夕暮れ時の賑わう商店街を抜けておおよそ十分。歩くのが人よりも速いタイガの足で五分とちょっと。駅前の喧騒が嘘みたいに静かな住宅地にそれは存在していた。
メゾンドワルツ。
少女趣味なプレートがところどころ錆びた鉄製の門扉に掛けられている。白い木目調の壁はやはりどこかメルヘンチックで、タイガも初めて見た時には辟易したものだったが、今となってはもう慣れた。
ベランダ側から自室を見上げる。はためく洗濯物の隙間から明かりが漏れ出ているのを認めてため息をついた。
いくか。
カンカンと足音を立ててトタンの階段を上がる。きしむ廊下を進むと夕飯時のいい匂いが鼻孔を刺激した。甘い、デミグラスソースの匂い。そういえば、今日はハンバーグだって言ってたな。そう思うと同時にぐうと腹が鳴った。
「タイガ、うるさいトラ」
「おめーも人のこと言えねえだろ」
「ふん」
膨らんだ胸元から顔を出したトラチがそっぽを向く。ぐうぐうと鳴る腹の音はタイガのものだけではない。
“香賀美“と書かれた表札の前までくるとデミグラスソースの匂いが一層強くなった。タイガがドアノブに手を掛けるより早くトラチが飛びつく。小さな身体をいっぱいに使って右に回すと、ガチャリと小気味がいい音がしてドアが開いた。
「おかえりなさい!」
ドアが開け放たれると同時にタイガの視界に満開の花のような笑みが飛び込んだ。
「ただいま」
ぶっきらぼうに答えるのはタイガの悪い癖だ。それに対して気を悪くした風もなくタイガを出迎えたレオは笑みを深くする。
築十四年の木造アパートの一室に、香賀美タイガと西園寺レオが共に住み始めてもうすぐ一年が経とうとしていた。
**
ことの発端はレオの卒業まで遡る。
華京院学園高等部を卒業し、都内の服飾の専門学校に通うことを決めたレオの表情は栄えある未来を想像しているというには浮かない様子で、タイガは妙にそれが気にかかった。
「お恥ずかしい話なのですが、実は」
そんな枕詞で語られたのは、まだ寮を出た後に住む場所が決まっていないこと、とりあえず部屋が決まるまではエーデルローズ寮に住まわせてもらえるということ、とはいえ四月になれば新入生が入ってきて自分が出ていくほかなくなってしまうとこと。
「ユウくんは『おれの部屋半分使ってくれてもいいぜ』って言ってくれてるんですけど」
そうは言っても作曲をするユウも服を作るレオも荷物が多い。ユウの楽器とレオの作品が所狭しと並べられる部屋ではとてもじゃないが生活なんてできないだろう。
それに。とレオが続ける。
「まだ、すこし一人で暮らすのはこわくて」
上京してきたばかりの頃は二人の姉がいるから、そしてエーデルローズで過ごしているうちにここが居場所だと思えるようになったから。だから、自分は東京で暮らすことができたのだ。とレオは言う。
「お姉さまたちは、独立して立派に働いていますし、もう甘えるわけにはいきません。わたしもここに来たばかりとは比べ物にならないくらい自信がついたと思っています。だから、一人でも大丈夫だと思っていた、のですが」
どうしても、決心がつかなくて。
「だからつい、ずるずるとここに残っているんです」
卒業までに粗方部屋の片づけを終えてあとは身一つになっているのが通例だったが、レオは違った。部屋にはトルソーやミシンの類が置かれたままになっていたし、クローゼットの中の数えきれないほどの衣装はすぐにでも着られるよとスタンバイの状態で息をひそめていた。とても身一つですぐに発つなんてできそうもない部屋のあり様にユキノジョウが懸念していたのも知っている。
頭半分ほど低い位置にあるレオを見やるとちょうどタイガを見上げてきた視線とぶつかる。この話をどれくらいの人間が知っているのだろう。少し離れたところにいる年長の三人やシン、ユウの姿を見て思う。ユキノジョウが部屋のあり様の方を心配していたことから、誰も知らないのではないだろうか。では、何故自分に打ち明けたのだろう。
それは、多分たまたま隣に立っていたから。
「じゃ、うちくるか」
「え?」
ん?
