今日のおはなし 真八で初恋ネタ
「すずに良い人ができたそうだ」
からん、とグラスの中の氷を傾け、八敷は穏やかにぽつりと零す。
「へぇ、あの子供に」
ちらりと視線を彼にやりながら言葉を返す。そのまま手の中のグラスの中身を煽る。喉が焼け付くような感覚。ふうわりと口内に広がり鼻を抜けていく香り。随分と良いウイスキーなのだろう。目の前の八敷が用意する酒は、いつだって真下が口にした事の無いような芳醇さを持ち合わせている。
「この前あの子がここに来てな。まるで宝箱の中身をそっと見せてくれるように、密やかに教えてくれた。その姿がとても可愛らしくてな」
「おいおい、流石に犯罪だぞ」
「違う、そういう意味じゃない。分かっててからかうんじゃない。……可愛いじゃないか、いつだって周りに気を使い時にな自分の気持ちを押し殺す、そんな優しい子が、あんなに嬉しそうに自分の思いを吐露するんだ」
「今の発言は録音しといて証拠として残しといた方がいいか?」
「だから!」
「はっ、冗談だ」
目の前の男の瞳は、淡く弛んでいる。その下に差す朱は先程よりも濃くなっている。この男は酔いが回ってくると、こんな風にやさしく笑うのだ。幸せをゆっくりと噛み締めるように、その甘さに身体中を震わすように。普段のぎこちない下手くそな笑みとは違う。つい溢れ出てしまうような、無意識の笑みだ。
今では恒例と化した九条館での二人だけの宴の肴は、プロセスチーズを用いた八敷の手料理、真下が持ち込むビーフジャーキー、そしてとりとめのない互いの世間話だ。真下が日々の依頼のことを報告の意を込めて話せば、八敷は日々の調査のことを話すことが多い。だが時たま、この館を訪れる元印人たちとの会話を教えてくれることもある。
そう、彼らは時間を見つけてはこの館にやって来るのだ。何が楽しいのか、こんな冴えない幸薄い中年男に、小学生からホームレスまで、わんさかやって来て世間話をしていく。この八敷という男は、人付き合いを拒み人付き合いが上手ではないくせに、不思議と彼らに好かれていた。
だが、認めたくは無いものだが、彼らの中に確かに自分も入っている。あまり口にしたくはないが、この男を尋ねる頻度が最も多いのは間違いなく自分だろう。彼ら以上に、この男に会いに行くことは自分にとっては必要なことで当たり前なことになりつつあるのだ。
そんなこと、この男には絶対に言ってやるものか。今だってほら、様々な感情を煮詰めて深い色をした真下の瞳になど気付くことなく、彼は呑気に頬を緩めている。その鈍感さにはいっそ呆れ返るほどだ。
ため息を酒で流し込む。少しばかり体に溜まった熱が上昇したような気がする。そろそろペースを落とさなければならないか。
「初恋みたいだぞ」
「はつこい」
「そう。……お前がその言葉を言うと、変な感じだな。似合わない」
「言っとくが貴様も全くもって似合わんからな」
「分かってるようるさいぞ。でも、お前もあの子みたいに、初恋とか、したことはあるんだろう?」
溶けた視線が滑らかに真下に向けられる。その熱から目を逸らし、グラスをローテーブルに起き、皿に盛られたチーズスティックをつまむ。程よい塩っぱさが痺れた舌に染み入る。 器用な八敷の料理は、おかしな仕上げさえさせなければ絶品だった。決して本人には言わないが、真下の好きな味付けだ。
味わいながら思考する。初恋。どうだっただろうか。元々、恋愛というものにてんで関心のない人生を送ってきた。好意を寄せられることはあるものの、それを手放しで喜べるような性格はしておらず。他人と深い関係になることなど滅多にない。
そんな自分が、初恋ねぇ。随分と甘ったるい単語を舌で転がす。記憶を辿りながら、ふと、真下は思い出す。
「あ」
「ん? どうした?」
あった。
「……昔、保育園に行ってたとき。そこの職員の一人に」
「好きだったのか?」
「今思えば」
ぼやけた記憶の中、子どもに囲まれ笑顔を浮かべる女性がいる。その顔はもう朧気だ。だが、やさしい笑みを浮かべていたことだけは覚えている。淡いその笑みが好きで、でもあの輪に入っていけるほど素直な性格はしていなかった。遠巻きに見つめる笑顔に思いを馳せた。あの静かな瞳がこちらに向けられると、胸にほんのりと熱が灯るのを感じていた。きっとそれは、恋だ。恋だったのだ。はつこい。初めての恋だった。
