私は恋をした。
蝶が舞い、ハイビスカスが咲き誇る夏の只中に。
十二時、テニス部の練習が終わると私は急いで部室に戻った。
タオルで汗を拭い制服に着替えて、制汗スプレーを浴びる。
「紫乃(しの)、みんなでお好み焼き行くんだけど一緒にどう?」
「ごめん! また今度誘って!」
日焼け止めを塗りこんで、まだ着替え途中の友人たちに手を合わせながら部室を飛び出す。
途端に突き刺さる灼熱の日差し。
蒸された空気にしゅわしゅわとセミの声が染み込んで余計に暑い。
中庭を突っ切る。
全身が悲鳴をあげるけど、のろのろ歩いてなんていられない。
突然目の前を紫色の蝶が横切った。
思わず足を止める。
蝶は花壇へと引き寄せられていく。
赤、黄、オレンジ、ピンク。
色とりどりのハイビスカスが一面に咲いている。
日差しを浴びて輝く花弁と、青空に向かって真っすぐ伸びる長いめしべ。
あの人みたいだと思う。
***
裏門の傍に二階建ての建物がひっそりと建っている。
汗を拭いて、ブラウスの襟元をたぐり寄せて臭いを嗅ぐ。
半袖から伸びた腕にも鼻を近づける。
大丈夫。
開け放しの扉をくぐると靴箱がある。
並んだ靴の中に私は彼女のローファーを見つけた。
よかった、今日もいてくれた。
横にあった誰かの靴をずらして自分の靴を並べる。
隣同士。
だからどうしたってわけじゃないけど。
開館中の札がぶら下がった引き戸を開ける。
途端に世界が一変した。
火照った体に鳥肌が立つくらいにクーラーが効いている。
「いらっしゃい、三葉(みつは)紫乃さん」
無愛想な声が耳に届く。
受付にいた図書委員が私をじっと見ていた。
カウンターの上には虫かごがあって、中でモンシロチョウが二匹飛んでいた。
思わず一歩後ずさる。
あまりにも場違いで気味が悪かった。
「……それ、あなたが捕まえたの?」
「餌がないの」
「花の蜜でしょ? 摘んでくれば?」
「無理。私はここから出られないから」
「毎日図書委員の仕事で大変ね」
「好きでしてるから平気」
ああ、そう。
会話を切り上げて奥に向かう。
敵と慣れ合うつもりはない。
本棚の脇を抜けると長机の並んだ学習スペースがある。
何人かが思い思いの場所で勉強している中、最奥のいつもの席に彼女がいた。
蛍光灯の明かりを艶やかに反射する肩口まで伸びた黒髪。
姿勢よく座るすらりとした上背。
私は走りたくなるのをこらえて、でも我慢できずに早歩きになった。
足音に気づいて彼女が顔を上げる。
私を見る。
「紫乃、今日は早いね」
「部活が早く終わったから」
彼女は隣の椅子を引いてくれた。
私は震えそうになる手で椅子の背を掴んで腰を下ろした。
「ごはんは?」
「まだ」
「じゃあいいものあげる」
彼女は椅子の下に置いた鞄を漁って、チョコレートの袋をそっと膝の上に置いた。
中の一つを指でつまんで、飲食禁止の館内をきょろきょろ見回して、
「今だよ」
素早く差し出されたチョコにぱくりと食いつく。
できるだけ無邪気に、彼女の白く長い指まで咥えてみたいと思う下心を悟られないように。
市販のチョコも彼女が触れただけで宝石になる。
噛むのがもったいなくてずっと口の中で転がしていたけど、少しずつ溶けてきて仕方なく呑み込んだ。
「飴じゃないんだから」
彼女が口元を押さえてくすくす笑う。
私も思わず笑ってしまう。
離れた席で勉強していた女子がわざとらしく咳払いしたから私たちは慌てて口をつぐんだ。
「今日は何するの?」
彼女がそっと耳打ちする。
「数学しよっかなって」
「分かんないとこあったら言ってね。すぐ教えるから」
見上げると目が合った。
切れ長の目の奥の澄んだ瞳。
視線が目を射抜いて心臓に突き刺さって、私は直視できずに俯いた。
「……ありがとう、花凜」
花凜(かりん)。橙木(とうのき)花凜。
同じ学年だけどクラスが違ってて、存在を知ったのは今年の夏休みに入ったばかりのころだ。
***
今日と同じような部活終わり。
私は読書感想文の課題図書を借りに図書館に初めて足を踏み入れた。
