春。何かを始めるにはちょうどいい季節。わたしにはとある目標がある。それはいつもすれ違う彼に「はじめまして」の挨拶をすることだ。彼、というのは黒髪のなかなか素敵な好青年で(少なくともわたしにとっては)、ご近所さんなのかとてもよく見かける。正直に言おう、わたしは彼に惚れている。彼を一目見たその瞬間、わたしの頭にはリンゴーンと祝福の鐘が鳴り響き、オーケストラはベートーヴェンの第五を流すのだ。何度も何度もすれ違うものだから、とうとうわたしは50m離れたところからでも識別できるようになった。あの頭のフォルムは間違いない、あのサッカーボールのキーホルダー!間違いない、ああんこの鼻をかすめるダウニーの香り間違いない!!彼だ!!ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン!!とこんな具合に。気持ち悪い?わたしもそう思う。何故こんなに拗らせているかって?こんなによく見かけるのに、彼とは常にすれ違うことしかできないからだ!!まさしく運命的なまでにわたしは彼とすれ違う。ありとあらゆる方法を試した。そのうちに、彼もまたわたしに声をかけようとしていることにも気がついた。しかし運命は無情。口を開け一歩踏み出すその瞬間、トラックが間を突っ切り、強盗は包丁を突きつけ、牛は群れをなし、UFOは低空飛行をする。わたしはマスコミが憎い。わたしと彼が5m離れている時に、インタビュアは30cmの距離で宇宙人に誘拐されかけた時のエピソードを聞いているのだ。これはもはや何者かがわたしを邪魔しているに違いない。彼とすれ違い続けてはや5年、陰謀論に取り憑かれたわたしは心に決める。
──こんな世界、滅んでしまえ!!
そうしてわたしは世界を滅ぼすことを決めた。トラックだろうと強盗だろうと牛の群れだろうと世界ごと滅ぼして仕舞えばなんの問題もない。無論マスコミもだ。宇宙人だけはまだ対処が難しいが、とうとうわたしは世界の全てを征服することができた。いまやわたしは魔王としてこの世界に君臨している。世界を滅ぼすためのスイッチはこの手の中にある。あとは押すだけだ。しかし、とある出来事がわたしを踏みとどまらせている。なんと、彼は勇者に選ばれたらしいのだ!!魔王討伐の任を背負い、彼はわたしの待つ城へ刻一刻と迫ってきているらしい。その瞬間わたしは超自然的に悟る。これがわたしと彼の運命だったのだと。神さまっていうのは案外雑だ。世界を救うためとはいえ、男女の仲の引き裂き方がわかっていない。すれ違い続けて50年目に突入した文通で、わたしと彼はとてもラブラブである。最後の手紙の文末にこう書いてあるほどだ。曰く、君の為に世界を救う。これほどの殺し文句があるだろうか!!
春。何かを終わらすにもちょうどいい季節。わたしにはとある目標がある。
それはいつもすれ違う彼に「はじめまして」の挨拶をすることだ。