からんからん、とドアチャイムが軽やかな音を鳴らす。
年季の入った扉は随分くすんでしまっているが、古くなった様相は知る人ぞ知る名店だと主張しているかのようだ。
表通りからも外れ、日陰に佇んでいた茶店はこじんまりとしていたものの随分と品ぞろえは豊富だったように思う。わざわざ所長がここを指定してきた理由も何となく理解できた。
「えーと、あとは…」
手に持った紙袋を抱え直し、小さなメモ用紙を見返した。
紙袋には今しがた出てきた茶店で購入した茶葉やコーヒー豆、それから店主に勧められていくつか選んだマドレーヌが入っている。
店主の老人が私の購入したものに合う焼き菓子を見繕ってくれたので、食べるのが楽しみだなと思いつつメモの中身を確認して歩き出した。
あの後、私の呪いの解明─…と称したDrの研究は、例の細胞を確認するためということで血液採取から始まり、そこから棺の強度や空間内についてなどなど何時間もかけて行われた。
何でこんな地下にあるんだと思うような機械プレスで押しつぶしたり、リズの銃で再度ハチの巣にされたり…棺との感覚共有がないからと随分な無茶ぶりをしていた気がする。
けれどもリズの強襲を凌ぐために一度棺を出していた私にそう体力が残っていたわけもなく、途中で気を失いかけてとりあえずは切り上げとなった…というのが昨日の話だ。
Drが名残惜しそうにしていたのは、もっと調べたいことがあったからなのだろう。果たして一体どれだけの実験を繰り返すつもりだったのか。
おそらくは一度付き合ったことがあるだろう所長に聞いてみたりもしたが、いつもの笑みで数秒沈黙して話を逸らされた。
つまりは彼にとっても思い出したくない記憶ということだ。今後が思いやられる。
先の心配はさておき、幸いきちんと休めば体調に響くこともなく、昨日に引き続き特に予定もなく時間を持て余していた私は所長にお使いを頼まれて街に繰り出していた。
渡されたメモに書かれているのはコーヒー豆や茶葉など主に日用品で、既にあらかた回り終えている。
あとは花屋に寄るだけだ。
「それにしても、好きな花…ねぇ…」
表通りに戻り、休日で賑わう街に足を向ければ酔いそうなほどの人に巻き込まれた。
とはいえずっとこの環境で過ごしてきたので、慣れたように向かいからやってくる人々の間をすり抜けていく。
メモに書かれた残りの一つ。そこには<花>としか書いておらず、種類は指定されていない。
いつもスイートピーを飾っているしそれでいいのかと思っていたのだが、何やら調べ物をしていたらしいディクトルは「お前の好きな花を見繕ってこい」と言った。
理由を聞いたが、たまには他の花もいいだろう?なんて明確な返答は返されず、おそらくアレも本音を隠した言葉なのだろう。
初めからだと言ってしまえばそれまでだが、あの人は本音が見えない。
心の底を見させないといえばいいのか…あの人の本心が垣間見えたのなんてRe:Friedenに誘われた時くらいじゃないだろうか。
かといって嘘をついていたり騙していたりといった気配を感じているわけではない。もちろん、私のような若造が上手く丸めこまれているだけという可能性も否めないが。
(何か、違うんだよな)
この感覚を上手く言葉には表せない。
見えそうで見えず、捕まえられそうなのに手をすり抜けていく感覚は随分ともどかしいものだ。
「さて、いつものフラワーショップは…」
こういうものはいくら考えたところで答えは掴めやしない。
思考を打ち切り道の端に一旦逸れると、すいすい指を動かしてスマホのマップ機能を立ち上げた。
花屋などほとんど行ったことはないが、いつも事務所に配達してきてくれる店の方が気が楽だろう。
だが、その店もいつも配達に来ているだけなので場所自体は知らない。記憶にある名前を検索すれば便利な経路案内が表示された。
じっとスマホを見つめ、おおよその位置を覚えてからポケットにしまい込む。このくらいの距離なら歩いて行けそうだ。
それにしても好きな花か…と改めて頭を悩ませる。
別に嫌いなわけではないが、そこまで興味を示したこともない。花言葉なんてものも全然知らないので、うっかり不吉なものを買ってしまいそうだ。
所長も何だって突然あんなことを言い出してきたのだろうか。
もういっそ店員さんのおすすめとかでも買っていこうか…と考えながら歩くことややしばらく。