目当ての本がどこにあるか分からなかったけど、図書委員の人に聞く勇気もなくて、私はひたすら一人で探し続けた。
奥の本棚でようやく見つけた課題図書は本棚の一番上にあって、私の身長じゃ届かなかった。
踏み台も見当たらない。
仕方がないからジャンプして取ろうとしたら、伸ばした手は本には届かず棚の縁に当たった。
体重がかかって本棚が傾く。
本が雪崩のように落ちてきて、静かな図書館にけたたましい音が響いた。
私は尻餅をついたまま本に埋もれて呆然としていた。
近くにいた人たちが白い目で私を見ている。
何してんの。
あーあ。
ひそひそと囁く声が聞こえる。
どうしよう。
片づけなきゃ。
分かっているのに体が動いてくれない。
きっと図書委員の人に怒られる。
怖くて震えが止まらない。
「大丈夫? 怪我してない?」
声がした。
振り向くと背の高い少女が立っていた。
怪我はしていない。
頷くと、彼女はよかったと呟いて本を拾い始めた。
私も手伝いたかったけど、本をどこに戻せばいいか分からなくて、全然役に立てなかった。
それでも彼女は一人で全ての本を片づけてしまった。
「あの、ありがとうございます」
「気にしないで。それより何か本探してたんじゃないの?」
言われて思い出した。
一緒落ちてきたはずの課題図書はまた最上段に戻っていた。
「どの本? 取ってあげる」
私がタイトルを言うと、彼女はひょいと手を伸ばして目当ての本を掴んだ。
「これでいい?」
差し出された本をおずおずと受け取る。
見上げると、彼女は目を細めて口角を上げた。
瞬間、私は釘付けになった。
花のように微笑む彼女に。
心臓がばくばく暴れ始めて、寒いくらいにクーラーが効いているのに私は熱くて溶けそうだった。
***
私は毎日図書館に通うようになった。
花凜に逢いに。
今日も私は花凜の隣で全然頭に入らない勉強をしている。
気づけば横目で盗み見ている。
ピンと伸びた背中。
肩へと流れていく黒髪。
真剣な表情で問題を解く横顔。
長いまつ毛と高い鼻。
薄いピンクの唇は滑らかな曲線を描いてふっくらと膨らんでいて、きっと触れたら……。
触れたら、どんな感じなんだろう。
「どうしたの?」
突然花凜が私を見た。
私の気持ちなんて知らずに無垢な微笑を浮かべて。
あなたに見とれていたなんて言えるわけないから、私は苦し紛れに、
「えっと、分かんない問題があって……」
「どれ?」
私が適当に教科書の練習問題を指差すと、花凜は私に体を寄せてきた。
「これはこうやって……」
私のノートに解き方を書いてくれる。
でも私は数式よりもブラウスから伸びる白い腕を、シャーペンを握る手を見てしまう。
汗をかいたことすらないんじゃないかって思う、透き通るような指。
毎日土ぼこりを被って日に焼かれている私の手とは大違いだった。
見とれていると突然背中がぞわりと震えた。
視線を感じる。
背後を窺うと、図書委員のあの女が、横掛麗衣(よこかけれい)が私たちを見ていた。
ずっと向こうの受付に座ったまま。
私にはわかる。
横掛麗衣も花凜のことが好きなんだ。
時々彼女は私たちの傍まで来て、本棚を整理するふりをしながらちらちらこちらを盗み見てくる。
今みたいに受付から睨みつけてくることも何度もあった。
本当は一緒に勉強したいのにできないから、嫉妬の視線を送ってきてるんだ。
ずっと晴れ渡った気持ちでいたのに、もやもやとした感情が胸の奥で蠢き始める。
私を苛ませるのはたった一つの不安だ。
横掛麗衣に花凜をとられるんじゃないかっていう。
夏休みはもうすぐ終わる。
今は毎日図書館に来れているけど、二学期が始まったら放課後はずっと部活だ。
図書館に通う時間なんてない。
クラスも違う花凜と逢う機会なんてきっとなくなる。
横掛麗衣もクラスは別だけど、彼女は毎日図書館で花凜と逢える。
私がいない間にどんどん仲良くなって、私なんて忘れられて……。
考えただけで怖くて、焦燥感に気が狂いそうになる。
気持ちを伝えなきゃ。
夏が終わるまでに。
分かっているのに勇気が出なくて、今日も私は現実逃避の幸せに溺れようとする。