何かおかしなことを言っただろうか。目を丸くするレオを見て、自分の言葉を反芻する。そして理解をするまでその間コンマ五秒。うちにくるか、なんて。そんな柄でもないことを言ったのか? オレが、この口で。
「い、いや、そうじゃなくて」
「いいんですか!?」
「へ」
今度はタイガが目を丸くする番だった。前のめりになったレオが勢いで右腕を掴む。ぎゅうとそのまま力を籠めて距離を詰められた。
言葉のあや、なんて、もう言い出せない雰囲気だった。自分の右半身に密着するレオの身体から甘い匂いがしてくらくらする。いいや、どうにでもなってくれ。そんな気分だ。
「あ、でも、そんな。タイガくん気を遣って言ってくださってるんですよね。ごめんなさい。本気にしちゃって」
「部屋は、余ってるし」
しゅんと俯いたレオにタイガがそっけなく返す。部屋が余っているのは本当のことだった。何せ、数か月前までカヅキと二人で暮らしていたところを、今はタイガが一人で使っている。間取りは2LDK。その殆どは物置状態になっていて、どうにも持て余している。
今のレオと同じように住む場所がなかなか決まらないタイガに「じゃあ、一緒に住むか」とカヅキが持ち掛けたのがちょうど一年前。卒業がかかった研究をするのに今住んでいるマンションよりももう少し大学に近いところを探していることで、通う予定の大学の場所も近く、気心も知れているタイガを誘ったのは道理にかなっていた。タイガとしても誰よりも憧れているカヅキと住むということに二つ返事で頷き、晴れてカヅキとの共同生活が始まったのだが。急に「留学に行く」と言ったカヅキにより、それは突然終わりを迎えたのだった。
「だから、部屋はある」
引っ込みがつかなくなったタイガがもう一度繰り返す。ぱちぱちと瞬きをするレオを見て、「あの時のカヅキさんと同じことを言ってるだけだ」と自分に言い聞かせた。逡巡するレオの両手が胸の前で組まれる。その様子がまどろっこしくて、タイガは思わずレオの肩を掴んだ。
「オレ、掃除とか苦手だからすげー散らかってんけど! 一人よりはマシだろ!?」
何が言いたいのか言いたいのか自分でも分からなくなりながら捲し立てるタイガをレオはぽかんと見つめた。何故か首のあたりが妙に熱くなって、タイガは目を瞑る。
「そういうことでしたら、是非!」
レオの声が明るくなったのを認めて、タイガは小さくため息をついた。
こうして、2LDKのアパートでレオとタイガの共同生活が始まったのだった。
**
「でも、あの時はびっくりしました」
レオが箸で小さく切り分けたハンバーグを口に含む。我ながら上出来、と言ったデミグラスハンバーグは確かにミナトのものにも負けないくらい美味しくできていた。タイガの一口はレオの倍くらいだ。それを一口で頬張って奥歯で噛み締める。甘いソースの中にスパイスのぴりりとしたアクセントが効いている。中から溢れた肉汁と混ざって独特のうまみが口の中に広がる。
「あ? なんのことだ?」
「タイガくんがここにくるかって言ってくれた時です」
「別に、わりぃ話じゃねえだろ」
ダイニングテーブルの上に誂えられたミニチュアのテーブルセットはトラチ専用のものだ。椅子に行儀よく腰かけたトラチが「おかわり!」と叫ぶ。
「おめー、よく噛んで食ってんのかよ」
「ふん、タイガに言われたくないトラ」
「そうですよ。この前、お雑煮のおもちで喉詰まらせそうになったじゃないですか」
バツの悪い話を持ち出されて、タイガは言葉に詰まった。正月、ミナトがわざわざ家にきて作ってくれた雑煮があまりにうまくて掻き込んでいたら、急に息ができなくなったのだ。背中を叩いてくれたミナトのおかげで一命はとりとめたものの、もうあんな思いはしたくない。
