何か色々書いています 書くものが浮かばない
嫌なことは見たくない。誰だってそうだろう。だから俺は徹底的に人を避けてきたし、極力の外出も控えてきた。
右を向けば誰かの悪口。左を向けば下劣な笑い声。そんなものすべてに蓋をして、見ないフリをしていたかった。自分に関係のない話ならなおさらだ。だというのに。
夜の繁華街を、半歩前を歩くくたびれたコートの青年の後ろを俺は黙ってついて歩いている。双方ともに会話はない。ただただ無言で、耳を刺すのは周囲の喧騒のみ。一体どこに向かって歩いているのかも、どんな目的があって歩いているのかも分かりやしない。それでも良いと、この青年についていけば間違いがないのだと、なぜだかそう信じて疑わなかった。
「ところで御当主サマよ」
不意に赤信号で立ち止まった青年が口を開いた。ようやく追いついて隣に並んで彼を見る。こちらを見るでもない青年は前を見据えたままに再度口を開く。
「居酒屋なんてものに入ったことはあるのか」
「ある……と思う」
「思う、とはなんだ貴様。自分のことだろう。まさか、まだ記憶障害が治ってないんじゃないか? 医者を紹介したほうがいいか」
「まさか。よしてくれよ……まあ、この記憶が本当に自分の記憶であるかの確証がなくて曖昧だという意味ではそうなのかもしれないが。だが医者にかかるほどじゃない。ただ本当に、わからないんだ。そもそも居酒屋とは、どういうところまでを指すのかがわからない」
はあ? と呆れを含む嘆息が聞こえる。だってそうだろう。小洒落たバーだって人によっては居酒屋と呼ぶ者もいるだろうし、居酒屋の定義がわからない。酒類と料理が提供されればもうそれは立派な居酒屋だ。そう言い返せばまた大きな溜め息を吐き出して、青信号に変わった横断歩道へとくたびれた革靴が歩を進める。それを慌ててついていく。相変わらず前後左右では人々の喧騒が耳を刺した。
「真下はよく来るのか?」
「それなりにはな。現役時代はでかいヤマが終わった後なんかは、よく飲みに行ったもんだよ」
彼の言うでかいヤマとはなにかと考えて、急に背筋が寒くなった。元刑事の言うそれなど、あまり深くは考えたくはない。
「今から行く店はそういった時によく行っていたんだ。飯もうまいし酒も悪くない。あんたの思ううまい飯とはランクが段違いかもしれんがな」
はは、と笑って真下が歩みを止める。こっちだ、と指を指したのは大通りから外れた狭い路地。どんよりとした雰囲気ではあるが空気は悪くない。いわゆる隠れ家的な店とやらが立ち並んでいるのだろう。知る人ぞ知る名店ではなく、知っている人が来ればいい。そんな雰囲気すら感じた。
あれだけうるさいくらいに聞こえていた人の声も、もうどこか遠くに感じて真下に悟られないよう胸をなでおろした。
「ここだ」
そう言って立ち止まる彼にぶつかる。一瞬眉を寄せられたが何も言わずに戸を引いて店内へと入っていく背に続いた。
「いらっしゃい……おや、久し振りじゃないか。いつもの席空いてるよ」
ん、と短く返した真下に続き奥の座敷へと向かう。決して広いわけではないのだろうが、男二人には少々広いくらいだろうか。
「好きなモン頼めよ。約束通り今日は俺の奢りだ」
「じゃあ遠慮なく」
メニューを捲りながら言うと対面から少しは遠慮しろよと飛んできた。だが俺だってその辺りはわきまえているつもりだ。まして、職を失ったばかりの男の財布が空になるまで胃袋を満たすつもりはない。ある程度の検討をつけて真下を見ると呼び鈴を押して、程なくしてやってきた店員に手際よく料理を頼んでいく。それに続いて俺もぎこちなく注文をしていると真下の口元が綻ぶのが見えた。
「なんで笑った」
「いや、相当遠慮してるなと思ったらおかしくなった」
「遠慮したわけじゃない。胃袋と相談した結果さ」
「そうかい」
そうして俺と真下の前にそれぞれビールとつきだしが運ばれてきた。
「それじゃあ、あんたの生還とひとまずの勝利を祝って」
乾杯、と突き合わせたグラスが小気味の良い音を響かせた。
久方ぶりに喉を通るビールの苦味とアルコールに思わず吐息がこぼれた。おっさんだな、と対面の真下が笑うが事実、彼の言う通り中年なのだから仕方がない。昔はそううまいと思わなかったビールの味も、出てきた料理も、何もかもが「今自分が生きているんだ」と改めて生を実感できてなぜだか嬉しかった。
ほどほどに客がいて、ほどほどに騒がしい店内だというのに苦ではないのはきっとこの男といるからなのだろうか。
ーFinー