幾ら居酒屋のトイレだからと言っても、これは少し汚すぎると思う。床のタイルはひび割れ、靴跡でタールのようになったガムがへばり付いているし、その溝にはもう取り切れないのであろうカビが根を張り蔓延っているのが見える。長い髪の毛が落ちている。仕切りの板は木製なのだろうか、アイボリーの塗装は無惨にも下方から黄ばみが這い上がり、遠目にそれは醜いグラデーションがかっていた。目の端に映る地に落ちたトイレットペーパーの切れ端に、マキマは判別する以上の興味を見出ださず、また意識から除外する。少しだけ火照った左手で繰り返し、目の前の女の背を摩る。
「君は酔うのがあまり上手じゃないね。」
 丸められた背は何も言わず、手負いの獣のように浅く上下する。やや草臥れたワイシャツ越しに恐らくカップ付きキャミソールのゴムの部分が触って、都度引っ掛かる。姫野はこれもまた汚く古ぼけた便器に躊躇なく頭を突っ込んで嘔吐いていたが、嘔吐くだけで一向に、軽い唾液以外が水面を叩く音はないままだった。
「デンジ君に全部のませちゃったのかな。」
 マキマはそういうのだが、姫野はどうもすっきりとはいかないらしかった。ワイシャツの襟を指先で掻いては、汚い床に情けなく座り込んだまま動こうとしないので、マキマはもう何度目かもわからなくなった溜め息を吐く。
「君は、生きるのもあんまり上手じゃないみたい。」
 肩を引き便器との抱擁を無理に引き剥がすと、姫野の身体は危なっかしくぐらぐら揺れる。もうまともな平衡感覚も残っていないらしかった。いつも頬に掛かる彼女の短い髪は汗か吐瀉物かで濡れそぼり張り付いていて、マキマは先ずそれを掬い耳に掛けてやる。酔っ払いの定石に違わず、姫野の頬は赤く、熱い。やはりこれも何かの湿度にしっとりと濡れた黒い眼帯は表情を覆い隠して、それ以上は見えなかった。
 マキマは右手を差し入れ、柔らかく唇を抉じ開けると姫野の口内に指を突っ込んだ。姫野はもう大人しく口を開くから、存外、抵抗なくするりと入り込む。
 歯をさわり、舌をさわった。横から覗き込むにも限度があるため殆ど手探りであったが、先ずつるりとして固いものがあり、その奥にぬるついてどこよりも熱いものがあるので先ず間違いはない。マキマの指は儀礼的にそれらを割り開き、さらに奥を目指す。
「トマトの中身に似てるね。」
 そう言いながら、今、きっと喉をさわった。筋張った感触が爪の先にあって、皮膚が殊更薄いようだからマキマは指を引っ込める。その僅か手前の舌の奥のあたりをさわり、確かめると押し込んだ。
 押すほど、姫野の喉は変な音を鳴らした。ゼリー状にさえ思えた唾液に潤った舌はなんてことはない、筋肉質が上等に指に反発をする。指先から伝わるのは先までの乾嘔より骨に響く、産毛の逆立つような深い音だった。くぐもって醜い、蛙のような音。マキマはふと、彼女の横顔の普段は隠れたもみあげの毛が未だ細く幼いものなのだと気がついた。指先に崩れかけの食べ物だったものが押し寄せるから、ずるりと右手ごと引き抜く。
 姫野はそのまま、大層勢い付いて、今一度便器を抱き締めるようにして頭を突っ込んでしまった。脇目も振らない。直ぐに質量が水面を叩く音だけがするのでマキマはまた、汚れていない方の手で背を摩る。感動の再会をずっと見守る気にはなれなかった。
 然し、空気が悪い。見渡してみても換気扇の働くような音はしなかった。代わりにちょっと高い位置に、既に開け放たれた小窓が一つ。立ち上がってそれを覗くと、闇の中、喧騒の光に当てられて浮かび上がるのは密接して建てられた隣のビルの壁面だけである。風もないのでまともな換気は見込めずに、ただ連られて胸の悪くなりそうな空気を肺から追い出そうとマキマは大きく息を吸った。姫野の背は病的にぜいぜいと音を立てている。その内、よぼけつつゆっくりと頭を上げた。
「らに、きいてなかった。」
「ありゃ。」
 胃の内からの臭気を避けるべくか、彼女の呼吸は未だ不規則に乱れて肩が揺れている。ずび、と鼻をすすり上げてはまた新しく気分悪げに顔をしかめた。マキマはトイレットペーパーホルダーの上からペットボトルの水を取り上げる。蓋を開けて姫野へと差し出す。
 彼女はさりさりとスタンダード・カラーを、また、ネクタイの結び目を落ち着かなげに引っ掻いていたが、ペットボトルには素直に手を伸ばした。が、目測を誤った指が引っ掛かる。力の落ちた指でも軽量ボトルは呆気なくくしゃりと潰れ、その輪郭の体積分がへこみ歪んだ。