「ミナトさんに作り方教わったんですよ。来年はわたしが作ってみます」
お餅はボクの実家でついたものをおすそ分けしてあげる。だから、来年は西園寺が自分で作ってごらん。そう言って去り際にミナトが残していったレシピは冷蔵庫の真ん中に貼られたままになっている。
来年。
その言葉がタイガの胸にずしりとのしかかった。レオにとって当たり前にくるはずのそれのことを考えるだけで、上手に息ができなくなる。
「もうすぐ、ここの更新もありますし」
レオがぐるりと部屋を見渡す。リビングのレースのカーテンもテレビボードに並べられたぬいぐるみも正直タイガの趣味ではないが、住めば都とはよく言ったもので、慣れてしまえばどうってことなかった。カヅキがいなくなってタイガ一人で使っていた時には荒れ放題もいいところだったのだ。レオが初めて足を踏み入れた瞬間の顔は忘れられない。レオがこの部屋の鍵を手にして最初にしたのは大掃除で、そのうちレオ好みに改造されていく部屋をタイガはただ黙ってみていたらそのうちにタイガの布団カバーにすらレースがつくようになっていた。
「タイガも鍋くらいは作れるようになったトラ」
トラチがミニチュアの茶碗に盛られた白飯をこれまたミニチュアの箸で器用につかんで口に放る。いつ見てもこいつの食事風景は奇妙で感心する。生意気な口ぶりは日に日にその度合いを増しているようで、最近では口喧嘩をしてもなかなか勝てない。
「うるせえ」
タイガもトラチに倣って茶碗を差し出す。レオの頬がほっと緩んだ。
「ミナト先輩の飯もうめーけど、おめーのもうめえ」
「わたしはタイガくんが作ったのも好きですよ」
何と答えていいかわからなくて思わずそっぽを向く。自分の作ったものなど肉と野菜を適当に煮ただけのもので料理と言えるのかどうかも怪しい。それだってレオに教わりながらようやくできるようになったもので、それ以上レパートリーが増えることはなかった。
「おめーには勝てねえよ」
受け取った茶碗の中身を勢いよく掻き込む。
また、息が詰まりそうになった。
その日のレオは随分上機嫌でトラチに一緒に風呂に入ろうなんて誘ってみたり、鼻歌交じりに菓子を作ってみたりしていた。オーブンから甘く香ばしい匂いが漂ってきて、つい吸い寄せられる。天板の上に並べられた小さな円がくつくつと小さな気泡を作って体積を増していく。赤外線に照らされたそれらをじっと見ているとレオが「まだできませんよ」と肩眉を上げた。
「なに、つくってんだ?」
「スコーン、作ってみてるんです」
「すこ……なんだそれ」
「できてからのお楽しみですよ」
服つくりを趣味にしているからか、レオの手先は器用でタイガはほれぼれとしてしまう。甘いソースの類を綺麗に器に盛りつけて、模様まで描いている。タイガにはとてもここまでできないし、そもそもやろうとも思わない。
風呂上りで頬が薄く染まったレオの横顔を見つめる。含み笑いをするような柔らかな口元に目がいった。何かを言いたくて、たまらない。そんな風に思えた。
「なんか、いいことでもあったのか?」
タイガの問いかけに「待っていました」とでもいうようにレオが振り返る。ただでさえ大きな目をこれでもかというほどまで大きく見開くさまに思わずたじろいだ。
「タイガくん、わたし、出るんです!」
何に、なんて言い出せないほどの気迫にタイガは「お、おお?」と返すことしかできなかった。どこからか現れたトラチは訳知り顔で「やったトラ!」とレオの首に抱きついた。レオがくすぐったそうに頬ずりをしながらきゃらきゃらと笑う。
「トラチはレオなら絶対に大丈夫だと思ったトラ」
「でも、本当に出られるなんて思ってなくて……」
「泣くなトラ~」
いや、待て。なんでオレが置き去りにされてるんだ? つーか、なんでこいつは事情を知ってるんだ?
