時計の針が、落ちるまで
その日、私は四回目の卒業式を迎えた。
私自身のではない、敬愛する先輩方の、だ。
感動の式が終わって、講堂から卒業生たちが列をなしてゾロゾロと出てくる。私たち在校生は、彼らの通る花道を作っていた。
皆、一様に涙を目に溜めているが、どこか清々しい表情で笑い合っていた。彼らは三年間、切磋琢磨したライバルであり仲間だ。革命の荒波を切り抜けて、それでもなおアイドルとして咲いている。本日無事卒業するというだけでも奇跡なのだ。そんな彼らは二列になって歩きながら各々に左右前後の生徒らと思い出話に花を咲かせている。
「あれっ、あんずちゃん!」
「卒業、おめでとうございます」
花道の端っこに隠れるように佇んでいたのに、さっそく羽風先輩に見つかってしまった。とても嬉しそうに笑って、こちらに小走りで駆け寄ってくる。羽風先輩の後を追うように、その後も私の顔を見つけると駆けつけてくださる三年生の皆に感謝を込めて、笑顔と一緒にそう告げる。旅立ちの日にふさわしいほどの青空が眩しい。
後輩である私たち二年生や一年生も、彼らとの別れをさみしがっていた。
もう、明日には彼らはこの学院にいないのだ。どこを探し回ろうとも、教室や廊下、各部室で彼らとすれ違うことはおろか、言葉を交わすこともない。いつだってあたたかく見守ってくださっていた先輩方は、今日で新天地へ向けて歩みを進めるのだ。
でも、私一人だけは違った。
プロデュース課が創設された初年度、革命を乗り越えた夢ノ咲学院は激動の一年だった。
それらすべてを乗り越えた先に、卒業、そして芸能界が待っているはずだった。
三年生は学院を卒業してしまうが、これで二度と会えなくなるわけではない。卒業が終わりなどではないと言ってくれたのは、たしか羽風先輩だっただろうか。さみしさはあるけれど、永遠の別れなどではない。だからこそ、芸能界という荒波の中で輝きを放つであろう彼らに再び会える日を楽しみにしていた。
卒業をしていく先輩方に挨拶をして、感謝の気持ちを伝える。誰一人漏らさずに、あくまで平等に。
ただ一人を愛することは罪だ。
私はアイドルの皆が好き。歌って踊って、彼らがステージの上で輝いている時間が一番の喜びだった。それと比べたら私の気持ちなんてちっぽけなものだ。
「あんず」
「蓮巳先輩」
ふいに顔を出す人が途切れて私ひとりになったとき、タイミングを見計らったように、その人はやってきた。
あまりに突然の登場に、胸の奥底が跳ねそうになるのを必死に抑えて、いつも通りを装う。
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
今、私が出来る精一杯の笑顔を作って、なんとかそれを盾にして向かい合う。やさしく慈悲深いその瞳に捕えられると、私の心はきゅっと苦しくなる。だが、密かに慕っていたこのひとにさえ、皆と同じ言葉しか言わない。
「一年間、世話になったな」
「いえ、こちらこそ……」
初めて出会った頃からは信じられないような穏やかな空気が辺りに漂う。
敵対者として出会ったはずの私たちだったが、蓮巳先輩本来のやさしさや温かさに触れるたびに、いつの間にか私はこのひとのことをプロデュースするべきアイドルではなく、ひとりの男性として恋い慕っていた。
尊敬の念を寄せていたはずのそのひとを、いつしか恋愛対象として好きになってしまったのだ。
いつ好きになったのか、はっきりとしたことはわからない。ただ、彼のそばにいると安心できるのだ。誠実で実直、時にお茶目な人柄に惹かれたのだと思う。
言葉はなかなか続かないが、きっと蓮巳先輩も私も、照れ臭いのだ。無言でいてもけして気まずくはならない。