見えてきたフラワーショップでは遠目に見ても分かるほど色鮮やかに見事な花々が咲き誇っていた。思っていたより大きい店は花を見定めている客の様子もうかがえる。
店の中に入れば、店員の一人と視線が合った。
「あら!貴方はディクトルさんのところの」
「こんにちは」
「お使い?もしかしてお花を頼まれたの?」
「えぇ…いつも配達頼んでるっていうのにです」
もう何度も顔を合わせたうえに、ほぼ毎日配達を頼んでいるせいか事務所自体も覚えられているようで店員─…ネームプレートに小暮と書かれた女性がにっこりと微笑む。
ほわほわとした雰囲気は花の匂いがよく似合っていて、こちらに寄ってくる仕草にはどこか小動物みを感じた。
「わざわざ店に来たっていうことは、いつものスイートピー以外を買いに来たのかしら?」
「まぁ、そうなんですが…私の好きな花を選んでこいと言われて」
「あら、そうなの?大体のお花なら提供できると思うのだけど…思いつかないって顔ね」
困り気味に言う私の顔を見て察したのか、小暮に言い当てられて苦笑を浮かべる。
流石に全く知らないことはないのだが、これは好きだと自信を持って言える花は思いつかなかった。
彼女の言う通りここは沢山の花があるようだし少し眺めてから決めようかと考えていると、そうだ!と手を合わせて何か思い出したかのように小暮が奥に入っていく。
その姿を目で追っていると、彼女は一つのバケツを抱えて戻ってきた。
小柄ながらも、花屋を営んでいることもあって意外と力持ちのらしい。見かけの他、随分とたくましいみたいだ。
「貴方の名前って確か夜重ちゃんだったわよね?」
「そうですけど、この花は?」
名前を確認されたことを不思議に思いつつも肯定を示し、目の前の花に視線を向けた。
青みを帯びた鮮やかな紫色の花─…だがそれだけではない、花びらのところどころに大小様々な白点が散っている。
街の花壇などでも見たことのない花をしばらく見つめていると、小暮がこれはねと言葉を紡いだ。
「ペチュニア・ナイトスカイっていう花なんだけど、名前の通り夜空みたいな模様をしているでしょう?貴方にぴったりかと思って」
「へぇ…初めて見ました」
「自然ではあまり見かけない種類なの。人によっては毒々しいなんて言うけど、この子は少し青みが強いからおすすめよ」
確かにそう言われてみると、見る人によってはコントラストがつきすぎていて目に痛いように感じる色合いかもしれない。
だが小暮が示した青みの強い数輪は白とも反発せずに溶け合っており、自然な彩度を保っている。
沢山の栄養と水分を与えられて育てられたのだろう花は、随分と大輪だ。
「珍しい花だし、ディクトルさんも気に入るんじゃないかしら?もちろん、他の花を見てからでも…」
「いえ、それもらいますね。私も気に入ったので」
「それじゃあ包むから少し待っててね」
そう告げてぱたぱたと店の奥に行く小暮を見送る。
包装にそう時間はかからないだろうがただ突っ立って待ってるのも何なので、店内の花でも眺めようと見歩くことにした。
店内では花と一緒に名前や花言葉がかかれたプレートが添えられているので、見ているだけでも随分と楽しいレイアウトだ。
ひまわりは憧れ。マリーゴールドは変わらぬ恋。赤いバラは私も知っている<愛情>。
いくつかネガティブな意味合いを持つ花もあったが、そんなことが気にならなくなるくらいにこの店の花は美しい。花も面白いものだな、と眺めていると見慣れた花が視界に入った。
「スイートピー…」
いつも事務所に飾られているその花。
これも周りと同じく、プレートには花言葉が書きつづられていた。
「門出、別離、優しい思い出…」
見慣れた花の隣に書かれていた意味は、あまり前向きな印象は受けない言葉だった。
言い方こそ違えど全体的に<別れ>を示しているような気がする。
所長はこの意味を知っててスイートピーを好んでいるのか、それとも見た目が気に入ってるだけなのか。けれども妙に博識なあの人のことだ、意味を知らないということはないだろう。
この花言葉に、決して見透かすことを許さないディクトルの心の内が込められているのだろうか。
そんな考えが巡った時だった。
「スイートピーが好きなのかい?」
「え、」
「あぁ…すまない。驚かせてしまったかな?あまりにも熱心にスイートピーを見つめていたものだから」
突然声をかけられてびくりと肩を揺らすと、申し訳なさそうに声が告げる。