ぽかんとするタイガをトラチが横目で見る。おい、なんでそんな勝ち誇った顔してんだよ。すげー、腹立つ。
「レオ、タイガは覚えてないトラ。レオがテストでいい成績とれたらコンテストに出られるって言ったの、聞いてなかったトラ」
「あ、ああ!?」
確かにそんな話をしたことがあった。けれど、レオが流石に一回生では難しいと言っていたのと、それっきり話に出てこなかったことで急には結び付かなかったのだ。千人近くいる学生の中で一人しか選ばれないという、厳しい世界だと聞いていたのに。
「おめー、すげえな!」
「はいっ」
両手を広げるとレオが胸に飛びついてきた。ぎゅうと背中に回された腕に力が籠る。鼻先を掠めた猫みたいに細い髪から花のようなにおいがした。レオと暮らすようになってから使い分けが面倒だという理由で同じシャンプーを使っているはずなのにタイガからはこんな匂いはしない。不思議なものだ。
「すっごく、大きな会場で、全国から若手デザイナーが集まるんです! モデルさんもプロの方ばかりで」
興奮した様子のレオが捲し立てる。パッと顔を上げて涙でぐちゃぐちゃの笑顔をタイガに見せた。
「タイガくん、お願いがあるんです」
「? なんだ」
「コンテスト。タイガくんに見にきてほしいんです」
「行くに決まってんだろ! そんで、いつやるんだ?」
「タイガ」
壁にかかったカレンダーをトラチがめくる。
今日から三十日後。トラチは様子を窺うようにカレンダーにつけられた赤い丸とタイガに視線をいったりきたりさせていた。
レオの晴れ舞台まで、あと三十日。
その日は、タイガが日本で過ごす最後の日だった。
**
「ええー! それでまたレオきゅんに言えなかったの?」
「うっせえな。あんなにはしゃいでる中で言えるわけねえだろ」
安っぽい大衆居酒屋の端の席で、場にそぐわない高そうなスーツを着た男とタイガは向かい合っていた。汗をかいたジョッキの中身を飲み干して力任せにダンとテーブルに置くと、向かいの男は嫌そうに眉をしかめた。
「お行儀悪いよ。タイガきゅん」
「おめーもこんなとこにそんな恰好でくんなよ。カズオ」
お仕事帰りに急に呼び出したのはどっちさ! と言いながらカケルもジョッキの中身を飲み干す。くるりと後ろを向いて「すいませーん」と店員を呼んだ。生中ふたつとモツ煮追加で。注文が済むやいなやタイガに向き直って頬杖をつく。
「レオきゅんなら、喜んでくれると思うけど」
「……そういう問題じゃねえんだよ」
追加のジョッキがテーブルに置かれる。呷ろうと手を伸ばして、やめた。代わりにはあ、と大きくため息をつく。
「あいつ、一人になっちまうだろ」
一人はまだ怖いと言った一年前のレオの顔が瞼の裏にちらついた。何とか踏ん張って、自分の足で立とうとしている。けれど、まだ何もないところで立ち上がるには力が足りないのだ。せめて、寄りかかれるものに、天に向かって咲く花を支える支柱みたいになれればいいと思った。
「タイガきゅんはさあ」
お代わりのビールにちびちびと口をつけてカケルは言う。口の周りに白い泡をくっつけるさまは間抜けなくせに、その視線はいやにシリアスでタイガは息を呑む。
「レオきゅんを侮りすぎなんじゃない?」
――香賀美、お前アメリカに行かないか?
