僕自身を傷つけた。
この子が好きだと、くすぶった気持ちをとかした。
その事実は嘘のようにすとんと心におちて、灯となって僕を照らした。
もうじき朝日が昇る。アズリエルの横顔を見つめて、ゆっくりと白みだす星空に視線を流した。
「っ……、ボス……ッ? ッげほ、っあ゛……」
アズリエルが、その目をひらいた。
やわらかい海の色に、またたく星がうつった。
「アズリエル氏!」
「ご無事、ですか……っ」
「君のおかげで。五体満足」
「よかった……」
彼はそう言って、はあと息をついた。まるで自分が助かったみたいに。
無事かどうか心配なのは、君の方だよ。げほげほと咳き込む彼に、心の中でそう言う。
「君の方こそ大丈夫? 寒そうなんだけど」
「僕は問題ないです。……今はこの身体ですから。
ボスだって水にぬれてるんですよ? この真冬の夜に、生身のヒトの身体で。貴方に死なれるのだけは困るんです。ご自分の心配をしてください」
アズリエルはそう、軽く僕を叱った。人は本当に愛しい人に「気を付けて」というとき、こんな顔をする。僕の母も、父によくそう言っていた。
まあ、彼がどう思ってそう言っているのかはもちろん定かじゃないけど。
そんなことを考えて、それにしても人魚って綺麗なんだなと、彼の紫色と銀の髪のコントラストに目を細めていると、ふと、彼の肌全体をむしばむように広がっている、おかしな点に目がいった。
「──アズリエル。これ、ナニ?」
彼の表情がわかりやすく陰る。
見られたくなかった? 僕に? 僕だけに?
顔からそんな気持ちを感じ取ってしまえば、僕の感情は制御できるものではなくなった。頭の奥、手の届かない部分に、冷たい氷が吹雪く。温度が急激に下がって、思考が冷めていくけれど、反対に、腹の底がふつふつと湧き上がっていく。
「これ、は……」
「僕、知らないんだけど。ここに入ってからできた傷? 誰に付けられた? いつ? 教えて?
……絶対、赦さないから」
アズリエルのひとみが、かすかに揺らぐ。
「……昔の傷でして。もう……ずっと前の」
「ふうん」と返す。必死に平静を取り繕って、興味のないふりをする。
でも、きっとこの子にはお見通しだ。冷静じゃないときに、脆弱なポーカーフェイスは役に立たない。
「──もう痛くはないですよ。ですから、そんな顔しないでください」
控えめにやわらかく微笑まれて、少し、強張っていた手から力が抜ける。
「うん…、ごめんね。君はもう、つらくないの?」
「……嫌になることがないといえば、嘘になりますけど。もう、大丈夫です」
僕が相槌を打つと、アズリエルは笑った。
「また、死にそうな顔してます」
「うう……ごめん」
アズリエルはまた少し笑うと、ふと我に返ったように自分の身体に目を落とした。そして、一つつぶやく。明確に、僕に向けて。
「……何も思わないんですか、僕の……こんな姿を見ても」
自分の黒い爪に一瞬視線を動かして、そう言う。
砂浜に置いた左手に、僕の血の気のない手を重ねた。
「なんにも。──君が君でいてくれるなら。どんな姿だっていいよ」
僕の言葉に、彼は、堰を切ったように話し出した。
「見たらわかるでしょうけど……僕は、人魚なんです。蛸の人魚は高値で売れて…僕も、売られかけまして。
この傷がつけられたのは、多分、13歳のときです。追手ではなく、個人的な売買の目的で捕らえられて、──少し傷をつけられました」
「少しって多さじゃ、」
「……ええ」
「…ない、でしょ」
「ええ。少なからず、ですね。
それで、脚を切って逃げたんです。だから……ほら」
それぞれが意思を持っているように、八本の脚が動く。すこし腰を回して、彼は角度を変えた。
いや、七本、だった。一つはほぼ根元から切り落とされて、断面は塞がり他と比べ細くなっているものの、切った痕に段差が目立つ。これを己でやったのか。拙い痕跡に、心が抉られるように痛んだ。
