怖がらせ
朝は重たい曇り空だった。窓硝子を雨が打つ、断続的な音が耳を塞ぐ。霊幻は最後の鉢植えを抱えて玄関の中に入れた。様々な大きさの靴と共に緑は溢れていた。
「雨、すごい?」
靴箱の陰から子供が身を乗り出す。「すごいよ」と霊幻が教えてやると、子犬のように黒く濡れた瞳が輝いた。父親によく似た目だ。
「見たい」
「駄目だ。朝ご飯にしようか」
「えー…」
不服そうな息子の後頭部を手のひらで押さえ、そっとリビングのほうへ押し戻す。朝から温めていたスープと、昨日のうちに買っておいたパンの朝食を思い描きながらキッチンに向かうと、子供は椅子には座ったものの窓ばかりを見ている。
「ねえ、どうしても駄目?」
「何が」
「外…」
「駄目」
サラダとスープを先に食卓へ置くと、先にテーブルへついていた娘は少し不機嫌な顔をした。近頃は好き嫌いが多い。もっと小さな時は反対に何でもよく食べたものだ。すりつぶして、溶かしてあるものを食んでいた小さな唇は、今や意志を持ちはっきりと言葉を話す。
「ミルク」
「お兄ちゃんにやってもらいなさい」
「コップ貸して」
これは最近出来るようになり、やりたがるので霊幻は子供にさせてやるのだった。パンをトーストし、他の色々な準備が済んだ後、やがて三人の静かな食卓が始まった。外の荒れる様に目をやり、霊幻はひっそりとため息をつく。休日で本当に良かった。二人共を連れて、この中を学校まで送ってやるのは骨が折れただろう。霊幻の内心を知らず、子供は歌うように言う。上機嫌だ。
「お父さんからメール来たの?」
「来てないよ。まだ寝てるんじゃないか」
「ニューヨークって雨かな」
「どうかな……ずいぶん離れてるからな。聞いておこうか」
「うん……」
子犬の眼差しは再び遠くへ飛ぶ。親を見て嬉しそうにする、いつも自分を見てほしげにするあの瞳は今、好奇心に満ちているのがありありと分かる。注意を逸したくなり、霊幻はリモコンでテレビのスイッチを入れた。普段はあまり食事中には点けない。
ニュース番組は今朝から近くにやって来た台風の様子を伝えていた。リポーターが何度も「警戒が必要です」と硬い声色で繰り返す。映像が切り替わり、空高くから川が映った。濁流が空気ごとうねるような音が聞こえる。波打つ水流はいっそう子供の興味を惹いたらしく、それは夢心地の声だった。
「近くで見たいな」
「なんで?」
返事をした自分の声の強張りを、霊幻はすぐに後悔した。責めるように言っても仕方ない事だ。パンの柔らかく引き裂かれる音が、さくさくと静寂を共に千切る。娘がレタスを避け、トマトを寄せるためのフォークが皿を無遠慮にひっかく音も会話に混じって溶けた。
「ちょっと見るだけでも、駄目なの」
「危ないだろう」
「平気だよ。僕は普通の子と違うんだし」
「…どうしてそんな風に思うんだ」
「超能力者だから」
息がぐっと喉を塞ぎ、心臓が苦しく縮こまる。霊幻は食事の手を止めて、息子をじっと見つめた。大きな声で怒鳴る、威嚇する、そういう手段で脅す事は意味がない。分からせるように話す事こそが大切で、何も知らない者にどんなに腹を立てようと意味がなく、常に冷静な対話を心がけるべきだ。何十冊も読んだ育児書の文言が脳裏を流れていく。流れていくだけで、あまり心の何処へも響かないのを霊幻は身を以て感じていた。親の説教と同じだ。
「……雨が降ると、川の水は量が多くなる。近くまで行って、転んで落ちたりしたらお前くらいの子供なんて簡単に飲み込むぞ」
「僕、溺れた事ないよ」
「そういう事を言ってるんじゃない」
「でも…」
「近くに排水溝なんかがあったらもっと怖い。こういう日にはすごい勢いで水を吸い込むから、足を取られてそのまま引きずり込まれて、誰も助けになんか来てくれないんだ…合羽と長靴のままじゃ泳げないし、そのまま溺れるのってすごく苦しいだろうな」
相手を諌めたい時に、なるべく落ち着いた言い方を選ぼうとして嫌味になるのは昔からの癖だが、それが子供相手にも発揮されるものだと霊幻は長い間知らなかった。親であろうとするほど、いつも自身の未熟さを重く味わう羽目になる。子供は霊幻をじっと見ていた。頬は薄赤く染まっていた。
「でも気をつけるから…」
「いい加減にしなさい!」
怒気を含む大人の声が空気を震わせ、同時に金属が床を打つ甲高い音が穏やかな空気を切り裂いた。それは幼い娘が手からフォークを取り落とす、ベビー用のダイニングチェアで唐突な眠りに落ちた合図だった。霊幻は布巾を持って席を立ち、飛び散ったドレッシングを拭くために屈んだ。
「ああ…」
下を向くと子供の細い足がテーブルの下で揺れていた。それから涙が落ち、鼻を啜る音が霊幻の床を拭く手を追いかけた。
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モブ霊に子供がいる掌編
初公開日: 2020年04月28日
最終更新日: 2020年04月28日
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コメント
書き終わるまでやるかは分かりません