驚きを払拭できないまま振り返ると、見たことがない男が人の良さそうな笑みを浮かべて、いつの間にか隣に立っていた。
ここまで近づかれたのに気づかなかったのは、花に気を取られていたからだろうか。
「えぇと…花言葉を初めて知ったもので」
「意外な意味だったとか?」
「まぁ…少し悲しい言葉なんだな、とは思いましたけど…」
「悲しい…か」
私の返答に男が意味ありげに静かに呟く。
最近の人はどうしてこうも初対面相手にためらいもなく話しかけてくるのだろう。うちの所長といい、Drといい、この人といい…これほどコミュニケーション能力があるのが普通なのだろうか。
いや、このご時世一歩間違えれば通報案件なのだからそんなことはないはずだ。
事実、所長とて勧誘していたのが私でなければ即刻通報されていただろう。私がイレギュラーなわけではないはずだ、きっと。
正直この類の人間とはこれ以上関わりを増やしたくはないのだが、かといってこの店から出るわけにもいかず、それとなく離れられる雰囲気でもなくどうしたものかとひそかに眉を顰めた。
そんな私の表情に気づいていないのか、彼は言葉を続ける。
「別れとは、出会いのきっかけにもなる。そういう意味では前向きにとらえられるんじゃないかな」
「…なるほど…?」
「人間は別れを経て、誰かと出会うことが出来る。そうやって人は関係の輪は広がっていくんだ。面白いだろ?」
「はぁ…」
やっぱり変な人だった。
もしや私は棺だけではなく変人を引き寄せる呪いも受けたのではなかろうか。
私の微妙な反応も気に留めず、男がそのまま話を広げていくものだから会話を打ち切るタイミングも見失ってしまった。
早口な男の何やら小難しい言葉を右から左に聞き流しながらどうしたものかと戸惑っていると、後方から小暮の声が聞こえる。
包装が終わったのだろうか、私のことを探しているようだった。
「だから人間は─…あぁ、引き留めてしまってすまなかったね。つい白熱してしまって」
「いえ…まぁ…」
視線が逸れたことで気が付いたのか、ようやくマシンガントークが終了する。
おおよそ一般人が理解できなさそうな言葉を並べ立てられたものだから、正直何を言っているのかさっぱり分からなかった。
彼は哲学者か何かなのだろうか、少なくともアレは一般的な女子高生に話す内容ではなかったように思う。
最後までついていけなかった私をよそに男はそれじゃあね、と背を向けると花を買うわけでもなく店を出ていった。
名乗りもせず(名乗られても困るが)結局よく分からないマシンガントークをかましていっただけなのだが、一体何がしたかったのだろう。
(新手の不審者…?)
いやでもこんな白昼堂々と現れるものだろうか。
最近の不審者は手口が大胆だな…と何処か逃避めいた思考を振り払って、小暮の方へ戻ることにした。
きょろきょろと周囲を探していたらしい小暮はこちらを認めると、ぱたぱたと足早に寄ってくる。
その姿はやっぱり小動物みたいで、頭の隅にメープル色のポメラニアンがよぎった。
「はい、お待たせ。さっきの人は知り合い?」
「いや、そうじゃないんですけど…何かよく分からない人でした…ここには良く来るんですか?」
「私は初めて見るわ。貴方、可愛いんだから気を付けなきゃだめよ?」
「はは…会計はICでお願いします」
褒められるのは嬉しいのだが反応に困ってしまい、半笑いで流してICカードを差し出せばピロリンッと音を鳴らして会計が済まされる。
このご時世、ほとんどの店で電子マネーが普及しているお陰でスムーズに会計を行えるのだから便利なものだ。
丁寧に包装してくれた花を受け取り、見送ってくれた小暮に会釈を返して店を後にする。
これで所長に頼まれたお使いは全て周り終えただろうか。念のためメモを見返して、買い忘れがないことを確認した後、帰路に足を向けた。
スマホを見ればもうそろそろ12時を回る頃合い。道理で体が空腹を訴え始めているわけだ…気づかないうちに腹の虫も鳴っていたかもしれない。
こんな騒がしい街中じゃ聞く人もいないだろうから鳴ったところで気に留めはしないけれども。今日のお昼は何だろうか、と少し楽しみにしながらゆっくり歩き出した。
事務所で暮らし始めて早一週間…予想通り所長との共同生活をしているわけだが、当初の不安をよそにその生活はしっくりと馴染んできていた。
一応住まわせてもらうわけだし、家事を振られても問題ないくらいに思っていたのだが任された主な家事といえば自分の分の洗濯と、手が空いた時に事務所の掃除をすること程度。
