何故、純那は奴隷に口づけを許した。
 何故、純那は奴隷を愛した。
 腹の底、内臓を燃やし尽くして火の手をあげる激情が真矢を内から突き上げる。純那はこれまで決して真矢に口づけを許さなかった。許嫁だというのに一度たりとも。今は亡き先王が決めた婚約を、真矢とて心底から喜び望んでいたわけではない。恋慕の情など自分達の中にはない。だが、それでも真矢はこれまで純那に心を砕いてきた。純那が望むものは全て与えた、遠い土地で純那を思い目がよく見えない彼女のために眼鏡なるものを手に入れた。しかし、純那が心を与えたのは自分ではなく、あの死にかけた奴隷だ。
 何故、自分には何も与えられない。
 純那だけではない、誰からも何も与えられない。
 国土を広く、国を豊かにしたのはこの若き王真矢だ。ウルジナの民は皆、先王の時代より裕福な暮らしをしている。だが皆口を揃えて言うのは、蛇蝎の如き恐ろしき王、蛇のように冷血な王、蛇王真矢。石を積み、砂に埋もれて死ぬことしかできない奴隷は死体となっても口づけを得るのに、王たる自分には何一つない。
 いつの間にか握り締めていた拳を、真矢は椅子のひじ掛けに叩きつけた。衝撃に手が痺れ、痛みと共に憤りが頭を突き抜け腹の底から己を熱く焦がすだけだ。この怒りは何処にも消えてはいかない。
「まぁまぁ、どうです? 酒でも飲んで気分を落ち着けては。」
 部屋の隅、家臣の一人が微笑みを浮かべて歩み寄って来る。ねばついた笑みだ。その内に、何かたくらみを孕んだ顔。真矢は顔の表面から怒りを消す。これまで名前を覚える必要にもかられなかった、彼のような特筆することのない家臣に、憤りの理由など察せられたくはない。そう考え、しかし真矢は唇を引き結んだ。
 純那が真矢に向かって生きたる者を愛したことはないと言い、代わりに奴隷に愛と口づけを与えたのは、もはや王宮の皆が知っている。誰もが容易に、真矢の心底をわかったふりで、好き好きに話しかけているのだ。この家臣とてそうだ。
 許嫁の口づけ一つ得られなかった真矢に、今、憐れみの言葉を掛けたのだ。
「それは、私に酒に逃げろと言っているのですか? 私が酒など飲まねばならぬ人間だと?」
 開いた口から発した声は、酷く冷えていた。
 家臣のしたり顔から、さっと血の気が引く。王の間に控えている他の家臣や警護の兵にも緊張が走るのが分かった。それすら真矢の内側を燃やす火種へと変わる。
 何も持たない王の中、その空洞には炎しかない。
「私をそのように弱き王だと言うのですね。」
 蛇蝎のごとく、声は冷めているというのに。
 真矢は静かに玉座を立った。そうして、腰に帯びた剣の柄へと手を伸ばす。それは眠るときさえ傍らにある刃。真矢の最も傍にあるもの。
 慕われる王であるべきだなどと、世迷言だ。
「真矢王、それは」
 力で君臨する以外に、どうして存在できよう。
 廊下を歩く侍女のまひるを純那は呼び止めた。
「私がやるから、あなたはいいわ。」
 まひるの手にあった盆を指さすと、彼女は驚いて目を丸くした。
「そんなお持たせするわけにはいきません。まして、手当させるなんてもっての他です。」
 盆に乗っているのは医者に処方された薬草と布だ。傷口の腫れを引かせ、回復を早める効果があるという。真矢からもらい受けたクレールという奴隷の怪我の治療にと、医者に毎日取り換えて手当しろと指示を受けていた。純那の屋敷に運び込まれて昨日までは医者が自ら手当てしていたが、傷口もだいぶ塞がってきたので今日からは屋敷の者で行うことになっている。
「お医者様の手順を見ていたもの、私でもできるわ。」
 純那は言いながら、やや強引にまひるから盆を取り上げた。まひるが「そうは言われましても」と食い下がるが、純那は取り合わずに、廊下を歩き出した。確かにまひるは器用だし、多少の怪我の手当はたくさんいるという兄弟の面倒を見て慣れているのは知っている。だが、命にかかわるような傷ではないとはいえ、クレール程の大きな傷を負った人間の世話は初めての筈だ。純那との技術の差は大きくないのではなかろうか。それに加えて、クレールの手当の様子は、純那以外は見ていない。
腹を横一文字に斬った浅い傷と、左手の平を深く切った傷、そして左肩からわき腹にかけて袈裟懸けに斬り付けられた傷口だ。五日の内に傷を見るのにも慣れたし、クレールは手当て中に暴れ出したりもしない辛抱強い患者だ。純那が自ら手当てすることについて懸念はない。
「終わったら呼ぶわ。」
 一方的にそう告げると、純那はクレールを寝かしている部屋に自分一人で入った。扉を閉めるとき、まひるが渋い顔をしていたが見なかった振りをした。
「あれっ、まひるさんは?」
 高い声が純那の背に触れた。純那は澄ました顔で振り返る。
「私が手当するわ。彼女には他の仕事があるから。」
 窓際に置かれた小さな寝台に横たわったクレールが純那を見て首を傾げていた。朝のまだ柔らかさの残る日差しが窓から差し込み、駆け込んでくる風がクレールの明るい色の髪を揺らす。元々は来客を一時通しておく為の部屋だったのを潰して、この真矢から譲り受けた少女の治療に使っている。
「え?」
「ちゃんと見てたのだから私にも出来るわ。安心しなさい。」
 寝台の隣に置いた机に手当ての道具を置くと、純那は
純那に手当てを受け、回復を図るなな
言葉を交わすうちに、少しずつ惹かれていく。
ななは元は商人の家に生まれたと語った。愛国家で、国王の言葉をよく父も言っていたと。
だからあんな行動に出た。
ななは純那の聡明で、そして王としての真矢に寄せる想いを知り惹かれていた。
国を憂いて、王に変わって欲しいと願うこと。
あの人も孤独なのだろうと。
「ななみたいな優しさが、あの人にもあればよかったのにね。」
ななは真矢を憎んでいる。
だが、真矢を愛してはいないが、王に願いを寄せる純那を憎めない。
純那は真矢の許嫁なのに。
怪我も癒えつつあったななは、そっと純那の屋敷を去った。
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向き
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鷹と蛇の続き
初公開日: 2020年05月08日
最終更新日: 2020年05月08日
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コメント
タァライトのファラオの墓っぽいパロの続き。
筋トレ
アヤカさんはミモザがこぼれるように咲く頃、動物園のペンギンの檻の前で懐かしいおもかげを見た話をしてく…
瀬をはやみ