爽やかな風が二人の間を駆け抜ける。さらりとやわらかそうな蓮巳先輩の深緑の髪を、はらはらと舞わせた。胸ポケットに、卒業生だけが差すことになっている一輪の紅い薔薇が水色のブレザーによく映えている。その色が、紅月を彷彿とさせますね、とでも伝えたらよいのだろうか。
こんなふうに何を話そうか、と考えては目を泳がせてしまう。蓮巳先輩に伝えたいことはそれこそ山のようにあったはずなのに。肝心なときほど、私の口は動いてくれない。蓮巳先輩も先ほどから口を開いては閉じを繰り返し、今は右手を口元に当てて何かを考え込んでいる様子だ。
もどかしいけれど、嫌な感じは微塵もしない。
二人の間に漂う朗らかな空気に流されて、つい余計なことを言ってしまいたくなる。早く離れたいけれど、ずっとそばにいたい。矛盾した感情が私の中で揺らいでいるときだった。
「……それでその、」
「おーーい! 蓮巳ー!」
何かを言いかけた蓮巳先輩の言葉を遮ったのは守沢先輩だった。
「やっと見つけたぞ!」
ザ・登場!という効果音が相応しいそのひとは華麗に現れた。やっと見つけた!と喜んでいる守沢先輩に勢いよく腕を掴まれたこともあって、蓮巳先輩は驚きを隠せない様子だ。
なんでも、クラスメイト同士での記念写真を撮影するため、蓮巳先輩を探し回っていたという。
「あと揃っていないのは蓮巳だけなんだ!」
少しだけ息の上がったヒーローの登場に、二人だけの時間は終わってしまった。ほんの少しでも、私にとっては蓮巳先輩と二人きりで話ができるということは本当に貴重で、次はいつできるかわからない。ううん、もしできたとしても、その時は『プロデューサー』と『アイドル』という現実が、今よりも私たちの心の距離を遠ざけてしまっていると思う。仕事の話とか、踏み込んでも睡眠はしっかり取れてるかとかそういった当たり障りのない会話になってしまう。きっと蓮巳先輩が言いかけたことは、そういう類のものではない、今、ただの先輩と後輩だからこそ言える類の言葉なのではないかと、少し期待してしまう自分に嫌気が差した。
「いや、でもこいつと話が……」
「私には構わず皆さんで写真撮影してきてください。記念の一枚になるはずですから」
言いたかった言葉は、グッと喉の奥に押し戻した。そう、これでいいのだ。
「待て、話が……!」
「……話ならまたいつでも聞きますから。ほら、行ってください」
話の続きをしようとするも叶わず、半ば力ずくでクラスメイトの元に連行されていく蓮巳先輩は、名残惜しそうにこちらを見ていた。それを私はただ、笑顔で見送ったのだった。
恋になり損ねた想いには、最後まで蓋をして心に秘めたままにしておいた。この気持ちがはっきりと形になって相手に伝わることはおそらく、ない。
彼らの卒業とともに、奥底に仕舞われて、もう二度と日の目をみない。それでよかったのだ。お墓まで持っていく。その覚悟がその時の私にはあったのだ。
卒業式が終わっても、仕事はあった。私はいつも以上に仕事に一心不乱に打ち込むことで、心の奥に微かに残る靄を消し去った。
たとえ卒業したとしても、こうして仕事を通じて会うこともあるだろう。また、いつか。
それからの数日はまるで蓮巳先輩のことを忘れる、いや記憶を封印するかのように新年度に向けての仕事を身を粉にするように行なった。そう、またいつか先輩と後輩として会えると信じて。
朝、目が覚めるとベッドの上に横たわっていた。いつものように制服を身につけて登校する。……いつものように?
胸の動悸とともに違和感は大きくなる一方だった。
見慣れた通学路、見慣れた学院、見慣れた生徒。ただ、私はまだ二年生だった。
今日から学院にやってきた、新設されたプロデュース課の転校生。それが私だった。
学院ではかつてのように、明星くんがキラキラとした笑顔で迎えてくれた。
私はまた転校生に戻っていたのだ。
あの革命の一年は?
すべては夢?