つまり食事はディクトルの担当なのである。初めてそれを告げられた時は、思わず真顔で料理出来るんですか?と聞いてしまったものだ。
流石に毒を盛られたりはしないだろうが…出会ってそう時間が経っていない相手の手料理を口にするのは、少しためらいがあった。
よく漫画でありがちな、他は優秀なのに料理の才が破滅的だという展開が頭をよぎったのは言うまでもない。
だがしかし予想外というか、寧ろ納得というか…結論を言ってしまえばディクトルの料理は一流ホテルもびっくりの美味しさだった。
体の基本は食事だからな、なんて言って私の知らないような洒落た料理がジャンルを問わず当たり前のように毎回の食事で出される。
お陰様で随分と健康バランスのいい食生活を送らされていて、なんなら弁当まで渡される始末だった。
美味しい上にバランスもいいそれを拒否する理由もなく、初めて持って行ったときにはようやく私がコンビニのおにぎりを卒業したのだと陽が喜んでいた。素直に喜んでいいものなのか複雑な心境である。
改めて思い返してみれば餌付けのようだなと思うが、あながち笑えない話だった。人間の三大欲求の一つを侮ってはいけないということか。
でも美味しいし、仕方ない。拒否する理由もないのだから、楽しみにしたって問題ないだろう。
そんなわけで帰った後のお昼をひそやかに楽しみに思えば、自然と歩が早まった。
私自身もほぼ一人暮らしのような生活をしていたのでそれなりに料理は出来るはずなのだが、ディクトルの腕が一般人レベルを超えているのだ。決して私が料理下手というわけではない。
それに、誰かが作った料理というのは自分の料理では味わえない何かを感じることが出来る。
一人でいては決して得られないものに、もうずっと心に開いていた穴が僅かに埋められた気がした。
「ふぅ…所長、帰りまし─…」
ようやくたどり着いた事務所の扉に手をかけて、手前に引く。
きっとこの声かけには、いつものように奥のいる彼が返答してくるのだろう。
<おかえり>なんて随分と言われていなかった言葉は、存外悪いものではなかった。
けれども、いつも帰ってくるたびに投げかけられていたはずの言葉が一向に聞こえず疑問符を浮かべる。
もしかして彼も外出したのだろうか。もしくは奥のダイニングにいて聞こえなかったのか─…と考えた次の瞬間だった。
「だから!!夜重はどこですか!」
「今は出ていると何度言ったら分かるんだこの小娘は…!」
「そんな嘘で誤魔化さないでください!」
なんだこの光景。
そんな言葉と共に開けかけた扉を閉めたくなったが、内装や外観を改めて見てもここはRe:Friedenの事務所で視線の先で口論しているらしい二人も残念なことに知っている人間だ。
しかも見事に私の名前が叫ばれているし、今見てみぬふりをしたところで後にツケが回ってくるだけだろう。ため息をつきたくなるのを飲み込み、諦めて声をかけることにした。
「陽、何やってるの」
「大人しく夜重を─…って、夜重!」
「やっと帰ったか…」
私の帰宅にディクトルがため息交じりに溢した。
名前を呼ばれてようやく私に気が付いたのか、がばっと抱き着こうとしてきた陽の方はひょいと避ける。
なんで!?と不満をぶつけられたが、花やら紙袋やらを持っている今の状態で抱き着かれるのは避けたほうがいいと冷静な理性が下した決断だった。もう一度お使いしなおしはごめんである。
めそめそと泣くフリをしている陽への反応は後回しにして、とりあえずは一番に聞くべき疑問を投げかけることにした。
「何で陽がここに?」
ここの場所教えてないのに、と心の内で続ける。
住み込みを始めてから早一週間。その間ずっとしつこく場所を聞かれていたのをうまいこと誤魔化していたのだが、一体何処から聞きつけたのだろうか。
教師が勝手に教えるわけがないだろうし、陽に尾行なんて芸当が出来るとも思えない。
そんな私の疑問に陽はふふんっと自信ありげに胸を張ると、夜重のおばあちゃんに聞いた!と答えた。
(なるほど…おばあちゃんか。盲点だった)
確かに言ってはいけないなんて伝えなかったけど、陽の方もまさかそこまでして突き止めようとするとは思わなかった。
祖母の家まではそれなりに距離があるから、ここの場所を聞くためだけに行ったのなら随分と手間がかかっただろうに。
