僕の大好きなおうさま、僕だけの、とっておきの、おうさま
おうさまは早起きが苦手だ。いつもベッドから出てきて一言目には、もうこんな時間だ!と言う。僕はあまり頭が良くないから、時間の事を言われてもあまり分からない。
でも、きっとおうさまが言うから『こんな時間』なのだろう。
おうさまはいつも退屈している。僕は頑張って、色々な事をしておうさまの退屈を紛らわそうとするけれど、あまり頭が良くないから成功した試しはない。覚えたての芸を披露してみたり、遠い記憶のどこかで聞いたおとぎ話をしてみたりするけれど、おうさまは何時だって小さく鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまう。
おうさまが楽しそうにしている時は、大抵だれかにちょっかいをかけている時だけだ。最近のちょっかいの相手は決まっていて、おうさまは大きな口を開けてげらげらと笑う。時には笑い過ぎて椅子から転げ落ちる事もある。おうさまは針金みたいな体をしていて、ふかふかで雲のような座り心地のあの椅子は、ちょっと大きすぎるんだと思う。
転げ落ちてもまだげらげらと笑うおうさまを見ていると、最近はざわざわと何かが胸を撫でていく感覚がする。楽しそうにしているおうさまを見るのは、僕にとっても嬉しい筈なのに。笑い転げて頭を打ちそうになる王様を支える様に隣に腰を下ろす。
そんな僕の肩におうさまはその金色の頭を預けて、僕に体重を預けながら向こう側を指さす。
飛び散る頭や、口を大きく開けて駆け回る何か。吹き出す液体は赤黒くて、その何かはしかめっ面をして、何かを叫んでいる。その言葉はよく分からないから、僕はやっぱりあまり頭は良くないんだろう。
おうさまはそんな僕に凭れながら、また楽しそうに笑う。
向こう側の何がそんなに楽しいんだろう。おうさまが見ているその風景はいつも騒がしくて、ごちゃごちゃしていて、せわしなく動いている何かは虫みたいにも思える。狭くて小さな建物にぎゅうぎゅうとひしめき合っていて、一瞬も同じ風景が無くて僕はいつも見ていると疲れてしまう。
だから僕は、瞼を伏せる。
そうしたら、見なくても済むから。
「暇をやろう、少年」
「え?」
「僕は寛大で寛容だからな。君に暇をやると言っているんだ。どこなりと好きな場所に行って、好きに過ごせ」
じゃあな、と言われた。その言葉を理解した時には遅かった。おうさまはそこにはもう居なくて、僕はぽかんとバカみたいに口を開けて、どこか良く分からない、騒がしくて、ごちゃごちゃしていて、せわしなく動いている何かに囲まれていた。
虫に見えていたその何かは、虫ではなくおうさまや僕とよく似た、けれど全く違う生き物だった。というか、虫に見えていたのは遠くから見ていたからそう見えていただけで、近くで見ると僕より大きかったり小さかったり、長い髪や短い髪、肌の色や姿かたちも違っていた。
「ちょっと、アンタ…だいじょうぶかい?」
僕よりいくぶんか横に大きい、そして僕と同じくらいの大きさをした何かが僕に向かって話しかける。肌の色は僕と違って少し焦げているし、髪も違う。おうさまの髪は金色で、さらさらだったし、僕の髪は黒くて癖がある。けれど、この人の髪はおうさまのそれとも、僕のそれとも違った。
「全く、どっから来たんだろうねぇ、アンタは」
ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す僕に、その人は不思議そうな顔をしてぽりぽりと頭を掻く。どこから、と言われてもおうさまのところから、としか言いようがないのだけれど、だからと言っておうさまがどこに居るのか、今の僕にはさっぱりだ。
「まあいいさ、取り敢えず怪我も無い様だし。この辺りは生存率も高いから大丈夫そうだね。でもぼさっとしてたらすぐに死んじまうよ、命が惜しければさっさと家に帰りな」
家。聞いたことのない言葉に僕は首をかくんと傾ける。
「家だよ、アンタの家だ。あー何て言うか…ねぐら、…うーん…ねぐらっていうか、そうだなぁ、帰るところ!帰るところだよ!さっさとそこに帰らないと!こんな所でそんな風にぼーっと何時までも突っ立ってたら、身包み剥がされたって文句は言えないよ?」
帰る所は最初から決まっている。おうさまのところだ。でも、おうさまは僕に暇をやると言った。その暇が終わるまでは、帰ってもおうさまが迎えてくれるとは思えない。
「あー…もう!そんな顔して!!もしかしなくても、あんた帰る所がないとか!そういうのだろう!本当に!あたしはお人よしだよッ!!」
僕より少し横に大きくて、僕と同じくらいの高さで、そして僕より焦げた肌をしたその何かは頭を振りながら大きな声で叫ぶ様に言うと、付いといで!と言って背中を向けるとすたすたと歩き出した。