目の前が一気に暗くなる。
混乱のなか、明星くんたちに連れられてやってきた校庭の一角に設けられたステージ。現れる生徒会役員。そのなかに、やっぱりいた。若草色の瞳は私を覚えてはいなかった。
私を見つめる優しい瞳が、突き刺さるような厳しいものに戻っていて動揺するしかなかった。値踏みするような視線に、私は必死に涙を堪えていた。
私はどうしてしまったのだろう。頭のなかにある彼らアイドルと過ごした一年間の青春は、偽りの記憶なのか。家に帰宅するたびに毎日泣いた。革命に向けて生徒会を打倒しようと奮起する明星くんたち。もう一度こうして真正面から蓮巳先輩と敵対するなんて、夢にも思っていなかったから。
私は大切な宝物だったあの一年を忘れたフリをした。何もなかったことにしたのだ。だって誰も覚えていなかったから。皆にはないはずの記憶がある私を、消してしまった。
二回目の一年目は緊張の連続だった。これはもしかしたら夢なのかもしれないと、何度思ったことだろう。現実だと認めるのが怖かったのかもしれない。大切なものが手のひらから零れて落ちていく感覚に近いだろうか。
三月三十一日を迎えて、夜。目を閉じて眠って、そうして意識が戻ったときにはまた元に戻っていた。
一年を確実に迎えたはず。一年をループしている。この仮定は私の気のせいではなかったのだ。
いつになれば終わるのかわからない長い物語の中に突き落とされたかのようだった。
今日も一日、学院内唯一のプロデュース課の生徒としてアイドルである皆のために書類仕事からお裁縫、体力仕事を次々とこなす。そうやって毎日はあっという間に過ぎていく。一度経験した仕事は、より成功するようにと知恵を出し、一般的な女子高校生が到底こなさないであろう仕事量をこなしていった。
今年一年頑張れば、また一年頑張ればもしかしたら。そうやって同じ一年を繰り返し重ねていた。
変化をもたらそうと、少しずつアレンジを加えながら日々を過ごした。昨年は選ばなかった選択肢を意識的に選び取って現状を変えようとしたのだ。彼らへの返答を少しずつ変えれば、それなりに少しずつ結果が違うこともあったが、物語を大きく変えたり、ループを起こしている世界の刻を進めたりすることはできなかった。
一向に進まない一年間のなかで、封じ込めていた恋になりかけていた感情は消えることはなかった。むしろ、封印していたところからはみ出そうになるほどに肥大して私を困らせた。
蓮巳先輩を見かけるたび、会って話をするたび、ふいに触れてしまった指先に。心は躍り、プロデューサーの仮面を被っていられなくなりそうだった。ほかに女子がいないこともあって、蓮巳先輩が私を妹のように大切に扱ってくれていることも、何度か繰り返すなかでわかっていた。たとえ眼中になかったとしても、アイドルは恋愛禁止だとしても、それでも恋い慕う気持ちを抱くことだけは止められなかったのだ。
彼と過ごすときだけは、アレンジすることを完全に放棄していた。違う返答をして不信感を持たれたり、少しでも彼の不快な気持ちに触れることを怖がったのだ。
春から夏になって、秋になる頃には、私と蓮巳先輩の関係はただの先輩と後輩という関係を越えていたように思う。少なくとも私はそう感じた。ずっとこの友好な関係を維持できたのならどれだけいいだろう。それも三月までのことだと、私は諦めていた。
そう、何度も繰り返すなかで、私はすっかりこの箱庭の世界から抜け出すことを諦めてしまっていた。
アイドルの皆と過ごす青春は眩しくて、何度経験してもやりがいのある仕事だったのはたしかだ。
抗っても未来が変わらないのなら、今のまま大好きな皆や恋慕っているひとのそばに永遠にいるのも悪くないと、思い始めていた。
年度末に向けて引き継ぎやらなんやらで忙しくなる頃、今までに起こったことのない出来事があった。
天祥院先輩から生徒会に呼び出されたのだ。
どの小さなアクションが今回の呼び出しに繋がったのかは不明だ。想定外のことが起こるのは、一体いつぶりなのか。好奇心よりも恐怖が勝ったが、生徒会長直々の呼び出しだ。行かないわけにはいかない。