本当にここのことを隠したかったのなら私ももっと根回しするべきだったのだが…絶対に教えないと断言してしまえば余計に不信感が募っていただろうし仕方ないだろう。
そこまでアルバイト先が気になったのか、もしくは同居人であるディクトルの方に興味を持ったのか。
陽は私に関すると、少し心配性が過ぎるからなぁ…。
「どうしても夜重のバイト先確認しておきたくて…でもこの人なんなの!?すっごい失礼!」
「失礼なのはお前の方だろう小娘」
(不機嫌なの珍しい…)
眉間にしわを寄せ、吐き捨てるディクトルはいつもの余裕そうな笑みも消えて機嫌が悪そうだ。
一体私が帰ってくるまでに陽とどんな会話を繰り広げていたんだろうか。おそらくは私を心配した陽が暴走したのだろうが、それにしてもここまで表情に露わにしているのも珍しい。
陽が来た用件を聞くにもとりあえず荷物を片付けたほうがいいだろう。
テーブルに紙袋を置き、花を生けるためと包装を解けば中身に気が付いたらしいディクトルがほう、と声を零した。
「ペチュニア・ナイトスカイか。随分と珍しいものを選んできたな」
「本当に何でも知ってますね…店員さんに勧められたんですよ」
「何でも知っているわけではないがな」
「わぁ…綺麗な花…」
店員でさえ珍しいと言っていた花の名前までも言い当てるディクトルの博識さには感嘆するしかない。
手慣れた仕草でかさりと花瓶に差し込めば、日差しを浴びたペチュニアは生き生きと花弁を輝かせた。
いつものスイートピーも可愛らしいが、大人びた雰囲気を放つ深い色のペチュニアもアンティーク基調の事務所に溶け込んでよく似合っている。
次いで、奥のダイニングで袋の中身も片付けようと歩き出せばふわりと良い匂いが漂ってきた。
きっとお昼がもう作られているのだろう。
朝から出かけていて、現在は既にお昼過ぎ。成長期は超えたものの、まだまだ若い体はエネルギーを求めているらしく食欲をそそる香りにきゅう、と腹の虫が鳴き声をあげた。
「昼食はミートパスタだぞ」
「いっそ盛大に笑ってください」
フォローしないのならせめて聞こえなかったフリでもしてくれれば良かったというのに、何故あえてメニューを告げてきたのか。うちの上司には年頃の娘の心境なんて分からないのか。
このやたらと食欲をそそる匂いは香ばしく焼かれたひき肉とケチャップが犯人だろう。
匂いのせいでさらにお腹が空いてきたものの、陽の用件も聞かなくちゃならないので昼食はもうしばらくお預けか。
ここを確認しに来たと言っていたが、先ほどのいがみ合いを見た限り第一印象は最悪だろう。
祖母の時に見せていた猫かぶりは一体どうしたのか─…と考えながらコーヒー豆や茶葉をしまっていると後方からぐきゅう、と盛大な音が聞こえた。
ちらりとディクトルに視線を向けるが、首を横に振られる。となると、犯人は一人しかいなかった。
「えへへ…今日は夜重のおばあちゃんち行ったり、ここ探したりでまだ何も食べてないんだった…」
「何やってるんだか…所長、パスタって余ってます?」
「私はもう済ませたからな。残ってるのを好きにすればいい」
肩をすくめて告げると、ディクトルは4脚あるダイニングチェアの一つに腰かけた。
どうやら一緒に話を聞く気はあるらしい。おそらくは下手な探りを入れられて疑われるのを避けたいのだろう。これから先の活動に支障が出る可能性を考えたのか。
その一方で陽は未だにディクトルへ懐疑的な視線を向けているため、ここから印象を挽回するのは骨が折れそうだ。
と思ったのだが。
「何これすごく美味しい!!」
「それはどうも」
「はッ…もしかして夜重の胃を掴んで丸め込んだの…!?」
「違うから」
やっぱり心配いらないかもしれない。
ディクトルお手製のパスタをほおばって目を輝かせている陽は、まるで人気のふわふわパンケーキでも食べたかのように機嫌が一転していた。
時折思い出したかのようにディクトルを疑ってかかるものの、主に私の言葉であっけなく否定される。
やはり人間、食欲を満たされると簡単に陥落するのかもしれない…いや、私は陥落してなどいないが。
そうしてものの10分ほどで見事に空になった皿をシンクに置き、ようやく本題を切り出した。
「それで、何で口論してたの?」
「だってこの人、見るからに怪しそうじゃない。夜重に会わせてって言ってるのにいないって言うし」
「事実だっただろう。それに人を指差すなと教わらなかったのか小娘」