担任からそう告げられたのは、レオのコンテスト出場が決まるより数週間前のことだった。
頭に全くなかった「アメリカ」という単語にいまひとつピンと来ず、タイガは角刈りの担任の頭をぼんやりと見つめていた。担任教諭は困ったように笑って、カヅキの名前を出した。「お前、仁科カヅキと知り合いだったんだな。今日、エーデルローズの氷室主宰を通して話が出てきたんだよ」
「カヅキさんが!?」
自分を置いてアメリカに行ってしまったカヅキが、呼んでいる。「あっちには、アレクもいるんだ。あいつは世界のストリート系をいち早く見てるんだよ」そうやって、目を輝かせていたカヅキがタイガの名前を出したということは、タイガに期待をしている証拠だ。早く、世界を見ろよ。カヅキがそう言っている。
「うちの学校としても、是非お前に行ってほしいと思ってる。英語は……まあ、行けば何とかなるだろう。向こうでのサポートは仁科カヅキ本人が申し出てくれているらしい」
行くに決まってるよな? 担任は目だけで言った。タイガももちろん二つ返事で了承したい気持ちだった。
けれど。
「ちょっと、考えさせてください」
一人きりなら迷わなかった。けれど、今は迷う理由があるのだ。
「で、肝心のレオきゅんにその話ができてない、と」
「……言えるわけねえだろ」
あんなに近くで笑ってくれて、全身で信用してくれるやつを、置いていけるわけがない。だからと言って、一緒にきてくれだなんてとんでもない我儘を言えるわけもなかった。
あいつは、あいつのステージがある。
「だからさあ」
カケルの語気が荒くなる。頬は既に赤かった。酒に滅法弱いのだ。目が座っていて凄みがあって、伊達に社会の荒波を超えてきたわけではないことを思い知らされる。
「タイガはレオきゅんのこと甘く見すぎだって言ってんの。大体、アメリカ行きを断るつもりもないくせに。俺になんて言ってほしいわけ? 板挟みになってる可哀そうなボクを慰めてほしかった? ごじょーだん。おれっちはそんな弱っちいタイガきゅんに付き合ってられるほど暇じゃないわけ。あーあ、せっかくここまで来たのにとんだ無駄足だった。もう帰る」
ガタンと派手な音をたててカケルが席を立つ。ふらつく足もとに不安を感じて駆け寄ると「しゃらくせー!」と耳元で叫ばれた。
「あー、もうこうなったら朝まで付き合ってもらうからね! 大将、お会計!」
カウンター越しに一万円札を渡して会計を済ませると、いつ呼んだのか分からないタクシーが入り口に停まっていた。
「もう帰るって言ったのは誰だよ……」
つり銭を受け取るタイガなんかお構いなしにタクシーの後部座席に乗り込んだカケルが手招きをする。後に続いてシートに腰かけると、その柔らかさにタイガの目蓋が落ちそうになった。
**
「さすがに、寝てるよな……」
ベランダ側から自室の様子を窺うと当然のように明かりは消され、音もなく静まり返っていた。酔ったカケルに連れられてミナトが働くバーでしこたま説教をされた。ミナトの声は静かで優しくて、自分が情けなくなった。
「西園寺の気持ち、ちゃんと考えたことあるのか?」そう問われて、頷くことができなかった。何も、考えていない。結局、臆病な自分がかわいいだけなのだ。嫌われるのが怖い。それだけの話。
トタンの階段を音をたてないようにそっと上がる。広さと場所だけで選んだこの家はカヅキとタイガにはあまりに不似合いだった。「メゾンドワルツ」という名前を見て素敵だと笑ったのはレオだけだった。そう言ったあと、当のレオはタイガの部屋の散らかしように絶句したけれど。
ドアノブに手をかけて右に回す。半分ほどで止まるはずが、ガチャリと音を立てて回り切った。鍵がかかっていない。あまりに不用心だ。こんなボロアパート、変な野郎が狙うにはうってつけだから寝る時は鍵をかけろってあれほど言ったのに。
「レオ」
ドアを開ける。暗闇に向かって声をかけると、何かがこすれる音がした。月明かりに白い顔が映し出される。フローリングの狭い廊下でレオが膝を抱えてこちらを見上げていた。
「おかえりなさい」
目が、赤い。腫れた目蓋と頬に残る白い跡からどれくらい泣いていたのだろうかと考える。
タイガはレオに泣かれるのが苦手だった。どうしていいか分からなくなって、胸がつぶれそうになる。
「聞いたのか」
おもむろに口を開くタイガにレオはこくりと頷くことで返事をした。
「……いつ」
「つい、さきほど。ユキ様から」
そうか。太刀花先輩か。