まるで泥の中を進んでいるかのように重い足取りで、生徒会室の前に到着する。これから何が起こるのか、あまりにも予測できず、ノックを渋った。
「どうぞ」
扉に触れてもいなかったが、たしかになかからそう聞こえたのだ。私は腹を括ってドアノブに手をかけた。
「……失礼します」
天祥院先輩の声に導かれて入った室内には、私と先輩のほかは誰もいなかった。
がらんとした生徒会室では、天祥院先輩はいつものように一番奥の生徒会長席に座っている。その表情は先輩の背面に施されているガラス窓から差し込む逆光でよくはわからなかった。
「ふふ、大丈夫。ここにほかの役員はおろか、君と僕以外の生徒はいないからね」
目視ではあったが、きょろきょろと室内を見渡したためか、すっかり心を読まれてしまった。
私は生徒会長席のすぐ前に歩みを進める。頃合いになったと判断されたのか、天祥院先輩の口が開いた。
「あんずちゃん、今日ここに呼び出された用件は、わかるかな?」
「……わかりません」
一見、やさしい問いかけに見えないこともない。天祥院先輩はいつもこうだ。一体何を言い出すのかがまったく予測できず、冷や汗が背中を伝うのがわかった。
「そう。じゃあ単刀直入に聞くけれど、君は敬人のことが好きなんだろう?」
「え、」
しん……と生徒会室の刻が止まったかと思った。目の前のひとは悪気もなさそうにテーブルの上で手を組み、肘を乗せてニコニコとしている。今、なんて言ったの。
「あれ、聞こえなかったのかい」
天祥院先輩の一言ですっかり固まって動けなくなってしまった私に対して、さぞ愉快だとでもいうように天祥院先輩は微笑みながら次の言葉を放った。
「告白してみたら案外成就してしまうと思うのだけれど、どうかな?」
どうかな? ではない。可愛らしく小首を傾げている目の前の皇帝陛下の意図を図りかねる。密かに恋い慕っていた相手を見抜かれたうえ、アイドルとプロデューサーという関係であることを知りつつその想いを応援しようだなんて、どうかしている。
「蓮巳先輩に告白なんて、しません」
どこか拗ねたような響きにも聞こえてしまうような、そんなトーンの声がつい出てしまう。
「あれ、敬人じゃなかったの?じゃあほかに好きなひとがいるのかな? その子でもいいんだけど……」
天祥院先輩は、違ったの?ときょとんと目をまるくしている。じゃあ誰なのかな?と無邪気に私の好きなひと探しをしている。
「好きなひとはいません」
「……ふぅん、そうきたか」
伏せられた瞳は、一瞬鋭い眼光を放ったが、すぐに細められていつもの調子に戻った。
「あんずちゃんは気がついているんじゃないかな? この学院の刻が止まっていることに」
「!」
「正確にはループしている、と言ったほうが正しいかな」
指先から血が引いて冷たくなっていく。やはり、ループは現実だったのだ。他でもない天祥院先輩の発言だ。これは間違いないだろう。
ただ、今まで指摘を受けたことが一度もなかったこともあり、いざ私以外の人からこの事実を突きつけられてしまったことに、頭がついていかない。
「このループに気がついているのは僕、あんずちゃんを含め本当に少数の者だけだ。勘のいい者はほかにも違和感程度なら抱いているかもしれないけれど……」
天祥院先輩は次の言葉を溜めて、右手を顎に当てた。こういう時の天祥院先輩は、面白がって先を言わない傾向がある。焦れったくなってしまった私は、先を急かすように早口で促す。
「……その、ループと私の告白に何の関係が?」
弓形に歪められた口元は心から楽しそうに目を輝かせながら言う。
「僕はこの世界を解放させる鍵は君なんじゃないかなと思っているわけだ。そこでこの一年間、様々な活躍をした君がしなかったことを探したわけだよ。つまり恋だね。こんなに選り取り見取りでそこそこ平均以上の男性がいたなかで君がしなかった、否、しようと意図的に思わないようにしたのかな。だから恋愛にこそヒントがあるんじゃないかと思ってね」
ふふ、と口端に笑みを溜めた天祥院先輩は、妙案だろう? とどこか誇らしげな顔をしてこちらを見る。私は表情をなくしてプロデューサーとしての仮面をきっちりと被り直した。