「おお…」
 姫野は今度は慎重に、酔っ払い特有の大仰にそっとペットボトルを捕まえた。一息に呷り、嗽をしてまた便器へ戻しに行く。マキマは繰り返すそれの途中でからだを捕まえて、彼女のネクタイを解いてやった。
 首許には女の熱気があった。高い体温と汗が籠っていて、指先にポリエステルの布地が湿ってさわる。からだから離れた分が表面だけ急速に冷え、俄にひんやりとする。むっと立ち込めるのを尻目に、マキマが煙草臭いネクタイをくるくると丸め纏めるのを姫野は瞬いて、それから静かにじいと見ていた。
「襟も開けたい?」
「ウン。」
 貝に似た輝きを持つ小さなプラスチックボタンに留められたスタンダード・カラーは、やはり抵抗なく簡単に開く。汗ばんだ肌と鎖骨は戦闘職種にあっても女のかたちをしていた。アルコールの向こうに、ミルクにも似たなにかが匂い立つ。
「今、デンジくんもトイレに戻しに行ってるよ。荒井くんが着いてる。」
「んー、んじゃあだいじょぶだ。いい子が居てよかったな。」
「早川くんもね、デンジくんを見るって言ったけれど彼は良く飲んでたからもう一人で立てなかった。」
「そっか。」
 姫野はあやふやと頷き、また手元のペットボトルを呷る。首が大きく傾いだ、随分と乱暴なやり方だった。それから寛げた胸の辺りを擦り、今度は胸のつかえを取るような、飲み下すような仕草をする。勢いあまって溢した分が顎から喉へと透明なまま伝った。ペットボトルの水はいつの間にか半分以下になっている。
「もういいや。」
 それを濡れた胸元を気にしながら片手間に、悪びれなく差し出すから、マキマは受け取り握ったままだったキャップで閉じた。手の内でペットボトルがまた、ひしゃげる。マキマが耳にかけた筈の彼女の横髪は呷った拍子にだろうか、零れ落ち、また頬に掛かっている。
 便器の水位は幾ばくか増していた。黄白色の崩れたものの中にトウモロコシの粒が見えて、ついマキマは食べたものを反芻する。それを考えないように足早に蓋を閉じた。蝶番が脆いようで、丁寧に下ろさなかったから硬質な衝撃が澱んだ熱を過激に叩く。錆びたレバーを表示に従い手前に回す。衛生的な排水の音がする。呆気ない。
「戻ろっか。」
 マキマは、ポケットから取り出したシルクのハンカチで右手の指を拭った。温くなったぬめりに汚れた面は内側に畳まれ、またポケットの中に仕舞われる。姫野は積年の手垢に擦れて金属光の薄くなったトイレットペーパーホルダーに手をかけて、やっとからだを起こした。何も言わなかったけれど、マキマは自発的にそれを手伝った。
 姫野の身体はやっぱり力が抜けてくたくたとしていた。日頃のように背筋はしゃんと延びなくて、健康的にみなぎる筈の活力は見る影もなく落ちぶれている。でも力の抜けた分、腕を肩に回しふれた脇腹は柔らかい、と思った。姫野のからだは素直に、マキマの腕のうちにある。また、ハンカチもマキマのポケットのうちにある。
「ゲロ、私も試しておけば良かったかな。」
「んー、ふふ。」
 マキマさんのそーいうとこ、嫌い。
 姫野は結局礼を口にすることはなかった。ただ、貸す肩に覆い被さって詰められたパーソナルスペースで囁いた、揶揄いの色の強い言葉尻は掠れていた。
 ワイシャツに縫い止められた貝風の加工がされたボタンを外した時きり、その後姫野と視線が合うことはなかった。目の前にごちゃごちゃと寄せ集められた安っぽいジョッキの縁に賑やかな光が乗って、マキマは向こう側を見る。喧しいような品書き、青い海のポスター。職場の同僚。食い散らかされて汚れたつまみの皿。焼きトウモロコシのカスが台布巾に巻き込まれていて、ネズミの荒らした痕跡のようだと思う。歓楽街の温い夜風も、今夜は革靴を重たくしない。
ーーー
 金属臭というのは成分的にキノコの臭いに近いと聞いたことはあるがそれは本当なのだろうか。マキマは何となく、そういうことを思い出した。然し生憎、金属臭は飽きる程に知り尽くしていても、比較対象の生のキノコの匂いをマキマが思い出すことはなかった。知らないのだ。気にしたこともなかったから。
 キャスター付きの椅子を引いてすぐ、酷い顔をした部下が訪ねて来た。急用の中身をマキマは知っている、形式的な作戦報告書と今回の被害全域の展望を彼は纏めて持ってきたのだ。足元を急かし詰める職務にマキマは着席の時間も与えられていなかったから、まず青い顔をした彼に息をつく暇を与え、そのため殊更落ち着いて席に着いて汗まで拭って見せた。それでも彼の視線は定まらない。