「紫乃、ぼーっとしてるけど、眠い?」
「ちょっとお腹減っちゃって」
「そっか。チョコ食べる?」
「うん」
花凜がチョコを摘まんで口まで運んでくれるのを、私は今か今かと待ち構える。
尻尾があったらきっとぶんぶん振り回してると思う。
「今だよ」
口を開ける。
とろけるような甘味が入り込んでくる。
舌の上で転がして、転がして、でもこれがキスに変わることはない。
一緒の時間を過ごすだけで私は幸せなんだ。
友達としての今の時間を壊したくない。
そう思っても、私はやっぱり求めてしまう。
蝶だと思う。
私も、横掛麗衣も。
花凜がハイビスカスだとしたら、私たちは甘い蜜を求めて群がる蝶だ。
本物の花と違うのは、蜜を吸えるのはたった一匹だけってこと。
下校の時間が近づいてくる。
ちらりと花凜の横顔を見る。
今日は一緒に帰れるかな。
私たちの家は離れてるけど方向は同じ。
途中までは誰にも邪魔されない二人だけの帰り道だ。
でも花凜は時計に目をやると、
「ごめん紫乃、今日用事あるから先に帰るね」
急いで帰り支度をし始める。
「紫乃、また明日」
「う、うん。また明日」
力なく手を振って花凜を見送る。
花凜は勉強の邪魔にならないよう気を使ってくれている。
本当は勉強なんて切り上げて一緒に帰りたいのに。
でも私は勉強熱心な三葉紫乃として振る舞っているから、そんなことは言えなかった。
下校の音楽が鳴り始める。
帰ろうと思っても気怠くて体が言うことを聞いてくれない。
奪われた帰り道の二十分はあまりにも大きくて、一人であの暑くて長い道を歩く想像をしただけで嫌になってくる。
「また明日」って言ってくれた。
明日も図書館に来てくれるんだ。
早く逢いたい。
でもあと半日経ってもまだ逢えない。
長い。
長くて長くて頭がどうにかなりそうだった。
ふと気がつくと、周りには誰もいなくなっていた。
不気味なほど静かな図書館。
なんだか怖くなって、私も急いで帰ろうとした。
「さようなら」
外に出ようとした瞬間、声をかけられた。
横掛麗衣がモンシロチョウを掴んで翅に黒い絵の具を塗っていた。
「……何してるの」
「汚してる」
血の気が引いた。
横掛麗衣は口の端を歪めて笑った。
「橙木花凜さんのこと好きなの?」
「だったら何」
「あなたも塗ってみる?」
私に向かって蝶と筆を突き出す。指から逃れようと蝶の足がもぞもぞ動く。
「それ、私への当てつけ?」
「楽しいよ」
「私は楽しくない。蝶が可哀想」
横掛麗衣は黙って虫かごの中に蝶を戻した。
白いままの蝶と汚れた蝶がかごの中で舞う。
「ほら、汚れてる方が綺麗」
陰湿な嫌がらせだ。
何も手が出せないから、蝶をいじめて気を紛らわしてるんだ。
思い切り引き戸を開けて外に出る。
熱気とセミの声の中を歩いていく。
ハイビスカスの花壇が見えてくる。
赤、黄、オレンジ、ピンク。
生い茂る緑葉の中から無数の花弁が顔を出し、長いめしべを天へと伸ばす。
誰かが撒いた水が日差しを反射して花も葉もきらめいている。
紫色の蝶が飛んできてピンクの花にまといついた。
はばたく翅に花粉がつく。
私は思わず破顔した。
日は傾いてもまだ夕日にすらなっていない。
遮るもののない空はまだ青い。まだまだ高い。
夏だ。
何怯えてるんだ。
横掛麗衣の嫌がらせは気味が悪くて腹も立つけど、痛くもかゆくもないじゃないか。
私の方がずっと花凜と仲がいいんだ。
決めた。
次花凜と二人きりになったら、告白しよう。
もう決めた。もう変えない。
***
次の日も私は部活終わりに急いで図書館に向かった。
「いらっしゃい、三葉紫乃さん」
横掛麗衣がいつものように声をかけてくる。
カウンターの上にはピンクのハイビスカスが一輪、花瓶に活けられ飾られていた。
「……どうしたの、これ」
「花壇から摘んできた」
学校に花壇は一つしかない。
私が密かに見守ってきた花壇。
思わず拳を握りしめる。
掌に食い込む爪の痛みでも消せない怒り。
ずかずか土足で踏み込んで、勝手に荒らして、他の誰かならともかく横掛麗衣が!
