鳥居から一歩を踏み入れた瞬間、静謐で神聖な空気が足首を擽った。
やわらかな陽光を歓ぶ木々が、若々しく透明な緑色が、上空に吹く風を孕んで騒めく。
まるで鳥が羽搏くように鼓膜を擽るその音に浮かされてブーツで砂利を踏めば、可愛らしくまるいかたちをしたその子たちは、まるで薄氷を踏むかのように涼やかに弾けてゆく。
其処には、ほとんど生物が存在しないようにさえ覚えた。
視線に十数の人影は見えるし、況してや此処は都会に囲まれた森だ。自分の周りには誰も居ないどころか数千の命が息づいている筈なのに、ちょうど100年前、人工的に作られた森林に囲まれて、私の心は、体は、何処までも「ひとりきり」だった。
「ひとりきり」である筈なのに孤独を覚えることがなかったのは、きっとあの自然の空気にわたしが守られていたからだ。何処か、異国に一人で足を踏み入れたような感覚にも似ている。心地よく離れがたい空気に、わたしの体はいつの間にか日常から切り離されていたのだ。
ふと、厳かな社務所の側溝を見れば、薄紅色の花弁がその命を全うして、昨日の雨水に濡れていた。可憐なその姿に、目を奪われる。
きっと彼女たちは、咲いてから散るまで、愛でられることが無かった。流行病が蔓延っているこの都会で、誰にも気に留められることもなく密やかに咲いて、散っていったのであろう。
春の残骸。
誰にも愛されることのなかった、かなしい残滓。
あまりにも感傷的な表現が頭に浮かんだのは確かだが、私は、直ぐに其れを間違いだと識った。
東風が吹く。頰を柔らかく撫ぜてゆく其れにふっと視線を上げれば、薄い雲が覆った空はまるで青色の絵の具を清らかな水で薄めたように透き通って、そのキャンバスを若葉が彩っていた。熟れすぎた椿の紅色も、風のかたちを映す桜の花弁も、紛れもなく、春を謳っている。
私たち人間がどう思ったとて、世界に春は訪れているのだ。
春は、人間が望むから巡り来るのではない。
春は、春。
私たちの感情なんて気にも留めずに、世界は変わらない美しさを持って、誇り高く薫っている。