外気と室温の温度差で曇る窓硝子は、沈みかけた太陽が照らしだした紫を映している。地平線から離れるほどに暗く黒くなっていく其の色を見ていると、ある筈のない記憶が呼び覚まされるようで胸騒ぎがした。
おぞましい経験の記憶が残っていないというのは喜ばしい事であり私を愛玩動物のように拘束して弄んだ男はもうこの世には居ないのだから思い出す必要も無いというのに、何故か一日が終わる頃の空を見るとあの時の残滓が意識の底から滲み出し、胸に凝りを生む。
きっと私は、目を奪われる程に神秘的な美を孕む此の色をあの部屋で見ていたのだ。
「ママ?」
何かが右足に触れる感覚と自身を呼ぶ声に我に返った。視線を窓から足元に逸らせば、大きくて深いブラウンの瞳に私を映して不安げに此方を見上げている。
「ママ、またきぜつしてた?」
「あ、ああ。…ただぼんやりしてただけ。大丈夫よ」
娘曰く、私はしばしば「きぜつ」しているのだそうだ。
気を失っている自覚は勿論無いが、彼女が何を見てそう感じているのかは何となく理解が出来た。
夕食の支度をしながら窓の向こうに広がる紫掛かった空に視線を向けた時、買い物帰りの頭上に広がる夕焼け空が視界に入った時。ふとした瞬間にぼんやりとしてしまう事がある。
其れは疲れや眠気などから来るものとは違い、身体を置き去りにして意識だけが別の場所を彷徨うような気味の悪い感覚を伴う。其れは夢想にも似ている。
「いっつもお空を見ながらぼんやりするのはどうして?」
「…お空が綺麗だから見とれちゃうの。あなたも可愛いものや面白いものを見つけたら暫く眺めているでしょ?それとおんなじ」
「でも私はいっかい呼ばれたら見るのをやめてお返事するよ。ママは何回呼んでもずうっとお空を見てるじゃない。おんなじじゃないよ」
「おんなじよ。ほら、ママはご飯を作らないといけないからあっちでテレビ見てて」
「やだ、テレビつまんないもん。お料理を始めてから30分は経ってるのにまだ出来ないの?」
「お野菜とかお肉一つづつに愛情を掛けて作ってるから時間がかかるのよ」
「できあがったお料理にかけたらいいじゃない。材料ひとつひとつに愛情を掛けるなんてちっとも“ごうりてき”じゃないよ」
つい先程まで私を心配していたというのに唐突に投げられた非難と不服に面食らいつつも幼児特有の舌ったらずな話し方で紡がれた“合理的”という単語がなんとも滑稽で、思わず唇の隙間から細く短い笑いが溢れだした。
娘の得意げな顔を見るに“合理的”と言う単語は彼女のお気に召した様だから、これから暫くはこの言葉を使い続けるだろう。
桃色の唇の端がクイと上を向き、瞬きする度に長い睫毛が蝶の羽ばたきのように揺れる。これは彼女のお気に入りの表情で、此れをすれば大抵の事は許してもらえると思っているのだ。此の顔をすると言う事は、“合理的”と言う単語を放った直後に「父親に教わった言葉を無闇矢鱈と使ってはいけない」という私の言いつけを思い出したのだろう。
「その言葉、パパに聞いたの?」
「…そうだよ。パパは私に悪い言葉を教えたりはしないから使ってもいいでしょ?」
「合理的ってどういう意味か知ってて使ってる?」
「パパは、むだ無くのうりつ的である事っていってた」
「ああ…そう。じゃあママが“合理的”に料理を進める為にもキッチンから出てテレビ見ててくれない?」
「わたしがキッチンにいることでママの作業効率が落ちるの?」
齢5つとは思えぬ饒舌ぶりに関心しながらも喋りが達者な娘をどう追い出そうか頭を悩ませていると、タイミング良く廊下の奥で鳴った物音に意識が逸れた彼女は私の足を呆気なく離しぱたぱたと小さな靴音を鳴らしながら音の方向へと駆けていった。
「おかえり。帰ってきて早々小言は聞きたくないだろうけど言わせて。この子に変な言葉を教えないでよ」
「変な言葉を教えた記憶はないが」
「ごうりてきって変な言葉なの?」
「合理的という単語は変な言葉ではないだろう」
「子供が使う言葉じゃないでしょ。もっと子供らしい言葉を教えてよ。この子の話し方がどんどん貴方に似てきてて会話してると疲れるの」
「其れはオレとの会話に辟易しているとも取れるが」
「」
「パパ、へきえきってなに?」
「辟易とは、」
「そういう言葉を教えるなって言ってるのよ」
「ママね、またきぜつしてたの」
「気絶?」
「そう。お空を見るときぜつしちゃうんだって」
「どういう意味だ?」
「私が空を眺めてぼんやりしているのをこの子が気絶してるっていってるだけ。何度言っても気絶気絶っていうの。気絶って言葉もデイビットが教えたの?」
「気絶はオレじゃない。テレビか何かで見たんだろう」
「絵本で読んだの」
(食事して色々済ませて寝る時間)
「言葉を覚えるのが早すぎる気がする。頭の良さはデイビットに似て良かったけど、デイビットみたいな女の子はちょっと嫌だな…」
「」
「本当にたまにね。でも言われてみればあの子を生んだ後から多くなったかもしれない」
「」
「名前も顔も声も何もかもを忘れてしまっているのに、あの部屋にあの色があったことだけは覚えてる。何の色かは思い出せないけど、宝石ともまた違う複雑な混ざり方をした夕焼けの紫色がトリガーになっていつか全てを思い出してしまいそうで怖いの」
「」
「私は何もしてないのに、どうしてこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないの…?」
「」