「あとこの高圧的な口調!」
正論を返され、陽は悔しそうに声を上げた。
確かに猫をかぶっていないディクトルは、やや高圧的な口調ではあると思う。
私は初対面があれだったので今更口調を気にしたりはしないのだが、陽の言い分ももっともだった。
おばあちゃんに挨拶しに行ったときの、物腰穏やかでまさに温和なジェントルマンといったあの言動はどうしたんですか。そんな視線をディクトルに向けたが、答えなど返ってくるわけもなかった。
「えぇと…所長の態度が気に食わなくて口論になったって…?そんな子供じゃないんだから」
「それだけじゃないもん」
「じゃあ他に何があったの?」
「…何となく、雰囲気が嫌な感じだった」
「とんだ濡れ衣だな」
少し気まずそうに答えた陽に、ディクトルは呆れたように告げた。
確かに何の確証もない、印象だけの言葉だが…陽は時々、妙に鋭い時がある。もしかすると、謎の多い彼の<何か>を感じ取ったのかもしれなかった。
もちろんそんなことをディクトルが知る由もないので、ただのやっかみによる発言だと思っているだろうが。
私とて、彼に全く不信感を抱いていない訳ではないのだ。何せ、ディクトルについては何もかもが分からない。
何も分からない相手を完全に信用しきるほど、私とて愚かではなかった。
もしかすると、この機会に彼について知ることが出来るかもしれない。
「と、とにかく!ここのことをちゃんと知らないと私は住み込みでアルバイトなんて認めないんだから!」
「お前の許可など必要ないと思うがね?まぁいい。それで満足するなら、好きなだけ質問でもなんでもすればいいさ」
ディクトルの言葉に、ますますムキになったらしい陽は怒りからか手を震わせている。
確かに陽にいくら反対されようとここを止めることなんて出来ないのだが…リズの時といい、どうしてこの人は人を煽ることを言うのか。
もっと他の言い方くらいあるだろうに、容赦がない。もしかして無意識なのか?そうだとしたらこの上なく厄介である。それを自分で対処するのならまだしも、あの時はこっちに丸投げしてきたのだ。
今回も最終的には私が対処することになるのだろう。陽は私の幼馴染で、私の問題であるのだから仕方ないのだろうけど、自分で蒔いた問題の種はきちんと自分で解決してほしいものだ。
「まず名前!」
「ディクトル。姓はない」
「どこから来たの!?日本人じゃないでしょ!」
「出身は一応ヨーロッパだが、転々としているからな。何処から、というのには明確な答えはない」
「し、身長と体重!」
「176cm、70kg」
「年齢!」
「30代」
「小学生のプロフィール帳じゃないんだから…所長も何ちゃんと答えてるんですか」
私のツッコミに腕を組んでいるディクトルは知られて困るものでもないしなと余裕ありげに返す。一方陽はというと、そんな彼とは相反して必死に質問を考えているようだった。
もっと聞くべきことはあるだろうに、多分頭が混乱しているのだろう。こと歌に関して以外は咄嗟のことに弱いのだ、彼女は。
簡単なプロフィールは判明したが、今に思えば質問に馬鹿正直に答えているとも限らない。
身長に関しては全くのデマカセといった感じではないので、本当なのかもしれないがとてもディクトルの正体が分かるような内容でもなかった。
「あっ…そうだ、なんで住み込みなの!?アルバイトなんて通うだけで充分なのに…というかここは何してる場所!?明らかにお店の類ではないのは私にだって分かるんだから!」
うんうんとしばらく唸ってひねり出した質問は、ようやく出たもっともな内容だった。
高校生で住み込みのアルバイトなんて、雇われる側も雇う側もそうそう受けるわけもない。親戚の類ならまだしも、私とディクトルは赤の他人なのだし、幼馴染である彼女には実は遠い親戚だなんて小手先の嘘は通じないだろう。
さて、この質問にうちの所長はどう答えるのか。
数拍、沈黙を重ねてディクトルはいつもの弧を描いた口元を開いた。
「まず、住み込みなのは絶対条件ではない。住居に困っていたところに、たまたまうちに空き部屋があったから提供しただけのことだ。こちらとて、その方が都合が良かったからな」
「住み込みで都合が良いなんて、やっぱり怪しい仕事じゃ…」
「とんだ先入観をお持ちのようだが…住み込みで都合がいいのは、いつでも招集をかけられるからだ。なにせうちは、<探偵>だからな」