「ボスにこんな汚い傷を、みせるつもりはありませんでした。お目汚しを。
人魚は人間と違いますから、色覚も異なります。それはヒトの形になっているときでもそうですし、海の中にいるときはさらにそうなんです。
ですから蛸の人魚には、赤と紫が暗く、黄色と青が一番明るく見えるんです」
種にもよりますが、と付け加えて、つづけた。
「初めて会った日……、僕に施してくださったあの色は、僕には全部明るく見えて。
まぶしいと思ったのは、はじめて、でした。
路地裏には日光が入ってこなかったから、貴方は僕にとって、夜道を照らす月みたいだった」
「うん……そっか」
「暗い海の中で、沈んでいく人がたくさん見えました。
貴方の眼が一瞬ひらいて、すぐとじてしまいましたが……それで、貴方を見つけることができた」
「うん」
ゆっくり頷いて、続きを促す。
「僕が蛸じゃなかったら、貴方がその眼と炎の髪を持っていなかったら、僕は貴方を見つけられなかったかもしれないし、そもそも僕は教会を追われていないかもしれなかった」
「……うん、そだね」
「えっと、それで……、
おとぎ話のようだと思われるかもしれませんが、人魚には、運命の相手がわかるんです。
……畏れ多いことですが、貴方をひと目見て……、ボスが運命の相手だと思ってしまったのです」
「……、」
「ボスをお慕いしています。──特別扱いの思い上がりだと、自覚して申し上げることをお許しください。
応えていただけないのなら、どうか逡巡せずそう告げてくだされば幸いです。思いが伝わらなければ古来よりの言い伝えに従って、今日この海で死ぬつもりでいます。」
運命を信じて恋をしたならば、運命を信じて泡になる。
アズリエルは、僕の目を見て、きっぱりとそう言い切った。
その度胸に、惚れたんだ。
ボスにも、幹部にも物怖じしない君に。
「なんも幸いじゃないでしょ。
はじめて会った日から、君は僕にとって誰よりも特別だよ。」
彼の手をとって。
彼の目をみて。
アズリエル、と名前を呼んで。
今にも溶けて消えてしまいそうなアズリエルの身体を、ぎゅうっと抱きしめた。
顔の見えない彼の瞳から、音もなく涙が伝い、僕の髪をなぞって白い砂浜にしずむ。聞こえるか聞こえないかの嗚咽をもらして、彼は張り詰めた糸が切れたみたいに泣いていた。
「あの日からずっと、君が好き。
7つも年が違って、悩んだ時もあったけど、今は違う。
……君を泡になんかさせない。
僕の特別であり続けてくれる?」
この子のためならば、世界だって滅ぼせる。
この子が望むならば、世界が滅んだっていい。
その気持ちだけで、十分だと思えた。
腕の中に力を込めて、もう離さないと誓う。
アズリエルはぬくもりを探るように、僕の身体にすがりつく。
「やっと、貴方に……こうして触れることができましたね」
そう言う彼は涙声だ。
「相思相愛、ってことで。僕もずっと、君に触れたかった」
「やっと手の届くところに来てくれましたね。
名前を呼んでもいいですか?」
「いいよ。君の名前も教えてくれる?」
「もちろん……僕の本当の名前は、アズール・アーシェングロット、です。
天使ではなく、これからは貴方だけのペルセポネとして、扱っていただけますか?」
僕を抱きしめ返したアズールが、どこか誇らしげに言った。
「うん。絶対、君だけを愛すから。
好きだよ、アズール」
「ええ、イデアさん。もっと、そういってください。好きです。愛してます」
「君の望むままに。」
このまま永遠に抱きしめて、ひとつになったっていい。
身体の傷は消えなくたって、心の傷をいつしか消しされるように。
僕の隣で笑っていてほしいからさ。
明日の朝には、柘榴を半分こしようと、約束して笑いあった。