左手で顔をこするとぬるりと嫌な感触があった。まだマフラーも手放せないくらいの季節だというのに、汗をかいていた。後ろ手にドアを閉めると冷えた空気に金属がぶつかる音が響く。照明のスイッチを探り当てるとブウンと鈍い音がして青白い蛍光灯の光が頭上から降ってきた。
プリズムショーの師として聖に指導を仰ぐユキノジョウが聖の口から話を知ることはなにもおかしくない。誰にも言うななんて口止めはしていなかったし、する権利もなかった。
「ユキ様には何も言わないでください。まさか、わたしが知らなかったとは思っていなかったみたいで」
「わかってる。オレが悪い」
自分の口でちゃんと伝えなかったツケだ。レオの涙も、胸の苦しみも全部。
「なんで、早く言ってくれなかったんですか」本当に。
「……断るつもりだったから」嘘だ。
「……うそつき」はは、バレてるじゃねえか。
「うそ、じゃねえよ」もう、やめようぜ。
玄関のドアを背もたれにしてずるりと尻もちをつく。息が白い。ふわふわと漂うそれを目で追うと、すぐに見失った。
「いつまでもカヅキさんのケツを追っかけてるみてーでかっこわりぃし、大和アレクサンダーがいるところでプリズムショーをやるのも気分がわりぃ。それに、英語なんかこれっぽっちもわかんねえからな」
これまで自分は正直者だと思っていたが、こんなにもスラスラと嘘がつけるものだと感心した。全部、嘘だ。いや、英語がからきしというところだけ本当だな。
カヅキが見ている景色を一緒に見てみたいし、大和アレクサンダーとも同じ土俵で勝負したい。その思いがすべてレオに見透かされているのは分かっていた。
ただ、レオを一人にできないなんて余計な心配をしたことを知られたくなかった。
本当は、分かっていたのだ。レオはもう、一人で立てるということを。天高く咲いた花がプラスチックでできた支柱を必要としていないことを。
自分が、どうしてもそれを認めたくないと駄々をこねていただけだということを。
「タイガくん、どうか」
レオの細い腕がタイガに向かって伸びる。首の後ろに巻き付くとぎゅうと抱きしめられた。同じシャンプーを使っているはずなのに、レオばかりいい匂いがする。
「おう」
レオの背中に触れた手の平にあたたかな温度を感じた。
**
「西園寺さん、お疲れさまでした!」
「お疲れ様です」
時刻は十八時半。後輩の女子生徒がレオに頭を下げて扉の向こうへ消えた。今日は、彼氏とデートらしい。にこやかに手を振ったレオは彼女の姿が見えなくなると、ふうと小さく息をついた。
青山の小さなアトリエを借りて開いた個展は、予想以上の大賑わいで連日長蛇の列ができるほどだった。世界的なコンテストで優勝した若きデザイナーがプリズムスタァ西園寺レオであるということがSNS上で話題となり、それが呼び水となって嬉しい悲鳴を上げる羽目となったのだ。
さすがのレオも少々疲れたらしい。左右に首を揺らすとコキコキと小さく鳴った。隅に置かれた椅子に腰かけると急に眠気が襲ってくる。
笑顔がたくさん溢れていた。それがどうしようもなく、嬉しかった。
机に置かれた名刺を手に取って眺める。思わず口元が緩むのを抑えられなかった。白地に金のラインが入った豪奢なそれはカケルが置いて行ったものだ。
デザイナーデビューすることがあったら、まずおれっちに相談してね。そう言ってウィンクを残したカケルは初日に列の先頭にいたからレオを大層驚かせた。ミナトからは「大成功のお祝いにパーティーをしよう!」とメッセージが送られている。BGMはユウがレオの個展のために書き下ろした曲で、入り口に置かれた立派な花はユキノジョウが贈ってくれたものだ。シンは最終日にやってきてレオの写真を撮ってくれた。「レオくんの思い出の服たちと、レオくんを一緒に撮りたいんだ」ダイスキリフレイン、ナナイロノチカイ、そして。
プリズムキングカップに合わせて作った衣装。この衣装を恥ずかしそうに着た彼は、遠く離れた土地で空高く飛んでいる。同じ目線で戦える相手と、先を行く背中を追い越そうと、昨日より1cmでも、1mmでも高く、上を目指して飛んでいる。
会いたい、なんて言ったことはなかった。けれど、今だけは。
不意に、ギィと扉が開く音がした。クローズの札を提げそびれてしまったのだろうか。浮足立った後輩の顔を思い浮かべる。とにかく、もう今日は店じまいだ。立ち上がって、扉の方まで歩いていく。
レオの視界が急に赤い薔薇で埋まった。何事か、と見上げると長い前髪から覗く瞳と視線がぶつかった。
翠色の瞳が弧を描く。にっと横に引いた唇の間から白い歯が覗いた。
「なあ、レオ。オレにもっかい衣装を作ってくれねえか」
もちろん。そう答えるよりも早くレオの視界が再び赤い薔薇でいっぱいになった。