朝の話
初夏の陽気と真冬の気圧をこれでもかと繰り返す日々を終えて、ようやく、春らしい日差しが定着してきたのだろう。起き抜けの静かな部屋も、裏起毛の部屋着で動き回ると、少し汗ばむくらいには暖か買った。実弥は着替えもせずにキッチンに立ち、ほとんど罪滅ぼしのような気持ちでコーヒーを淹れて居た。無糖のコーヒーなど苦いだけの飲み物だと実弥は思っているが、彼の同居人は好んで飲む。
昨夜、実弥は同居人である冨岡義勇と、久しぶりにひどい喧嘩をした。もともと、「ウマが合う」とか「仲が良い」という言葉とは無縁の二人であるので、言い争いは頻繁にあった。実弥と違って、義勇は口の回る方ではない。勝敗に意味のない舌戦を延々と繰り広げるくらいなら、「頭を冷やして来る」と寒空の下、平気で出て行こうとするし、出ていったら本当に「頭が冷える」まで帰ってこない。一度周りも巻き込んで散々な思いをしたので、大抵の場合は、そうなる前に実弥が義勇をやり込める。やり込めるというのは、義勇が納得するまで話をするという事ではない。いつかどこかで爆発してしまうかも知れない火種の開花を先延ばしにするだけの、いわば虚しい行為だった。
父親の話
実弥は暴力性は遺伝するのか、と考えることもあった。彼の父親はいわゆる「どうしようもない男」の典型である。働かないし、金は無心するし、母親も自分自身も散々な苦渋を強いられてきた。一番厄介だったのは、幼い実弥にもその兄弟にも見境なく暴力を振るうことだった。実弥は幼心に、どうして母親のように優しく、我慢強い女性が、あのような男と結婚しなければならなかったのだろう、と思っていた。
セックスの話
殴り合いが出来ないから代わりにセックスしているのかも知れない、と思うほどだった。
関係性の話
義勇と過ごしていると、時折、途方も無いほどにやり切れない気持ちになる。何が実弥をそうさせるかはわからないが、義勇に出会ったことを心の底から後悔したくなるのだ。実弥は、理知的であるし、他者に対する想像力もある。家族を愛し、友人に恵まれ、地に足のついた生活をしている。今までもそうだったし、おそらくこれからもそうだろう。義勇の存在が実弥のそうした部分を脅かすということは決してないが、誰にも触れることのできない実弥の琴線にいとも容易く触れる事ができる、という点において、冨岡義勇はすでに不死川実弥の脅威と言ってよかった。そんな存在と一緒にいること自体が不健全だし、健康的ではない。自由になれ、というのはそう言う事だと思うが、実弥は義勇を誰にも渡したくなかった。全く、身も蓋もない話である。
宇髄の話
二人の共通の知人は多いが、今になっての二人のことだけでなく、「昔のこと」もよく知っている人物と言えば限られている。そのうちの一人である宇髄天元は、実弥が珍しく酔っ払ってあれこれと零したとき、「自由になれよ」と言った。
サービスエリアの話
「この辺じゃ、それくらいしか特産品もないからね。」
立ち寄ったサービスエリアで盛んに売り出されて居たのは、蜂蜜である。
国産の蜂蜜は高値と聞いた事があるが、地産地消の
義勇はこうして時折、知らない街で生きて行く想像をする。それは練習なのかも知れない、と思っている。実弥と別れて、一人で生きて行くための練習だ。遅かれ早かれ、
そういうことになるかも知れない。予感や確信ではなく、可能性の一つとして、ずっと考えていることだ。
「ほらよ」と、後ろから声をかけた実弥が義勇に差し出したのはプラスチックのカップだった。「お前、好きだろ、コンビニのコーヒー」
ストローは紙のしか無いんだと。と、言いながら、実弥は車のキーをピ、と鳴らした。実弥は優しい男だ。いつまでたっても、どうあがいても、どこにも馴染めないような義勇とは違うのに、どうして自分のような男と一緒にいる事を選ぶのだろう。義勇はずっと不思議でならなかった。実弥が二十五歳になるのを見届けたら、それがきっと終わりの時にいちばん、相応しいのかもしれないと、また詮無い事を考えてしまう。