「申し訳ないのですが、その件であれば辞退させていただきたいです」
「どうして?」
心の底から理解できないというように、天祥院先輩は座っている椅子に仰け反り、目をまるくした。
「私はあくまでプロデューサーです。彼らと恋仲になることは私自身が許せません」
そう、許せないのだ。刻を繰り返す箱庭で何をと思うかもしれないが、そこを譲ってしまったら、私は私でなくなる気がした。
「何もそこまで物事を大きく捉えなくてもいい。僕は君に、自分の気持ちに素直になって欲しいだけなんだ」
「私は今でも十分、自分の気持ちに従っているつもりです」
「……本当に?」
じとりとした空色の瞳は、念を押すようにこちらを捉えていた。
「……ええ、本当に」
それは偽りのない気持ちだった。たったひとりの相手との恋愛を成就させることよりも、皆とプロデューサーとして健全な距離感を保っていたい。ひとりを選んでしまったら、そのつもりはなくても、どうしても贔屓がでてしまうだろう。
そんなことになるくらいだったら、特別な感情は排除するべきだと、私は心の底から思っている。だから、いくら天祥院先輩からのお願いだとしても、簡単に首を縦に振ることなんてできない。
「君は僕たちの未来が気にならないのかい?」
「……未来?」
そう聞き返しながら首を傾げた私を見て、天祥院先輩は目に輝きを灯して言った。
「そう。僕はもちろんこの学院も気に入っているけれど、早くソトでアイドルとして活動してみたいな、とは思うよ。君のなかではアイドルはこの夢ノ咲学院という箱庭のなかで活動するものだと思っているようだけれど、それは違うよ」
最後の一言、その言葉を放った天祥院先輩の瞳は冷たく、晴れやかだった空は急に流れを変えて曇天を連れてきた。私を強く批難したそれだった。
「そ、そんなことは……!」
「だったら、さっさとまやかしの箱庭なんて捨ててしまいなさい」
沈黙が訪れる。つい先程まであんなに表情を豊かにして、雄弁に語っていたはずの天祥院先輩は、もう感情が読めなくなってしまっていた。
「さて、話は以上だよ。よく考えて。君の賢明な判断を期待しているよ、僕たちの女神様」
天祥院先輩に突きつけられたのは現実だった。
繰り返す毎日にすっかり慣れきっていて、未来のことを考えなかったわけではないけれど、また明日、そのまた明日と結論を延ばしてきたのは違いない。誰もループが起こっていると、気がついていないのだと思い込んでいた。
「あんず……?」
意識も漫ろに俯きざまに廊下を歩いていると、向かい側から来た蓮巳先輩と鉢合わせてしまった。
これは前回までにはなかったことだった。いつもと違う行動をしたから、出会えるはずのひとが変わったのだ。
「どうかしたのか? 顔色が悪いが……」
不安に青ざめているであろう私の顔色を心配したのか、蓮巳先輩はすぐ目の前までやってきて顔を覗き込まれた。
「なん、でもないです」
残っている体力を振り絞って、少しでも蓮巳先輩から離れようと試みたが、それは許されないようであった。
「なんでもないことはないだろう。生徒会室で休んでいけ。茶ぐらい出す」
正直今あの場所には戻りたくなかったが、せっかくの蓮巳先輩からのお誘いに、心がつい揺らいでしまう。私が返答につまっていると、蓮巳先輩は行くぞ、と一言だけその場に残して踵を返し、生徒会室へと真っ直ぐに向かっていく。私は黙ってその背中に着いていくしかなかった。
生徒会室に戻ると、そこにはもう天祥院先輩はいなかった。正直、助かった。またあの鋭い瞳に晒されることになるかと思うだけで、背筋がゾクりとして気が気ではなかったから。
蓮巳先輩は茶器やら菓子やら何やらを戸棚から取り出して、本当に私にお茶を出してくれるつもりのようだった。手伝います、という私の宣言は華麗に無視され、「座っていろ」そう一言だけ残すと慣れた手付きであたたかいお茶を用意してくれた。
「落ち着いたか?」
優しい声で問われて、私は静かに頷く。
机と椅子を寄せて私と蓮巳先輩は隣り合うように座っていた。