蘇る記憶とようやく自覚した思いに気を取られていると、ふふっと漏れ出たような笑い声が耳に入る。見れば八敷は口元を手で押えながら、楽しくて仕方が無いというにその唇を緩ませていた。全然押さえられていない笑い声に、真下の眉間に皺が寄る。苛立ちを込めて舌打ちをすれば、すまない、と八敷は笑いを一度と止める。
「お前にもそんな可愛い頃があったんだなと思ったら」
「はっ倒すぞ」
「だから悪いって」
「おら、次は貴様の番だ。可愛い頃の話、俺にもしてくれよ」
問い詰めれば、八敷はうーん、と小首を傾げる。しばらく考え込んた後、歯切れ悪く彼は口を開いた。
「俺、と言うよりは、九条正宗の初恋なら」
「……ああ」
「多分、家庭教師の先生だったな。小学生の頃に来てくれていた。切れ長の瞳が涼やかな人だったよ」
「へぇ、ご当主様は年上好きだったとは」
「別に年上に憧れることは誰にだってあるだろう。と言うかお前もそうじゃないか」
八敷の口調は他人事のようだった。いや、実際他人事なのだろう。八敷一男としての人生を歩みだした男にとって、九条正宗はこの世で最も近くて遠い存在だ。
「それで。憧れの女教師にアプローチはできたのか?」
「聞かなくても結果は分かってるくせに」
拗ねたような物言いにこちらの笑みは深まる。彼の人付き合いの下手さはほんの数年でできたような甘いもんじゃない。初恋を覚えた頃には既に出来上がってた不器用さだろう。そんな彼が、意中の人物にアプローチなど、想像もつかない。
「拗ねるなよ。初恋は叶わないものと相場が決まってる」
言いながら、あの時の淡い思いを想起する。結局、一度も自分から彼女の元に駆け寄ることは出来なかった。自分から彼女に言葉をかけたことは無かった。所詮自分は彼女の人生のワンシーンを彩る脇役にもなれなかった。そういうものだ。それが初恋というものだ。
まぁ別に、そのことに今更落ち込んじゃいない。自分の人生の中で、あの笑みだけが今も輝いている。それだけで真下は満足だ。そういうものだ。それが初恋というものだ。
思い出に酔いながらグラスに口をつける。そこで、異変に気付く。目の前の男からの返事がない。どうしたと視線をやれば、八敷は困ったように眉根を下ろしていた。その瞳に浮かぶ哀愁に、思わず目を見開く。
「八敷?」
問いかけに、ゆったりと八敷は真下を見つめる。その頬に咲いた朱は先程から変わらない。なのに、瞳は冷水を浴びたように酷く落ち込んでいる。
「それは、困る」
一言一言、噛み締めるように、八敷が言う。
「だって俺のはつこいは、お前なのに」
悲痛な声音が落とされ。しん、と静まり返る。真下の世界から音が消える。ただ、八敷の言葉が余韻を残し響いていた。
はつこい? 誰が? 誰の?
言葉を一つ一つ噛み締め、それらを全て繋ぎ合わせ、意味を理解し――真下は衝撃で言葉を詰まらせる。
「……は?」
驚いた真下の声には気付かず、がっくしと八敷は肩を落としている。相当酔っているのだろう。きっと今自分が口にした言葉も、どこまで意識して放ったものか怪しい。
だが。酔っている時のこいつの笑顔はどんな笑顔よりも自然だ。酔っているときは、固く固く閉ざされたこいつの思いが、止めどなく溢れるのだ。よく知っている。酔っている時のこいつの言葉に、嘘はないことも。
「……初恋は、あげられねぇが」
その手からグラスを取り上げる。結露でひんやりと冷えきったその指をぎゅうと握り込む。こちらの熱が伝わるように、その指に自身の指を絡める。
夢を漂うようなぼんやりとした視線が向けられる。それを確かに見つめ返して、真下は告げる。
「最後の恋だったら、あんたにあげてもいい」
緩く、八敷の瞳が見開かれる。
あーあ、言う気などなかったのに。心中に浮かんだ後悔はさほど大きくなく、すぐに霧散していく。かけがえのない初恋を捧げられたのだ。ここは素直に最後の恋を捧げてやるのが男というものだろう。
茹で上がっていく彼の顔を見て、真下は愉快な気分を隠さず微笑んだ。