筆が乗らないので、気分転換がてら別作品に移行します!
次の作品も何も考えてないんですけど……
PAFworld
After The Rain
「絶対よい子の
エトセトラ」
君が世界のすみっこで押しつぶされそうな夜には僕が必ず見つけてあげるよ
「翠(スイ)はいい子だろう?」
知らない男の人が、私にそう言うのをボンヤリと見上げる。
……いい子?
何をもってそれを定義付けるのかも、話したこともない男の人が私の何をし知っているのかと言いたい気持ちもあった。 けれど、頭の中ではいくらだって反論が出てくるのに口は石になったみたく固く、肩を撫でてくる大きな手が気持ち悪くて吐き気を抑えるのに必死で何も言えなかった。
「……大きな声を、上げちゃだめだよ? 大丈夫、何も怖くない。 翠はいい子だから、できるよね?」
いつも傍にいて助けてくれる兄は、ここには居ない。 トイレに行った帰り、ちょっと考え事をしながら歩いていたら使われていない病室の一角に連れ込まれてしまい、真っ暗な中知らない男の人に腕を、肩を掴まれていつの間にか身動きが取れなくなっていた。 数分前に考えていたことだって『今日の夜ご飯は何だろう?』とかいうどうでもいい、考え事とすら呼べないほど些細なこと。
……なんで、私はこんなところにいるのだろう? なんで、この人はこんなに息が荒く、私の身体を撫でまわすのだろう?
何故、何故、何故。 分からないことだらけで、頭にクエッションマークが次から次へと浮かんでは消えずに残っている。 分からないながらに、目の前の男が気持ち悪いという嫌悪感と命の危険を感じて身体が震える。 ガチガチと歯の根が合わなくなって、こんな状態で何が大丈夫だというのか、教えて欲しいくらいだった。
「翠ちゃん、翠ちゃん……。 あぁ、可哀想に」
目の前の男が、告げた一言でピタリと震えが止まった。
……可哀想?
それを告げたのはこの男が初めてではない。
家族単位で暮らす市民の中にやってきた私たちには父という存在が最初から欠けていた。 母は私を生んで死んだ。 生きていく為に離れている兄が全て私の面倒を見て、幼いながらに働いてなんとか二人で生きていた。 私たち兄妹にとって当たり前のことでも、他の家族という小さな塊が集まって生きる集団の中ではそれは『当たり前』ではない。 そのことを嘲笑う癖に声音だけは優し気に「可哀想にねぇ」と私たちのことを心配する素振りを見せるのだ。
「私は……」
強い怒りに呼応するように身体の奥が熱くなる。 今まで感じたことのないそれは、全身に広がっていき骨が軋んで、皮膚が燃えるように熱くて苦しい。
熱が一番集まってきたのは瞳。 憎悪を込めて目の前の男を睨みつけたそこからは止めどなく涙が溢れて、それさえも
「……おい、一体なにが……」
「私は可哀想なんかじゃ、ないっ!」
『消えろ』と心の底から強く思った、自分を馬鹿にしてきた多くの大人たちの憐憫も目が男の後ろには見えていて。 人を気遣う振りで得る自己陶酔に私たち兄妹を使う人間は全員いなくなればいいと、気付かなかっただけでずっとずっと頭の片隅で思っていたことに漸く気付いた。
「……あ、」
ビクリと身体を震わせて、膝を付いた男は先程までの恐怖に引きつった表情は消え、とても幸せそうにこちらを見上げている。 視線を逸らさずに翠はその男に近づき、静かに見下ろした。
「……呼吸を止めて。 私が良いというまで」
「……」
コクリ、と視線を逸らさずに頷いた彼は恍惚とした表情で翠のことを見上げる。 しかし十秒も経たない内に顔が赤くなってきて、許可も出していないのに苦し気に首を抑えて口を開けて酸素を吸い込む仕草をするからまた一歩近づいてその手を静かに下ろさせた。
「ダメよ」
もう皮膚が赤を通り越して青紫色になってきている。 普段は意識していないだけで当たり前に行われている『呼吸』との刹那を強制的に奪えばそこに待つのは当然『死』だ。 それを目の前の男が理解しつつも、今の自分の言葉に逆らえないことを本能的に翠は理解していた。
翠はただ一言『呼吸を止めろ』と命令しただけで、自主的に男が喘ぎ苦しんでいるだけ。 数秒前にあった全身を支配する熱はとうに消え、氷のような鋭い視線で死に近づいていく男をジッと見詰める。
ハッ、ハッという浅い息を吐き出す姿は浅ましい野良犬のようで、顔色も既に紫ですらなく蒼白に近かった。 それでも視線を一切逸らすことなくびくびくと痙攣しつつも必死に生にしがみ付く自分より倍以上の年齢の男が苦しむ様を眉一つ動かさずに見ている。
……あぁ、気持ち悪い
積極的に見たいとは思わないけれど、これは自らが生き残る為の手段で決して目を逸らしてはいけないと、内から湧き上がる脅迫的にも似た感情が視線を外そうとする翠自身を縛り付ける。 膝をついていることすら出来なくなった男は仰向けに倒れ、口から泡を吹いて痙攣が止まった。 最期まで翠と視線を合わせていたそれは瞼の裏に瞳孔が隠れる。 その時になって漸く翠も身体の自由が戻ってきたことを自覚した。