「なんで、そんなことするの」
「摘んできたらって言ったの、あなたでしょ」
横掛麗衣はにやりと笑った。
暗く淀んだ笑み。
こぼれそうになるどす黒い感情を呑み込んで私は奥に向かった。
早く花凜に逢って忘れよう。
学習スペースのいつもの席。
今日も花凜が座っている。
「紫乃」
私に気づいて花凜は小さく手を振った。
満面の笑み。
足が震えだす。
花凜にとっては何気ない動作なのかもしれないけど、私にとっては夢みたいな光景だった。
力の抜けた手をぎこちなく振り返すことしかできない。
花凜が引いてくれた椅子に倒れ込むように腰を落とす。
「どうしたの? 部活大変だった?」
部活じゃない。あなたのせいだ。
なんて言えないから、頷いて部活のせいにする。
チョコをもらって私はまた頭に入ってこない勉強を始める。
今日、花凜に告白するんだ。
考えただけでお腹がキリキリ痛む。
怯えるな。
やらなきゃいけないんだ。
今のふわふわした関係なんて、少し逢わなかったらきっとすぐに消えてしまう。
私と花凜を、もっと特別な関係で縫い付けたい。
一匹の蝶と一輪の花だけの世界。
蜜を欲する蝶と花粉を運んでほしい花、お互いが必要不可欠な関係。
花凜の横顔を見る。
薄いピンクの唇が咲いている。
数学の問題に集中している花凜の意識の外で、唇はひそやかに動く。
上下の唇がくっつき潰れて横に膨らみ、離れるとまた元の形に丸まっていく。
思わず生唾を呑み込んだ。
触れてみたいと思う。
醜い劣情だって分かっているのに止められない。
知りもしない感触をなんとか想像しようとする。
不意にねばついた視線を感じた。
横掛麗衣が私を見ている。
視線で釘をさすように。
私は横目で睨み返した。
昨日決めたことを思い出す。
次に二人きりになったら告白する。
忘れてなんていない。
反故にするつもりもない。
私は、今日、告白するんだ。
時計を見ると、後二十分で下校時間だった。
図書館に残っているのは私と花凜と横掛麗衣だけ。
できれば帰り道じゃなくて図書館で告白したかった。
私たちが出会った場所だから。
横掛麗衣がどこかに行ってくれればいいのに。
コトンと音がした。
目の前に白いコーヒーカップが置かれていた。
黒い液体がカップの中でゆらゆら揺れている。
背の低い横掛麗衣が座る私を見下ろしている。
「な、何……」
「差し入れ」
横掛麗衣は花凜にも近づいてコーヒーカップを差し出した。
「あげる。後少しだから頑張って」
「ありがと、麗衣。気が利くね」
下の名前。
別におかしくはない。
花凜は誰だって下の名前で呼ぶ。
でも横掛麗衣のことは呼んでほしくなかった。
花凜のコーヒーには砂糖とミルクがついているのに私のにはついていない。
嫌がらせだ。
取りに行くのも持ってきてもらうのも嫌だったから、私は我慢して苦い液体を飲み干した。
二人を会わせたくなかったから花凜の分のコーヒーカップも一緒に返しに行くと、受付には誰もいなかった。
受付の横にある階段から足音が聞こえる。
二階の戸締りに行ったんだ。
……今しかない。
カップを置いて踵を返す。
「紫乃ありがと」
微笑む花凜が待っていた。
椅子には座らず花凜の前に立つ。
手も脚も口も震えだして止まらない。
あまりの鼓動の大きさに体全体が揺れてる気がしてくる。
「どうしたの?」
「あの、ね。花凜。……大事な話があるの」
「何?」
花凜の顔から笑みが消えた。
問題を解く手を止めて、真剣な表情で私を見る。
凛とした眼差し。
息が詰まって声が出ない。
違う、出せ。出せ出せ出せ。
「私……花凜のことが……」