 陰る憔悴の色に彼は辞職するかもしれないな、と思った。前線に出ず撤退作戦と収拾、補填が主な業務の事務系の人員であったとマキマは記憶していたが何か、余程にショックだったのであろう。彼が書類を差し出したその親指の爪甲はぎちぎちと歯形か、醜く歪んでいてずっと細かく震えている。新しく入る人材よりこうして居なくなる使える人材の方が多いのだから、やれたものではないと思う。
「戦場残留物、味方のもの、及び敵勢集団のものも確保してあります。一部は鑑識が既に持っていきました。各所で業務に当たっていた四班の殉死体も回収、ご家族に通達し検死に移行します。」
「はい。」
「早川の意識が戻っていません。警察病院に入りましたがその配下の魔人たちは同病室に出たり入ったりしています。彼の診断書もこちらに入っています。」
「目を通しておきます。デンジ君たちは恐らく問題がないんだね。行って貰うところがあるので回収しに行きます。」
「彼らも傷を負っていましたが輸血パックの提供をしたため直ぐに快方しました。お願いします。それからこれが姫野の遺留物です。彼女も殉職しましたが、悪魔と取引をした為に消失、遺体は残りませんでした。終わり次第鑑識に回しますが殉職者と共にまず書式の作成をお願いします。」
「はい。」
 
 集まって飲んだ同僚は皆トウモロコシの粒のように食い荒らされてしまったのだろう。こうして残るのは歯で削ぎ落とし切れなかった分の胚盤や果皮なのだ。また、儚い全ては報告書という台布巾で拭われる。どこに行っても変わらない。昨日の夜は確かに楽しかったのだ、と改めて思い返すのは京都行きの新幹線ぶりに二度目のことである。
 書類の挟まれたクリアファイルを一枚手に取る。昨日肩を貸したときは確かな質量を持っていた筈の彼女は、大きなチャック付きビニール袋二つ分に密閉されて収まり、今やコピー用紙の束の隣、マキマのデスク上に載せられていた。この二つは衣類の分と革靴の分である。それより一回り小さな傍らのビニール袋には、恐らくポケットに入れられていたであろう雑貨が詰められていた。擦りきれた二つ織りの財布と、ボックスの煙草とライター。折れ曲がった公安手帳。百円で買えるような安っぽい三色のボールペン。
 どれも規定の通りに形質保存をする為、密閉されているから金気臭い訳がないのだが、昨日と同じ型の白いワイシャツとその胸の変色した華のコントラストを見て、マキマは彼女の血の臭いがそこから確かに立ち上っていると思ったのだ。結局キノコの匂いはわからなかったが、それに立ち代わるようにメビウスの煙の色を思い出す。
 女性の社会進出が進み、また生身の人間とは比較にならない程の力を持った悪魔の協力者が台頭してきた現代において、能力の性差などはあまりに些細な時代遅れの傲慢であるが、それでも尚公安というのは何時になっても男所帯であった。その上寿命の残り時間に期待をする者というのもたいして存在しなかったので、ここには日常の供に煙草の手を取る者が多く居た。内訳はコミュニケーションの一環としての社交をする者から現実逃避先の束の間のバカンスをそこに見いだす者まで、千差万別であったが彼女もまたこの内の一人に、それも恐らくヘビーユーザーの一人であった。昨晩の一挙動で香る指先からは、きっと二度と落としきれないであろう紫煙の燻る匂いがしていたためだ。
 本部の正式な入り口から裏手の、非常階段の踊り場にはどのフロアにも灰皿が後付けで置かれてある。どのフロアのものを選んでも何時でもそれらは際限無く詰め込まれた吸殻で満杯であったから変わらないのだが、姫野は主に中、上層フロアのそれらを気に入って使用しているようであった。数度見かけたことがある。下層フロアでは見掛けたことがない。それから一度、姫野とマキマはそこで口を利いたことがあった。
 秋口の風の強い日だった。姫野は欄干の冷たい鉄に身体を大胆に預けるのが好きなようで、すれ違う後ろ姿は何時もそれであった。その日もまた、短い髪を風に洗わせて身体ごとそっぽを向いている。然し苛々と背をやたら小さく丸めているのを見ると、恐らく強風に煽られて煙草の着火に失敗を繰り返しているようであった。防火扉を開けた形でいたマキマはそれを見て、幾らか引っ込んではどうかと呼んだのだ。姫野は振り向いた。つまらなそうな目と、目が合った。ちょっと不躾に見た後、彼女は分かりやすく人好きのする笑みを刷く。