そうして蓮巳先輩の淹れてくれたあたたかいお茶と甘いお茶菓子を頂いていると、久しぶりに心からの休息が取れた気がした。同じ日々を延々繰り返してきた私にとって、『新しい出来事』がどんなに新鮮なことか。それだけでも嬉しいことなのに、自ら避けてきたとはいえ、目の前には大好きなひとがいて……。もしも私がプロデューサーなどではなくて、ただの女の子だったとしたらどれだけ幸せなことだろうとありもしないことを考えてしまうほどには浮かれていた。
「その、大丈夫か?」
「?」
突然の蓮巳先輩からの問いの真意が読めずに、首を傾げていると極めて真剣な顔を向けられた。
「……英智から呼び出されていたのだろう?あいつに何か嫌なことを言われたのか?その、俺でよければ相談に乗るが……」
ぴくりと勝手に身体が反応してしまう。その一瞬すらも見逃してはくれない。
「……最近、英智が日に日に衰弱しているような気がするんだ。そのことで何か八つ当たりを受けたんじゃないのか?」
衰弱。微塵も感じさせないほどの圧を放っていたように私は感じたのだが。ただ、あの天祥院先輩のことだ。たとえ弱っていたとしても、努めて隠すだろうし、そんなことで八つ当たりなどするだろうか。何と答えたら良いかと考えあぐねて回答せずにいると、蓮巳先輩は肯定と受け取ったのか珍しく鼻息を荒くして、「隠さずに言ってくれ、いくら弱っているからといって後輩に当たるなど……!英智に断固直訴する!」と息巻いている。
私は天祥院先輩のもとに今にも飛び出して行ってしまいそうな蓮巳先輩を、慌てて止めようと急いで言葉を探す。
「そ、そんなんじゃないんです……!私がいけない、といいますか……」
天祥院先輩が不機嫌になったのは、私のせいだとしか思えない。彼の提案を、学院の刻を動かすことを拒んだから。そうとは夢にも思っていないであろう蓮巳先輩は、私のために真剣に怒ってくれているのだ。
「たとえお前に落ち度があったとしても、可愛い後輩がこんなにも落ち込んでいるんだ。仕事はしっかりこなさねばならないが、それ以外のところで厳しく当たってどうする」
突然の【可愛い】という単語に心臓が跳ねる。蓮巳先輩からしたらそれは他意のない、純粋に後輩である私に対しての好意の言葉なのだろうけれども、私にとってはまた違った意味が含まれてしまうそれに、動揺するなというほうが無理な話だ。
「わ、たしは、小さな閉ざされた世界で、好きなひとたちと楽しく同じ時間を過ごせればそれでよかったんです。でも、天祥院先輩はそれでは駄目だって、もっと外を見なさいって言うんです」
「外を……?これから嫌でも見なければいけなくなるだろうが……」
「……蓮巳先輩は近い未来、そう、夢ノ咲学院を卒業したら、どうしたいですか?」
「なんだ、藪から棒に……。そうだな、アイドルとして歌って踊って、お客様に笑顔を届けたい。あとは……もっとアイドル業界を繁栄させたいのかもしれないな」
「だが、まだ俺たちはその前に学生だ。残された学生生活を楽しむことも大切だ」
「本来の予定であれば、今日はもう少しこのまま生徒会室で仕事を片付けていくつもりだったんだがな。もう外も暗い。送って行こう」
「そんな、悪いですよ!先輩のお仕事の邪魔をしてしまったのに……」
「いいや、いいんだ。お前だって忙しいなか、英智の戯れに付き合ってくれたんだ。あいつの幼馴染として礼を言おう」
会話を交わしつつ手際よく生徒会室の整理整頓を済ませ、
人気のない日の落ちた校内を二人、並んで歩く。奇跡のような時間。二人分の足音が静かに響いていた。窓の外から差し込む月の明かりを頼りに昇降口へ向かっていく。この時間がずっと終わらなければいいのに。
何を話さなくても、ただ隣で寄り添って歩けること。今まで一度も起こり得なかった、否、起こることを私が拒んでいたんだ。二人きりになることが、こわかったんだ、私。
「先輩は、未来が怖くなったりしないんですか?」
ふと、気がついたときにはそう口にしていた。
「……恐怖よりも期待のほうが多いな。もちろん、良いことばかりではないだろう。だが、俺たちが体験したことのない新しい世界に放り込まれるんだ」
それ以上になることもないけれど、それ以下になることもない。