じっと私を見てくれている花凜を、私も真っ直ぐに見つめ返す。
思いきり息を吸って、
「好き」
自分の声が静かな図書館の中ではっきりと聞こえた。
目を丸くしていた花凜は一瞬だけ頬を緩ませ、でもすぐに眉尻を下げて、
「ごめん」
はっきりとした口調。
「凄く嬉しいけど、私は、紫乃の気持ちには応えられない」
「……そう、なんだ」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
心のどこかで信じていた。大丈夫だって。
私たちは仲良しだから、きっと花凜は受け入れてくれるって。
ねえ、どうして。
私はこんなに、あなたのことが好きなのに。
視界がかすむ。
気づいたら泣いていた。見られたくないのに止まらなかった。
胸の底に空いた穴から、楽しかった思い出も、泥のように溜まった不安や焦りも、全部全部こぼれ落ちる気がした。
足ががくがく震えて倒れそうになる。
途端に花凜の手が伸びてきた。
腕と背中に冷たいものが触れたと思った瞬間、私は花凜に抱き寄せられていた。
「紫乃のこと嫌いなわけじゃない。好きだよ」
慰めてくれている。
優しくて残酷な処刑だ。
何を言われたって、私が望んだただ一つは手に入らなかったのに。
「ねえ紫乃、こっち向いて?」
耳元で囁く声がした。
言われるままに見上げると、花凜がぐっと顔を近づけてきた。
思わず目を閉じる。
花の香りの吐息が鼻腔をくすぐる。
次の瞬間、柔らかいものが唇に触れた。
ひんやりと濡れている。
ほんのりと甘い。
しっとりした弾力がひたすらに私を押す。
潰れて、押し広げられて、少し離れて形が戻りかけたらまた押されて、唇同士が踊るように何度も絡み合う。
触れる部分が熱を帯びていく。
溶けてしまいそうだった。溶けたかった。
現実に戻りたくない。
唇が離れる。
唾液が細く長く伸びて、途中でちぎれて互いのブラウスにかかった。
「紫乃になら、これくらい全然できるよ。言ってくれたらいつでもしてあげる。だから泣かないで」
「……うん」
必死に目をこする。
できる限りのことをしてくれてる。
大事に思ってくれている。
もう十分だろ。
何度も自分に言い聞かせながら。
下校の音楽が鳴り始める。
私はノートを片付け始めた。
一緒に下校なんてできるわけない。一人で帰ろう。
「明日も待ってるから」
帰ろうとしたら後ろで花凜の声がした。
「紫乃。ありがとう」
振り返れないまま呟く。
外に出て、焼けつくような日差しの中を歩いていく。
眩しい。
全部白昼夢に思えてくる。
夢ならよかったのに。
ハイビスカスの花が咲いている。
私はしゃがんでそっとピンクの花弁に触れた。
触れられた。
花凜の唇にも、同じように。
これからも触れていいと言ってくれた。
でもきっと私は触れないだろう。
キスがしたかったわけじゃない。
私は花凜の特別になりたかったんだ。
明日からどんな顔をして花凜に逢えばいいんだろう。
嫌われたわけじゃない。
きっと花凜は今まで通りに接してくれる。
でも私はもう今まで通りには振る舞えない。
鍵をかけられた扉に向かってずっと声をかけ続ける毎日なんてきっと耐えられない。
……もう今日で最後にしよう。花凜と逢うのは。
立ち上がって図書館へと引き返す。
花凜にさよならを言う為に。
***
図書館にはまだ明かりがついていた。
靴箱には靴が二つ。
汗を拭ってそっと引き戸を開ける。
学習スペースに花凜の後ろ姿が見えた。
声をかけようとした私は凍りついた。
花凜の隣に横掛麗衣がいた。
花凜が身を屈め、横掛麗衣の肩に手を置いて、
キスをしていた。
