寒空。
荒い息。
粉々に砕け散っている瓦。
「うまくいかないな……」とこぼす光国の声は、今よりも少し幼い。
おぼろはそれを、まるでファインダーの向こう側のように遠くに感じながら見ていた。それは光国の何者も寄せ付けない集中力のせいだ。誰も声を掛けられない見えない壁がそびえたっていた。
瓦を昏々と割り続けた手は、白い布が巻かれているものの、露出した箇所は赤く腫れ上がって血が滲んでいる。そこまでしても光国はまだ到達してはいなかった。何故なら瓦はすべて割れている。
「5枚目……5枚目か………」
ぶつぶつと呟き、割れ散った瓦を箒で掃く。そこでようやく、金縛りのようになっていたおぼろの身体が動いた。「光国……俺が……」親愛なる幼馴染の身を案じてそう声を掛ける事すら戸惑う程、瓦を片す光国は余裕のない表情をしていた。
「まだ帰っていなかったのか」
その鋭い視線は、怯えたおぼろの顔を凍らせるのには十分だった。
「片付けるの、手伝う、よ……」
いつもなら頼む、と快諾する光国が今日に限ってはいやと断る。
「これは俺個人の修行だ」
「でも……」
「俺がやらねばならない……。じゃないと父上は認めてくれない」
いつものほがらかな笑みさえ浮かべない。そこまで追い詰められた光国の顔を見るのははじめてかもしれない。それもそうだ、この修行には光国だけではなく、三千世界の、ひいてはおぼろやゆかりの人生にも影響する。真底惚れぬいたダンサーとしての道を歩む前に、光国はまず武術を修めねばならなかった。
『今のお前には紅鶴への入学を認めない』
これが光国へ投げられた師の第一声である。
『ただし、覚悟を示せば考えなくもない』
覚悟、と光国は繰り返す。
『覚悟とはなんですか』
光国の父は答えない。自分で考えろということだ。
全ての道とは、一本の樹木だ。根源があり、そこから無限に枝葉を広げている。
型を守り、自分にあった形を研究し、己の道へ活かす。源覚心流の根幹は温故知新であり、武を朋とする方針であった。その精神はしばし水に例えられた。荒ぶる滝のようにも、流るる川のようにも、広大な海のようにも変化・対応してゆけること。それでいて水の本質は失わぬこと。常に己を清らかな生命の水で満たすこと。変化し続ける時代に生きているという相対的な感覚を忘れないこと。源覚心流は常にそのことを型を通して教えるから、一対の陰陽のように革新的な一方で実用的でもある。
『守』り尽くして『破』るとも『離』るるとても本を忘るな。
光国の父はよくその言葉を口にする。光国は父の教えをよく守ってきたつもりだった。しかし紅鶴への入学を認められないということはまだ水が足らぬのだろう。
15歳の光国は、広い父の背中を見送りながら拳をかたく握りしめる。
「俺は侮られているのだ」と光国が訝しいおもいを吐き出した。「俺にお前たちを引っ張っていけるわけがないと父上はお考えなんだ」
おぼろの強張る表情がようやく意識の表層にあがってきたのか、光国ははっとして、無理やり笑顔をつくった。
「今のは忘れてくれ」
無茶な修行で腫れあがった右手をこっそりと撫でているのをおぼろは目撃する。痛みのせいか少し震えていた。光国は自身の痛みをものともしない。徹底的に無視をする。その強靭な意志を支える自傷的精神の片鱗がおぼろは心配だった。だけどやめてくれとも言えない己の臆病さに嫌気がさした。
光国、今日はもうやめよう。そういうのは簡単だ。しかしそれは光国の思考回路では結果を先延ばしにしているだけにすぎないのである。やりきった、という達成感が胸の裡に灯らなければ、納得しない頑固な性格だ。
「よくやったッ!」
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初公開日: 2020年04月04日
最終更新日: 2020年04月07日
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