「…………、ハッ、ぁ、私……、私、生きてる……。 生きて、る……」
ペタンと、尻餅をついたリノリウムの床の冷たさが伝わってきて、感覚があることを、自分はきちんと息が出来ていることを知る。 生き残る為にしたこのことが、どういうことなのか理解するのに時間はさほど要らなかった。
「………………」
しかし、不思議なことに涙も大した激情も沸いてこない。 呑気に廊下を歩いていた頃の自分とは違う自分になってしまったような気がして、封じ込められた『怒り』の感情が消え、心が凪いでいる。 口元は自然と笑みが浮かび、死体を前にしているというのに翠の心は穏やかなまま。
「大きな声は、あげなかったわ。 貴方の言った通り、何も怖くない。 ……ねぇ、いい子ってこういうこと? 私はいい子になれたのかしら? うふふっ、ふふふふっ!」
ゆっくりと立ち上がり、彼女は歌うように絶命している男に語り掛けるけれど返事は勿論返ってこない。 翠もまた、答えなど期待していなかったのだろう。 柔和な笑みを携えてくるりと身体の向きを反転させて、部屋を静かに出ていく。 変わってしまった自分とは裏腹に、全くなにも変わらない無機質な病棟の廊下へ。
「翠!」
誰もいない廊下を歩いて数分もしない内に前からやってきた兄が翠をみつけて慌てて駆け寄ってきたのが見えた。
「兄さん……?」
「心配したんだぞ、一体どこに行ってたんだ? トイレにしては長いし、病院にある全部の女子トイレを確認したけどお前はいなかったから、もしかして何かあったのかと……っ!」
「…………」
『何か』はあったが、それを伝えて良いのかは翠には分からない。 心配するように抱きしめてくれる兄の温もりを感じて、反射的に身体を触られた嫌悪感を思い出してしまったが、今抱きしめてくれているのは紛れもなく翠の唯一の家族である兄である翼(ツバサ)だった。
「……翠?」
「兄さん、私……」
……気持ち悪い、気持ち悪い、キモチワルイ
ガクガクと身体が震えて止まらなくなってくる。 自分が、目の前の兄が、身体を無遠慮に撫でまわしたあの男が、全てが、気持ち悪くて悍ましい。
「みど……」
「兄さん、私ね……。 もう兄さんの愛してくれた私じゃないの。 凄く、汚れてしまったの……!」
「どういう……」
「でも大丈夫、この能力―チカラ―があれば生きていけるわ。 もう二度と油断なんてしない、兄さんのお荷物にもならないわ。 大丈夫、だって私は可哀想なんかじゃないし、いい子だもの。 生きてみせるわ、独りでだって……!」
そっと兄の腕から抜け出し、方向転換をして走り出す。 そうすれば、先程出てきた扉がすぐに目に飛び込んできて、足が止まってしまった。
「翠! 一体どうしたんだ、何があった!」
「……」
詰め寄る翼に答えず、ガラリと扉をスライドさせると廊下の光が暗い部屋の中央まで届いて一人の男が倒れている姿が照らされる。 一見しただけでは眠っているようにも思えるそれは、魂の抜けたただの抜け殻だ。
「……? この男は……?」
「私が殺したの。 呼吸を止めて、と言ったその言葉を守って死んだわ。 自分で自分を殺させたの」
「?!」
「……ね、兄さん。 こんな私は、貴方の傍にいて良い人間じゃないわ。 だってもう私は……」
翠の言葉を遮るように翼が扉を閉めると男の姿は見えなくなり、真っ白な扉だけが視界に映る。 人工的な白は、汚れさえも覆い隠してしまえと言わんばかりに都合の悪いものを塗りつぶした。
「僕も、この罪を被る。 大丈夫、上手くやってみせるから。 お前はもう、何も心配しなくて良い。 ……お前は、汚れてなんかないんだよ」
「……違うわ」
「なかったことにすればいい。 この世界は、今の僕達にとってありがたいことに人が簡単に死んでいく世界だから。 この男が一人がいなくなったって、誰も不思議に思わない。 だって人が死ぬのは『当たり前』なんだから」
「僕は、絶対にお前の味方だから。 だから……『独りで』なんて言うな」
ギュっと翼が翠の手を強く握りしめる。 翠も今度はその手を払うことはせずに、自分よりも大きなその手を握り返した。
……私は確かに変わってしまったけれど
罪を被ると言った翼が唇を強く噛みしめて、白い扉を睨みつけている姿を静かに眺める。 繋いだその手は温かく、ずっと翠を守ってくれた優しい翼の白い手をもう離そうとは思えなかった。
……変わらないものも、きちんとあるのね
血の雨が降り注ぐこの世界で、私たちは二人より添って生きていく。 お互いの存在だけを頼りに、罪悪感と孤独に押しつぶされそうな夜に耐えながら。 必ず日の光の当たる場所を見つけてられると信じて。
お