貪るようにお互いの唇を求める二人を、私は呆然と見つめていた。
二人は長い長い時間の果てにようやく唇を離した。
花凜は見たことないくらい紅潮した顔に惚けた表情を浮かべて、
「やっと……できた。私、凄く幸せだよ、麗衣。今死んでもいい」
「大袈裟」
小さく笑う横掛麗衣に花凜はまた顔を近づけキスをする。
「なんで……」
声が漏れた。
花凜が振り向いてぎょっとした顔をした。
「し、紫乃? どうしてここにいるの?」
「そんなことどうでもいい! なんで花凜がこの人とキスしてるの!」
横掛麗衣が無表情に私を見据える。
「キスくらいする。私と花凜は付き合ってるから」
「……何、言ってんの」
「あなたが花凜と知り合うずっと前から私たちは付き合ってた。あなたが知らないだけ」
「嘘……。嘘だよね、花凜」
「ごめんね紫乃」
謝罪の言葉。
それは他のどんな言い訳よりも、見え透いた嘘よりも、私の心を貫いた。
「なんで謝るの? それじゃあ、ほんとに付き合ってるみたいじゃない……」
「私、本当に麗衣と付き合ってるの」
「じゃあどうしてキスなんてしたの!」
「麗衣とキスする為よ」
「何、それ……意味わかんないよ……」
「麗衣が、誰かとキスして汚れた後ならキスしてくれるって言ったから、私ずっと探してたの。そしてあなたを見つけた」
「汚れてない花凜は綺麗じゃない。ただ清らかなだけでつまらない」
「二人で私を騙してたの……?」
「そんな顔しないで。私が紫乃のこと好きなのは本当だよ。だって、私たちには紫乃が必要だから。紫乃がいてくれないと私たちはキスできないの。だから明日もまたさせて」
「嫌! なんでそんな、二人の為にキスしなきゃいけないの! 私を利用しないで!」
叫んで、図書館を飛び出した。
バカだ。何勘違いしてたんだろう。
私は蝶なんかじゃなかった。
私が花だったんだ。
夏の間ずっとずっと水を撒かれて育てられた、二人の肥やしにされるだけの花。
もう図書館になんて行かない。
私も苦しいけど二人も苦しいはずだ。
またキスできなくなるんだから。
共倒れになればいいんだ。だから行かない。絶対に……。
私は走り続けた。
日差しが強い。頭がくらくらする。
***
十二時。
テニス部の練習が終わって部室に戻る。
制服に着替えて、もうご飯に誘ってくれることのなくなった友人たちの脇をすり抜けて外に出る。
焼けつく日差し。
アスファルトの道がきらきらと陽炎で揺れている。
行かなきゃ。
私の足は熱気を掻き分け進みだす。
開け放しの扉をくぐると図書館の中は明かりが消えていた。
靴箱には靴が二つだけ。
離れた場所に靴を入れて閉館の札がかけられた引き戸を開ける。
クーラーが寒いくらいに効いている。
汗だくの体が震え上がる。
「いらっしゃい。今日は遅いのね」
受付に横掛麗衣がいた。
入り口から差し込む弱い光の中、ピンクのハイビスカスに紫色の絵の具を塗っていた。
「部活が、長引いちゃって」
「花凜が待ってる。早く行ってあげて」
「……うん」
私は真っ暗な図書館を奥へと進んでいく。
途中何度も本棚にぶつかりそうになったけど、次第に目が慣れてきた。
学習スペースの最奥の席に、花凜がいた。
いつも通りに姿勢よく座っている。
私に気づくとすっと立ち上がって、
「紫乃、おいで」
白く細い手指が暗い空気を滑らかに掻いて私を招く。
それだけでもうダメだった。
花凜の手の感触を、かかる吐息を、唇の柔らかさを全身が思い出す。
もう一度欲しいとうずきだす。
見えない糸でたぐり寄せられるように私は花凜に一歩一歩近づいていく。
花凜の手が伸びてきて私の顎の下に触れる。
