山積みにされた本と書類の海を見て、ハイラは思わずため息をついた。途端、頬を革鞭が掠めて手元が強く叩かれる。ぞっとして顔を上げれば眉間に皺を寄せた婚約者殿が睨んでいるので、彼は仕方なしに広げていた領地の収支報告書を読み進めた。今日いっぱいはこの膨大な文字を頭に叩き込んで、明日は重要な街の視察。その後は誂えている正装と装飾品の確認。そして、一月後に控えている、彼女の後見人である前王陛下と現国王との謁見。かつてない密度で詰められている分刻みの予定と、年明けまでの期限という焦り。荷が重すぎると胃を痛めても、全ては自分たちで決めてしまったことだった。
 一日中机にかじりついているのは、子供の頃以来だ。それも家を継ぐ長兄はともかく、四男坊で比較的将来に融通がきいていたハイラに対しては、礼儀作法や最低限の教養があれば十分だと判断されていたから許された事だ。元来「貴族的」な性質を嫌っていたハイラが、必要もないのに喜んで帝王学や領主の実務についてを学ぶはずもない。性別も仕事も好きに選んでは放蕩息子として名を馳せて、同じような境遇の穀潰し仲間である貴族衛士と連れ立って娼館通いをしていたのだ。適当な年齢までお勤めをして、その後はそれなりに儲けている商家に婿入りする。平凡で安定した、とりたてて面白みのない人生の、その折り返し地点まで。是非ともささやかな自由を謳歌しようじゃないかと過ごした、その結果がこの有様だ。何をどう間違って、「寵愛者様」なんぞの配偶になってしまったのか。
 たかが子爵位を持つだけの、大した家格を持たない中流貴族の、そのうえ継嗣でもない、軽薄という言葉を具現化させたような男の、ハイラが。そんなものは神の恩恵をその一身に受けて生誕あそばされた、寵愛者レハトのお気に入りとなってしまったからだ。
 レハトに対する政略的な干渉を禁じた協定もすっかり台無しである。本家側はそれはもう大金星だと裏では狂喜乱舞したものの、未来の王候補とまで囁かれていた彼女を狙う数多の貴族からの視線は尋常ではなかった。噂が漏れ出たのが成人後であったから良かったものの、それよりも前に妙な疑いを持たれていれば、たちまち付け狙われてあっという間に没落していただろう。きらびやかで豪奢な貴族の世界が、その実どす黒い策謀が駆け巡り魑魅魍魎が跋扈していることを、ハイラはよくよく理解していた。少なくともそんな政治闘争に関わるのはごめんだと考えて、わざわざ王城付きの衛士に志願して実家から距離を置いていたのだ。王位継承権の絡む、前代未聞の第二の寵愛者など、この世で最も面倒くさい事この上ない案件である。当然、適当にかわして逃げ切るつもりが、外堀から埋められてそのまま押し切られたうえ、結局自分の方も惚れこんでしまったのだから始末に負えない。
 とはいえ、いくら寵愛者本人の強い希望が元とはいえ、公爵の地位に就く者に娶られる以上、無条件でというわけにもいかなかった。正式に婚姻を結ぶとなれば、ハイラの一挙手一投足に至るまでの振る舞いが、レハトの名誉や評判に関わるのである。同じ貴族と一括りにされても、社交の場で要求される技量は勿論、国にとっても重要な地域を任されている以上、政治手腕に対しても厳しく見積もられる。領地を持たない名ばかり家系や帳簿を合わせるのに一苦労する零細貴族とは扱いとは違うのだ。惚れた女のため、そして社会的に抹殺されないためという切実な理由を掲げて、ハイラはレハトと教師たちに立派な「旦那様」となれるよう、徹底的にしごきあげられていた。
「それにしたってね、つくづくあんたは本当に化け物じみてやしないかい。たった一年でどうやって文盲の子が公爵殿下に変わり果てるんだか。寵愛者様っていうのはみんなしてそうなのかい」
「あのね、ハイラは知らないだろうけど、あの時は本当に死に物狂いの生活をしてたんだからね? 下手すると飼い殺しにされるところだったんだから、そりゃ僕だって努力しますとも」
「努力でなんとかなるのはレハト様だけだよ。いくら城から優秀な文官たちを引っ張ってこれたからってね、よくもまあこれだけ素晴らしい統治をしてるもんだ。あきれて物も言えないわ」
 本日の課題を無事に終えたハイラが長椅子に飛び込むのを見て、レハトはようやく持ち歩いていた物騒なものを仕舞った。調練鞭なんてものに怯えながら過ごすのは、本来は親元を離れた行儀見習いの子達くらいだ。服に皺が寄るのも構わずに転がるハイラ。隣に腰を下ろしたレハトが疲れ切った頭を持ち上げると、それは抵抗することなく膝の上まで移動した。爪先をインクで染める健気な姿に嬉しく思いつつも、少しやつれた頬に彼女は胸を痛めた。
