「婚約者が、いたんだ。もう会えないことはわかっている」
何故か、この人になら言ってもいい気がした。
「自分のエゴのために私は道を誤った。選択を、誤った。だからこそ、貴方には私のようにならないでほしいんだ。後悔しないで、忘れて前を向いて、幸せに生きてほしい」
そんなこと余計なお世話だ。といわれる気がしていた。でも、私が誤魔化すように笑ってそう言うと、目の前の人は、眉を顰めた。まるで、不愉快であると言うように。
「あの、勝手に自分の、他人の人生が今後不幸であると決めないでほしい」
その言葉は、私にとって彼の口から出るにはあまりにも想像し難いものだった。
「道を踏み外した事実は、変えることができない。一生苛むことになる。それは……あなたが、一番わかっているはずだ。僕のせいで、沢山の人が死んだ。それを忘れろなんて、簡単にいわないで」
まるで私が人の生き死にという重要な運命を変えたことを知っているように、目の前の人物は話し始める。彼は聡い人間だから、先ほど交えた僅かな言葉だけで気づいたのかもしれない。
黒い瞳が、こちらを真っ直ぐ見据えた。
「未来が見えるということは、あなたは自分で抱え込むものも多いはずだ。そんなに心配するのであれば、似た者同士として僕はあなたと対等でいたい。不幸になる未来なんて、真っ平御免だ。変えることが、できるはず。あなたも僕も人の生死を、神の導きかは外れて運命を、変えたのだから。同じ罰当たり同士なら、これ以上未来を無視して、人を助けたって罪の数が増えるくらいどうってことないと、そう思わない?」
悪戯を提案するような、少し無邪気な、私が初めて見る彼の顔が、楽しそうに、そっちの方が有意義だと笑って言う。
そうか、彼は自分の罪を認めて、前を向いている。自分の身を滅ぼそうとも、未来を変えようとしている。私と、おなじで。けれど、自棄になっていた私と違い、きちんと、彼は自分の意思を持って、人を生かそうとしている。
……参った。
「敵わないや」
思わず、私も笑ってしまった。
この人だけは、助けたい。そう、思った。
なのに、なぜ、なんで。
「あ、ぁあああああああああ」
これが、罰だというのか!?
私は、なんてことを。
目の前の床に倒れた愛しい人の顔。
呪縛が解けたように、自分が守ると決めた人の空虚な瞳が視界に映る。
「いらい、さん……?」
他人行儀な呼び方が、耳に降りる。
これは違う。なんだ、これは。
なんで、そんな目で貴方は私を見る。
貴方は、私を信用していると、言っていたのに、なんで怯えの色を、そんなに含ませているんだ?
私の手に残る、この暖かな、柔らかな感触はなんだ。
目の前の仲間の首についた、痣は、私の疲弊したような心は、なんだ。
そこで、気づく。本能的に、気づいてしまった。彼の記憶が、僕の知るものではないと。
僕の知っているノートン・キャンベルでは、この目の前にいる人物とは程遠いと。
彼の記憶が、改ざんされている。私の自我を、侵食する何かが、彼を傷つけているのだと。
「あの、化け物め。私が、私がそんなに苦しむことが愉快か!」
吠えるような叫びを、ぼんやりと目の前の男は見ている。まるで、理解できないというように。
あぁ、なんということだ。
どうすれば、いい。
自分の自我を保ったままでいることは、できないと、なんとなく理解できてしまった。あの黄衣の王と呼ばれる化け物にまた、自分の心を、全てを奪われてしまう未来など、簡単に見えている。
「ノートン、あぁ、わた、わたしは」
貴方を、
×
「貴方は、どうして」
震える手で、彼の頬を撫でる。彼は不思議そうな顔をしながら、僕の手を甘受している。力無い彼の瞳が、どうも自分の知るノートンさんから、程遠い存在であった。
「あなたが」
ようやく、彼の喉からこぼれた言葉は、悲しそうで、かつ苦しそうな声で。か細く静かな部屋に響く。
「死ぬと、いったから」
「……は?」
低い声が、思わず出てしまう。びくりと、ノートンさんはその声に、体を震わせ、少しばかり私から距離を物理的に離そうとして、がたんと、地べたに体を倒した。見ると、彼の足は深い何かで抉られたような傷が付いている。足、まさか。この、嘘だ。
ふざけるな、意味がわからない。なにもかも、わからない。私が、死ぬなんて、そんなわけがない。そんな。
そんなことを、この、この優しい青年に向けて言わせるように、私があの、化け物が仕向けたというのか?
「どうしてこうなった、なんて、あなたが一番知っているはずなのにね」
あぁ、おかしいな。というように、乾いた笑い声が、静かな部屋に響く。
冷えていく体とは対照的に、脳は焼き切れてしまうのではないのかというくらいに熱い。
彼は、わたしの知っている人間でなくなっている。
私も、そうだ。そして、これらの原因は、私が、あの忌々しい化け物を信頼してしまったことで起きた地獄であることも、わかってしまう。
私が信頼し、支え合える存在であり、友であり、あってはならない、二度と覚えるつもりのなかった恋心を芽生えさせた存在でもない。
だとしたら、どうすればいいのか、正解なんて、この荘園には残っていない。
酷くおぞましい操り人形に成り下がり、彼に無体を働いたせいで、なにもかも、また失うしかない。
彼との思い出も、信頼も、恋心も、全て奪われたのだと、嫌でも気づかされる。
「あぁ、」
自分の唇から漏れる言葉も酷く頼りなく、うまく紡げない。
視界が、歪む。
滲み切ったその世界に見えるものは、痣だらけで力なく倒れる愛しい人だけだ。
唾液に錆びた鉄の味が混じる。
この地獄を、どう生き足掻けばよいのだろうか。
「私、貴方のことが、好きだったんだ」
どうして、こうなってしまったのだろう。涙が、止まらない。残酷だと思っても、自分の思いを、相手が記憶できる間に残したい。そう思ってしまった。
「ごめんね」
安すぎる謝罪に、大きく、彼の目が見開かれた。
「なにを、今更、好きなんて言葉、信じられるわけが」
×
「あなたが、僕を置いて、変わったくせに」