「え、たん…てい…?」
「いつ、どんな捜査が必要になるかも分からんだろう。無論、高校生を深夜に連れまわす気はないがね」
思わぬ言葉だったのだろう、きょとんとする陽にも気にすることなくディクトルはつらつらと続けた。
なるほど、そう来たか。確かにその説明なら、この状況にもそう不一致は生じないだろう。
というか住み込みの理由はほとんど事実であるし、探偵というのも<厄災の真実を明かす>という意味ではあながち虚言を並べているというわけでもなかった。
もちろん、呪いや厄災のことは伏せているが─…嘘を言っているわけではない。物は言い様というわけだ。
「で、でも…そんな怪しさ満載で─…」
「陽」
どうにも納得できない…いや、どうにか穴を見つけてアルバイトをやめさせたいのだろう陽が涙目になりながら言葉を続けようとするのを止める。
そもそも陽が、この男に口で勝てるわけもないのだ。いくら陽が怪しい点や不自然さを突き付けたところで彼はそれをいとも簡単に跳ね返してしまうに違いない。
まぁ、幼馴染が突然住み込みでアルバイトをするなんて言い出して、しかも男が同居人で、その同居人がこんな怪しさしかないような人物だったらそりゃあ止めさせたくもなるだろう。
一度は納得したが、ディクトルと相対してなおさらその気持ちが強まってしまったといったところか。
私だってもし立場が逆だったら同じようにしていただろうし、陽の行動を咎める気はない。心配してくれているのは分かるし、今回はディクトルの態度も火に油を注いだ形になったのだろう。
「私が簡単に騙されそうに見える?」
「…みえない、けど…」
「それじゃあ何が心配?」
「…夜重が、どっか行っちゃいそう」
ぽつりと、きっとあの時は飲み込んだのだろう不安が溢される。
それは少し前─…実際は、今も抱いている感情を見透かされた気がして心臓が跳ねる音がした。もちろん、今回は私の環境が変わってしまったからそう感じただけでこちらの考えに気づいているわけではないのだろうが…。
「どこにも行かないし、住んでるところがちょっと変わっただけで学校でも会えるでしょ」
「そうだけど、アルバイト…忙しくなったら…」
「探偵って言っても見ての通り、お客さんなんて押し寄せてくるほどいるわけでもないし。今まで通り、ケーキ屋さんにだって付き合えるよ」
みるみるうちにしゅんと落ち込んでいく陽は随分と珍しい。
この先どうなるかは分からないが、少なくとも今は陽との時間を削る必要なんてなかった。
それに、と言葉を続ければうつむいてしまっていた彼女が僅かに顔を上げる。
「私に会いたいなら、ここに来ればいいよ」
「え、でも…」
私の言葉に陽は驚いたように声を漏らしてディクトルに視線を向けた。
視線を受けて、彼はわずかに目を細める。
「駄目なんて言いませんよね、所長」
「…業務に支障が出ない範囲で、好きにするといい。探られて困る腹もないからな」
実際は探られたら困ることだらけだろうに…まぁ、彼のことだ。事務所をくまなく根探しされるならともかく、多少出入りされるくらいなら問題ないのだろう。
「ほ、本当にいいの?」
「所長も良いって言ってるんだから、問題なんてないでしょ?そりゃまぁ、毎日居つきっぱなしとかだと仕事で困るかもしれないけど…部活が休みの時に遊びに来るくらい、全然問題ないよ」
「夜重に、会いに来て良い?」
「そう言ってる」
何度も念を押すように確認する陽に小さく笑ってそう返せば、ようやくその顔に笑みが浮かんだ。
やっぱり、陽は笑っている方が似合う。
「じゃあ、約束」
そう言って、陽が小指を立てた手を差し出してくる。
わざわざ言葉にする必要はない。どうして欲しいのかその意味が分からない私でもなく、同じように手を出すと小指同士を絡めていつもの歌に声を乗せた。
ゆびきりげんまん
嘘ついたら針千本のーます
ゆびきった
いつもの、守らなくてはならない約束。
子供みたいな契だが、私達にとっては大切なものだ。
「でも、この人に何かされたらすぐ言ってね?」
「何かって…いや、言わなくてもいいけど、ないから」
「その油断が危ないんだよ!」
「何もしないし、したところで大人しくしているような人間ではないだろう」
「ほらぁ!」
「所長余計なこと言わないでください、ややこしくなるので…」
確かに万が一、億が一そんなことになったとしても私には呪いがある。だから心配はいらないのだがそれを説明できない以上、話をややこしくさせるのは勘弁してほしかった。