ぬるま湯のような彼らとの時間。いつから彼らの未来を夢見なくなったのだろう。皆がアイドルとして輝くことをあんなに願っていたのに。そう、私は大好きなあのひとと離れ離れにならずに生きていけるなら、そのためなら、この永遠の箱庭にいようとしてた。
泣きたかった。
どちらともつかずに、ただ目の前の蓮巳先輩に縋り付きたかった。
叶わぬ願いは無理やり飲み込んでなかったことにしてしまった。
結局、私はどちらも選べないでいた。
選ぶにはあまりにも迷う時間が長かった。うやむやにしてから、もう四回もの季節が流れていたのだ。いきなり選択しろと言われてもそう簡単に決めることなどできない。そんな勇気が私にあったのならば、とっくにやっていただろう。
天祥院先輩が個人的に私にコンタクトを取ってくることは、あれ以来なかった。
きっと私の判断を待ってくれているのだろうと思う。
数度顔を合わせはしたが、至っていつも通りだった。だが、にこやかな笑みの下では、一向に行動に移す気配のない私を蔑んでいるのかもしれなかった。だからかわからなかったが、天祥院先輩の目をまともに見ることができなかった。
そうして今年もまた、卒業式の日を迎えた。
あいさつをしに、わざわざ私を探しに来てくれた蓮巳先輩から声をかけられて、脈が早くなる。何度も繰り返してきた場面だが、件の天祥院先輩の声が頭のなかに響くのだ。
――だったら、さっさとまやかしの箱庭なんて捨ててしまいなさい。
大切なものが詰まった箱庭をどうして壊すことができるだろう。まだ見ぬ先がどんなに素晴らしいものだろうと、
「卒業、おめでとうございます」
精一杯の張り付いた笑みを蓮巳先輩に向けることしか、私にはできない。
「ありがとう」
本当にこれでいい?
「一年間、世話になったな」
想いを告げることもなく、彼らの未来を潰してでも同じ時を繰り返し過ごすことが私の本当の願いなの?
「あんず?」
そんなの嫌だ!!
蓮巳先輩の手を引いて、守沢先輩が現れるはずの方向とは逆の方向へ走る。視界の端に瀬名先輩が見えたけれど無視して振り切る。
「い、いきなりどうしたんだっ」
息を切らして箱庭から身を隠したのは、初めて出会った場所にほど近い校舎の影のなかだった。
息を整える間にも、いつ元のループに強制的に戻ってしまうか、怖かった。守沢先輩に見つかってしまったら、私はまた諦めてしまいそうで。そうしたらまた一年を繰り返さないといけなくなるのだろう。今の私にはそれがこわいことに思えてしまったのだ。ずっと、今私の隣にいる若草色の優しい瞳をしたこのひと
突然のことに、蓮巳先輩は頭上に疑問符をしきりに浮かべていた。
「もう、あなたに忘れられたくないんです」
「は、」
蓮巳先輩の頭上の疑問符は大きくなるばかりだ。でも、説明している暇はない。私の口は止まらなかった。
「今だって、泣きそうなのを必死に堪えているんです」
涙は目の縁のすぐそこまでやってきていて、なんとか押し留めている。
「どうして」
「あなたのことが好きだから」
言った。言ってしまった。
「俺も、お前が、あんずのことが好きだ……」
ふわりと白檀の香りが、ふんわりとすぐそこまでやってくる。ああ、蓮巳先輩の香りだ。そう思うと、安心と同時に鼓動が早くなる。細身な体躯は実際に包まれるとその引き締まった筋肉に驚かさせる。細さゆえに強調されることのなかった大きな身体が、私をやさしく包み込んだ。あったかくて、鼓動が重なった。
「あんず……」
そっとくちびるが重なる。
重ねて、すぐに離れた。顔面が熱を帯びてうまく蓮巳先輩の顔が見られなかった。
「……貴様のくちびるは、やわらかいな」
顔のすぐ近くで囁かれる、甘やかな
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敬あん
初公開日: 2020年04月19日
最終更新日: 2020年05月04日
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あんスタ敬あん
完成まで近くて遠い
山の神、鹿の子
御形様フェスに参加したい。山の神様な御形様とディアケンタウルスな恵という自分の性癖詰めました。
あぼだ