 城へ来てから成人までの一年。継承の儀と政務の引き継ぎ、そしてレハトの叙爵に加えた領地選定と諸々の手続きに一年。土地の引き渡しと実地への赴任と住環境の整備、新しく生まれた所領の境界区域と水利権の制定に一年。この多忙極まりない日々が落ち着いてからようやく、寵愛者レハトは婚約者をお披露目出来る目途が立ったのだ。実際に苛烈な花婿修行が始まったのはこの数か月ではあったものの、それ以前にハイラは衛士を辞職して本家の方で随分と仕込まれていた。
「もちろん僕一人の力じゃないよ? まともに経営が出来てるのは細かく気を利かせてくれる皆のおかげだから。そもそもリリアノ様の仕事を横で見てなかったら、自分で一から施策を出すのもできなかっただろうし」
「はあそうですか。あいにく私は不出来者だからね、講義についていくのにも血反吐をはかなきゃいけないんですがね」
「大丈夫、ハイラが優秀なのはわかってるから。倒れちゃったら嫌だから、無理はしないで欲しいけどね。でも僕がやらされたことに比べれば可愛いものだし、何とかなる。というか、何とかしてもらわないと困るんだけど」
「気遣うのか煽るのかどっちかにしてくれないかねえ! ほんっとにろくでもないったらありゃしない!」
「せっかく良い場所よこしてくれたんだから、腹立つくらい発展させないと。もったいないでしょ」
「そりゃ私だってすき好んで民草いたぶる趣味はありませんけどね? 嫌ですよ、現国王派と冠無き寵愛者派の争いに巻き込まれるのは。蓄えるならほどほどにしてもらえませんかねえ」
「僕はあくまでも、治安維持を兼ねて下から豊かになってもらいたいだけだよ。対立する気なんてこれっぽっちもないし、それはヴァイルだって把握してるからね」
「そうかい。当人同士が思っていてもね、成り上がりを狙ってる野心的な方々は多いんだよ」
「それならそれで炙り出しの手間が省けて楽だよ。僕たちはお互いやり方が違うから、全く同じ事をするつもりもないし。
 ヴァイルは友達だし大好きだけどね、方針というか、思想が合わないんだよな、これが」
 なにが思想だ、数年前まではド田舎のくそがきだった癖に。
 神妙な顔をして鹿車の窓を覗き見るその横顔は、既に立派な施政者のそれだ。
領地の巡行も細々とした雑務も押し付けられるのだろう。そうすると領内の有力者だけでなく、交易先の貴族との相手までしなければいけない。なんといっても、領主様は多忙な身であらせられるのだから。
「炊き出しや例大祭に乗じたばらまきもいいけどね、それじゃ解決にならないんだよ。必要なのは晩御飯一回きりじゃなくて労働と対価だ。
ヴァイルはお城育ちだから流石に貧民層の生活水準までは分かんないだろうし、そもそも王様じゃあ小回りがきかないから、仕方ないけどね」
「立法権もないのにどうするのさ。陛下の後ろ盾がないならやりたいことも満足にできないんじゃないのかい」
「まあ、商業特区と試験耕作地はさすがに独断で決められないけど、上手くいけばそのまま任せてくれるって。結果次第じゃ国政の参考にもするつもりみたいだよ? いやあ優しいよね」
「あーあー、はいはい。分かりました、分かりましたよ。その地味で泥くさあい仕組みを、かわりにあんたが一生かけて根付かせないといけないわけだ。本当になんでこんなのを選んじゃったかな」
「ひっどい言い草だな。自分が求婚を受け入れたんだろ。僕は無理強いなんてしていないし」
「本人の与り知らないところで、勝手に親兄弟に会って言い含めてたひとが良く言うね!? 嫌でも断りようがないじゃないのさ!」
「でも僕が王様になったら、ハイラは結婚してくれなかったでしょ」
そもそもレハトとハイラの家格差ですらかなり無理を通しているのだ。
「だって僕はハイラが好きだからね。観念して一緒にこの国の礎になってもらわないと」
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色んな事の片手間にハイレハ書く
初公開日: 2020年04月05日
最終更新日: 2020年04月05日
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【かもかて二次創作】上級貴族レハトさまがハイラを娶って婚約発表の日までに立派な旦那様に仕立て上げる話