更にディクトルへの敵意を増したらしい陽を何とか宥めながら、結ばれた約束を忘れないように、しっかりと手を握った。
***
「アレに意味はあるのか?」
「あれ?」
あの後、しばらく私の部屋で何気ない話をして満足したらしい陽を見送って、昼食で使った食器を片付けているとそう声をかけられて疑問符を浮かべる。
「あの約束だ。何の拘束力もないように思うが」
「あぁ…まぁ、そうですね。言ってしまえばただの口約束ですけど…それでも、意味はありますよ」
「ほぅ?具体的には?」
「具体的って言っても、そんな大それたことじゃないです。ただ、守らなきゃなって思うだけで」
きっと彼から見ればあんな約束なんて、それこそ子供じみた稚拙なものに見えるのだろう。
無理に他人が理解する必要なんてないとは思う。約束なんて、そんなものだ。
交わした当人たちが覚えて、守るために行うものなのだから。
「………」
「くだらないって思いましたか?」
「いや?そんなことはないとも」
にぃっと口元をゆがめて、怪しげな笑みで彼は言う。
はたして、その真意はどこにあるのやら。
「そういえば、おばあちゃんの時みたいな態度していたらあんなややこしくならなかったと思うんですけど、どうしていつもの態度だったんですか?」
「あぁ…無論、最初はそうしていた。だが、あの娘は何と言ったと思う?」
「私を出せ、とかですか?」
「開口一番はそれだったな。次いで、『何ですか、その張り付けたような笑顔』と言ってきたぞ。こちらはお前が外に出ていることをきちんと説明してやったというのにだ」
「あー…」
また少し顔をしかめたディクトルに、やっぱりかと思う。
話を聞いているときによぎった考えはどうやら間違ってはいなさそうだ。
陽の第六感とも呼べそうな勘の鋭さはやはり凄まじい。孫娘をたぶらかす男なんて何が何でも叩きだしてやると意気込んでいたおばあちゃんでさえもあっさり懐柔されたというのに…。
洗い終わった食器を拭き、棚に戻す。これでやることは一通り終えただろうか。
気が付けば時計は16時を指し示していた。まだ夏なので日が暮れるような時間帯ではないが、この時間から特に目的もない外出しようとは思わない。
部屋に戻って読書か、復習でもしようか。のんびりテレビを見ていてもいいけれども─…と思考を巡らせているとディクトルに終わったか?と声をかけられた。
「洗い物なら終わりましたけど、何か用事でもあるんですか?」
「あぁ。Dr.から受け取った服を着て私の部屋に来い」
「え、なんでですか」
「来れば分かる」
そう言うとディクトルは階段を上り、二階へと行ってしまった。
陽の危惧していた億が一の可能性が頭をよぎるが、いやまさかそんなと振り払う。そもそも戦闘用の服を着てこいと言ったのだ、おそらくは呪いやこれからの戦闘に関わる何かだろう。
だが、何故彼の部屋なのか。入ったことなどもちろんないが、この建物の間取りを考えるにあの部屋だって私の部屋とさして広さは変わらないだろう。
そこで戦闘訓練のような類など出来るとは、とても思えない。座学のような形式ならわざわざあの服を着る必要はないはずだ。少しでも慣らすため…ということだろうか?
一人ダイニングに取り残されて思いつく可能性を浮かべていくも、かちりと当てはまる答えは見つけられなかった。
とにかく、言われた通りにしてみるしかないだろう。もしものことがあれば棺の中に退避してしまえばいいのだし。
「あの人も、せめてちゃんと言ってくれればいいのに…」
そう密かに不満を吐きつつ、自分の部屋に向かうことにした。
Dr.から受け取ったあの服はとりあえず部屋のクローゼットに入れてあるのだが、必ずしも戦闘時ここに来られるとは限らないのだしいつも持ち歩いているべきなのだろう。
だが、服一色となるとそれなりの荷物になるだろうし中を見られて追及されても面倒だ。
服はともかく、仮面に関しては上手い言い訳も思いつかない。
そのあたりも、一度相談してみたほうがいいかもしれないなと考えつつクローゼットを開けて着替えることにした。
ブーツも含めて全て装備するのは初めてて、少し手惑いつつも何とか着替え終える。
「うーん…やっぱり、重くて少し動きづらいな…」
元々運動神経が抜群に良いわけでもない。この服を着て暴徒と戦闘なんて出来るのだろうか。