その背中が、全然似ていないのにどこか似ている様な気がして、それが少し可笑しくて、僕はちょっとだけ唇が上向く様に思えた。
その何かー何かって言うんじゃない!あたしはドロシーだ!-はいつも僕より横に大きいその体を揺らして忙しそうにくるくると動き回っていた。それは、何時かのおうさまの隣で見た虫のような何かと同じようにせわしなくて、騒がしくて、でも不思議とあまり不愉快では無かった。
あの時はあんなに虫のように見えたのに、最近はその何かードロシーだって言っているだろう!-が動いている様子を見たり、わんわんと大きな声を上げている所を見るのも楽しく思えてくる。
げらげら、と笑っていたいつかのおうさまの顔を思い出す。楽しそうに、時には椅子から転げ落ちながら笑うおうさま。きっとおうさまはこれを見ていたんだ。
今日もドロシーは大きな体を横に揺らしながら、忙しそうに左右に動き回る。ドロシー曰く、これは仕事なのだそうだ。長い棒を振り回し、大きな音を立てる機械を引きずり、びしゃびしゃに濡らした布を擦り付ける。
「たのしい?」
「楽しいもんかい!金が貰えるからやってるんだよ、アンタもさっさと仕事を覚えて手伝ってくれたらいいのに」
バケツを抱えてドロシーの後ろを付いて行く。廊下を歩くドロシーは、ぶつぶつと文句を言いながら長い棒をまた振り回しては、大きな音を立てて機械を転がしている。僕はその後ろでせわしなく動く背中をぼんやりと見ていた。
「ほら、さっさとバケツを床に置く!」
ドロシーに促されて僕はバケツを床に置いた。そのバケツの中に、棒の先に布を付けたものードロシーはこれをモップと言ったーを入れて二度、三度掻き回すと両手で布を絞る。ぎゅうう、と音がしてバケツの中にぼたぼたと水が落ちる。
もう一度力を込めて、ぎゅうう、っと絞る。さっきより落ちる水滴の量は少なくなって、ドロシーは満足そうに頷いた。
「いいかい、この位しっかり絞るんだよ。アンタこの前はぜんっぜん絞っていなかっただろう?おかげでえらく怒られたのを忘れたとは言わせないよ」
怒られた、と言われてぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「………まあ、とにかく。絞るっていうのはこういうのを言うんだ。ほら、やってみな」
ドロシーはそう言って僕に棒を渡す。僕はそれを受け取ると、さっきドロシーがやっていた動作を思い出しながらがちゃがちゃとバケツの中で掻き回した。
「ああ!もう!そんなに乱暴にするんじゃないよ!絞る以前に水が廊下に飛び散ってるじゃないか!!」
ドロシーに大きな声を挙げられて僕は手を止めた。言われてみれば、確かにバケツの周りに水はびちゃびちゃに飛び散っている。
「飛び散った水をまた拭く羽目になったら面倒だろうとか、そんなことは考えないのかねぇ、アンタは。本当に、こんなんでよく生活できたもんだよ」
溜息を混じらせながらドロシーは僕から棒を引っ手繰るとさっさと床を拭く。ぶつくさと何かを言いながらせわしなく動き回るドロシーの後ろを付いて歩く。
「いいかい、こうやって…最後までしっかり拭き終わったら、次の階に行くんだよ。アンタは1人で何にもできないみたいだからねぇ、本当に、アタシは、人がいいよ!」
言っている言葉の意味が正確に分かる訳じゃないけれど、それはきっと僕がやっぱり何か足りなくて、あまり頭も良くないからだろう。
おうさまは、僕を拾ったのだという。どこか知らない場所で、野垂れ死にしそうになっていた僕を、おうさまは拾ったのだという。その前のことはあまり覚えていない。それは、おうさまに時々話すおとぎ話のように他人事で、額縁に入った絵を見ている様にも感じる。
ただ、おうさまが言う。拾ったのだと言う。ならばそれが全てで、それ以上もそれ以下も無い。
だって、おうさまが、そう言ったのだから。
ドロシーはいつも色々な所に僕を連れて行く。バケツを持って後ろを歩くだけの僕だったけれど、最近はモップを上手く絞れる様になった。バケツの水は冷たくて、モップを絞る手がひりひりと痛むことを僕は初めて知った。
あんたもすっかり仕事をする手になったねぇ、と言いながらドロシーは僕の手に薄い黄色のクリームを塗る。
指を曲げる度に、ひりひりと痛む手がドロシーにクリームを塗って貰うと少し柔らかくなる。ドロシーの手は僕の手よりもっと硬くて、指の関節はぱっくりとひび割れがある。僕の手にクリームを塗る度に、そのひび割れは魚の口の様にぱくぱくと開く。
「……」
ドロシーの言う「仕事をする手」が、こんな手だとするならきっと、僕とは比べ物にならない程にドロシーはたくさんの仕事をしてきたのだろう。