「マキマさん、珍しいね。」
「そうかな。」
「マキマさんって、こんなしょうもないことで気遣ってくれたりするんだ。」
 相変わらず彼女の毛先は荒れ狂っていて、それから正面から見てわかったが、耳の丸まった縁が随分と赤くなっていた。未だ冬の気配には遠くとも高所の強風は浴び続けるには些か冷たい。
「火の用心だよ。姫野さんの髪は今日は日柄少し燃えそうだから。」
 姫野はマキマから視線を外し、踊るそれを目で追うようだった。ややあって黒いまなこは険を持ち、かさついた掌でぱたりと片側のそれを覆う。からだごとマキマの方を振り向いて、抑えない側を風下に置くと腕の陰で手早くライターが着火をした。やっとまみえた紫煙はくゆる隙もなく、のぼるたちどころに霧散していった。
「忠告ありがとう。同僚の親切を知れて随分良い日だな、今日は。」
 火種は煌々と輝いていたが、侵食するスピードは特に速い。彼女もそれを思うようで、咥え煙草にしては指を離さず、どうやらあっという間に尽きようとする火のいのちを見極めるようにしていた。
「そうかな。コストパフォーマンス的には、どうやら悪い日みたいだけど。」
「そうかも。煙は逃げるし物足りないや。勿体無いしもうやめておこうかな。」
 おどける言い草は社交辞令じみていた。証拠に姫野の手は隠しようもなく、間髪入れずにポケットへと伸びている。分かりやすく視線が合うことはない。
ビニールの服を着たままのメビウスの箱が最小の動きで抜き取られた。まだそのボックスの角は摩耗しておらず、直方体にぴんと張ったままで真新しい。その癖蓋をとると銀紙に包まれた残りの本数は、既に僅かとなっていた。
「あれ。」
 姫野は揺すって改めたものの、ビスケットではないのだから煙草が増えることはなかった。そこからまた新たな一本を減らすと乾き気味の唇に咥え、今度は手間取らずに火を着けると姫野はライターを代わりにボックスの隙間に詰め込んだ。そしてそれを再びポケットの中へと押し戻す。
 マキマは足を踏み出してやっと開きっぱなしだった防火扉を閉じた。ドアノブには手のひらの熱がすっかりと移ってしまっていた。革靴が硬質な音を鳴らす、踊り場の鉄の無骨な肌には踏みにじられた煙草の葉の散り散りや灰が擦り込まれ錆び付いていて、煤けた鉄骨と一緒になってこの一角はどうしても治安が悪い風に見える。姫野は言外にマキマが去るのを立ち尽くしたまま待っていた、そしてまた、それはマキマも同様であった。踵を返し、下り行くとそれを追い立てるように灰皿から溢れた誰かの吸殻が風に乗って階段を転げ落ちていく。足早に追い越すそれを見送って、マキマが脚を止めることはない。折り返しで見えたのは姫野が、山盛りの灰皿にまた呆気なく潰えたらしい吸殻を幾らか強引に捩じ込む後ろ姿であった。
ーーー
 マキマは至って宗教に熱心な方では無かったが、こうも煙の臭いばかりが過るのは何か線香をあげるのにも似ているなと考えた。
 然し殉職していった部下は星の数ほどあり、また今日こうして書類上に残されていくだけの彼らも片手では足りない。尽力によりもたらされた1-オクテン-3-オンを残された者が殺してはならないのはどの時代も同じだろう。人道的には白昼夢を見るのは悪いことではないのだった。
 マキマは頭に入れたこの後のスケジュールをなぞりながら、まだ脇に控えていた事務方の彼に献花用の花束を頼んだ。彼の返事は一息遅れ、やっと、今度は幾らか落ち着いていた。公安には殉職者用の霊園が広大な土地に用意されている。
ーーー
 マキマはその夜眠りに落ち、その足で直ぐに砂浜を踏んでいた。茶がかった灰色の細かい砂が永遠と、向こうの方まで小さな丘を作っては連なり、また少し波打ち際の方へ行ったところには貝殻だろうか、うっすらと白っぽいものがその上に境界線を引いている。マキマは革靴を履いたままでいて、歩むとその先が干からびた海草の塊を踏みつけた。見やれば所々に付きだした流木の刺がある。きっと靴は脱がない方がいい。
 曇天を映して暗灰色の沖には遠くに、ヨットが出ていた。重たい空を突き上げるように白い帆がそびえ立ち、また風を孕んで空気を割くように、音もなく静かに進んでいく。ウサギのように細かな波が跳ねていた。堤防に区切られた近く浅瀬の内側にである。そこに浮かんだ陸繋島を
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