氷のように冷たい指が鍵盤を弾くようにしなやかに蠢いて肉を押す。
くすぐったい。全身から力が奪われていく。
顎の先に集まっていた汗の玉が花凜の指にくっついてぬらぬらと光る。
顎がくいっと上に持ち上げられた。
花凜が顔を近づけてくる。
暗闇の中でもはっきり見える白い肌。
瞳は真っ直ぐに私を見てくれている。
今だけは、私を。
色彩の消えた中でも唇は淡いピンクに咲いていた。
目を閉じる。甘い吐息がかかる。
唇が触れた。
蜜を吸われている。汚れた蜜。
私がいなくなっても、花凜は別の花を探すだけ。
だったら私を吸ってほしい。
しっとりとした湿り気。
柔らかさの奥にある確かな弾力。
脳がとろけそうな甘美な味。
全てが私を狂わせる。
全身が一斉に歓喜の雄叫びを上げる。
唐突に唇が離れた。
狂いきれないまま半分残った理性で私はぼんやり花凜を見上げる。
「もう、終わりなの?」
「うん。ありがとう、紫乃」
「三葉紫乃さん、ありがとう」
別の声。
いつの間にかすぐ傍に横掛麗衣が立っていた。
唾液にまみれた花凜の口元を見て、
「花凜、凄いベタベタ」
「これならキスしていいよね?」
「いいよ」
花凜が顔を綻ばせる。
私は今まで見てきた彼女の笑顔が全部作りものだったんだと悟る。
私の目の前で花凜は私の汗がついた指を口に当てて舐めた。
身を屈め、横掛麗衣にゆっくり顔を近づけ、そっと唇を重ねた。
暗く静かな図書館に嬌声と湿った音が微かに漏れ響く。
もう私のことなんて見ていない。私が傍にいることだって忘れてる。
私の役目は終わったんだ。
***
外に出た途端眩しい日差しが襲ってきて、私は思わず目を伏せた。
もわっとした大気が全身にまとわりついてくる。
しゅわしゅわしゅわしゅわセミの声がうるさい。
指から滑り落ちそうになる鞄を肩にかけてのろのろと歩きだす。
花壇があった。
一面にハイビスカスが咲いていた。
赤、黄、オレンジ、ピンク。
さんさんと輝く太陽に向かって鮮やかな花弁を開き、長いめしべを突き出している。
紫色の蝶がひらひらと飛んできて、ピンクのハイビスカスにとまった。
もう一匹の蝶が飛んでくると、花粉まみれの翅で駆け寄っていく。
二匹はくんずほぐれつハイビスカスの上で踊りだす。
「あああああああああ!!!!」
気づいた時には叫び出して、鞄をめちゃくちゃに振り回していた。
殺してやりたかったのに二匹の蝶はひらりと避けて空高くへと舞い上がっていく。
青空に溶けて見えなくなる。
私一人が取り残された。
膝から崩れ落ちる。
石畳に触れた皮膚が焼けつくように熱い。
ちょうど目の前にピンクのハイビスカスがあった。
手を伸ばす。
触れた瞬間ふつふつと怒りがこみあげてきて、鷲掴みにして引きちぎった。
花は簡単にもぎとれ、後にはのっぺらぼうの細い茎だけが残った。
その隣のオレンジのハイビスカスも引きちぎる。
赤も黄色も、手当たり次第にちぎるちぎるちぎる。
気持ちよかった。
鞄の中身を石畳の上にぶちまけて代わりに花を詰め込んでいく。
日差しが突き刺さってくる。剥き出しの腕が熱い。日焼け止め塗ってなかったな。しゅわしゅわセミが鳴いている。
ちぎるちぎる。赤、黄、オレンジ、ピンク。全部なくなった。花壇は緑一色になる。
空に向かって鞄を思いきり放り投げた。
石畳の上に寝転がる。
鞄から色とりどりのハイビスカスがこぼれ出して青い空を舞う。私に次々落ちてくる。
夏はまだ終わってくれない。ちぎられない私は咲き続ける。
明日も花凜にキスしてもらおう。
(了)
終わった!!!
というわけで締めます!!!
長時間おつきあいくださってありがとうございました!!!