子どものころ、金魚を飼っていたことがある。
 夏祭りの夜店で、粘っても一匹もすくえなかった妹に、親父がおまけでくれた和金だった。小さなビニール袋のなかで揺れるその赤色に、駄々をこねていた妹の涙はすっかり止んだ。
 口には出さなかったけれど、こんな金魚はすぐに死んでしまうだろうという予感を持っていた。
 金魚鉢。水草。酸素石。父付きの運転手が翌日には手配した環境で、和金は予想に反して元気に、ひらひらと泳いで餌を食べた。その夏は、自分も妹も、父も母も、その清涼な鮮やかさをよく覗き込んでは楽しんだ。あの夜に抱いた何とも言えない薄気味悪さは、すっかり頭から抜けていた。
 金魚は、人の目を楽しませるためだけに品種改良を重ねられてきた歪な生き物の姿である。
 黒崎は手のひらを見る。あの夏、ふと引き寄せられて、鉢からその手で掬ってみた和金の体温を思う。すぐに乾いていく手のひらの中で跳ね、火傷をして死んでいったそれを。
 その後どうなったかを黒崎はいまひとつ思い出せない。叱られたり責められたりはしなかったように思う。
 曖昧な記憶の暗闇に、金魚鉢が粉々に砕ける音がした。乾燥した餌と濡れた水草のにおい、びしゃびしゃと足元を濡らす酸素石。冷たく生々しい金魚の鱗の感触が噎せ返る。和金の尾は最後までひらひらと揺れていた。
 『申し訳ありません、蘭丸様』
 平静に言ってのけたその男は誰だったか。
 ――おれがこの手で殺したのに。
「――、ッ……!!」
 猛烈な吐き気を感じて飛び起きる。身をよじってこみ上げてくるものに耐え、咳込んだ。
(――なん、なんだ)
 掬った砂のようにこぼれて消えていく夢の断片。荒い息を繰り返しているうちに、やっと引き攣るような吐気は落ち着いた。いつになく重たく起こした上半身は、汗だくになっていた。
 ***
 春の雨に、夜が濡れている。
「ん、ぁ、っ……ん……っ!」
 しごいたものの先端を指先で割り、弾くと、真斗はびゅく、と若い白を吐精した。脱げかけた夜着のなかでくねり、逃れようとする裸身を抱き込む。こめかみに口づけながら、さらにその衝動を指で促す。
「だ、め、黒崎さんっ……、だめ、です……っ」
「真斗、目ぇ開けて、見ろ、すげぇ出てる」
「……っ」
 ひくつく下腹と黒崎の指を汚す白濁は、濃い。自慰すらあまりし慣れないのだ、と聞いたのを思い出して、余計に気持ちが煽られる。出し尽くして、ぐったりとその身体から力が抜ける。浅く荒い嗚咽混じりの吐息ごと、貪った。絡みつく粘液にジェルを足し、襞の奥に潜り込ませる。
 大切にしたい。でも。
 結局、黒崎と真斗が恋人などという甘やかな関係でいられ続ける保証も、自分への確信も、さらに言えば真斗への信頼も黒崎にはないのだった。真斗は聖川家という大財閥の嫡男である。いま、その重責を負わずにアイドルというかけ離れた道を歩んでいるのは、もちろん真斗の意志の硬さもあるのだが、脆く危うい、与えられたモラトリアムだからにすぎないのだろう。
 呼吸に合わせて、暗く熱い胎の中を探り、解いた。背に回った真斗の手がごく浅く爪痕をつける。耳朶に燃えるような吐気が吹き込まれた。――黒崎さん。
「真斗……」
 まっすぐに向けられる思慕を、鬱陶しいと思った時もあった。振り向きさえしなかった、なのに――純粋で頑固で、そして己にだけ従順で蕩けやすい真斗に、黒崎はいつのまにか絡めとられていた。ささくれた心を慰撫され包まれて、その慈愛にすっかり溺れてしまっている自分がいる。
 いつか真斗が自分の元を去ったら。
「あ、……っ!」
 続け様に嬲られたことで、感覚が鋭敏になっていたのだろうか。猛りを秘所に挿し入れただけで、白い腿から丸めた爪先に至るまでを真斗は大きく痙攣させた。間接照明だけの薄暗闇の中、白い身体を跳ねさせて、渦巻く快楽に悶えている。あまりにも卑猥で、あまりにも憐れなその姿に脳が焼けそうだ。自制を捨てて、わななく身体を引き寄せる。小さくすすり泣く、殺しきれない真斗の声。
 愛したい。だけど。
 形のある愛を、真斗にだけは絶対に約束できない。離れがたければそれだけ、真斗は不幸な存在となる。社会的に。こんな狭い部屋で、シングルベッドを軋ませながら、男にいいように抱かれているべきではないのだ。
  ――おまえは。おまえはきっと……。
 暗く焦げ付く脳裏にひらり、と何か赤いものがよぎった。戯れに手に取られ、火傷をして死んでいく。さいごまでぴくぴくと跳ねて――それは。
 黒崎はむしろしがみつくように、真斗の身体の奥に、焦燥を注ぎ込んだ。
 大丈夫か、と聞けば、少しかすれた声で真斗は壊れそう、と呟いた。
 真斗の眼尻は涙に朱く腫れている。払おうと伸びた手指を止め、擦るな、と舐めとる。そっちの方が悪そうです、と真斗はくすくす笑った。
「痛くて、苦しくて、……気持ちが良くて、壊れそうです。身体も、心も」
 果ててゴムを取ったばかりの黒崎の肉管に、指先が触れる。二、三度扱き――そして。
「ばか、おまえ、真斗」
「ん……」
 腕から抜け出た真斗は、薄い舌で濡れた肉を刮げる。熱心の方向が時々ズレる彼は、数ヶ月前にはつたなく頬張ってばかりだった口淫をすっかり自分の技術にしていた。胎の中とは違う温さと湿度、そして何よりも背徳感が背筋を痺れさせていく。『聖川真斗』にさせているフェラチオなのだ、という卑俗な支配欲は、あっけなく黒崎を絡めとった。
 さらさらとおちる髪をかきあげ、桃色を薄く灯した頬と、血を透かしたような赤いくちびるが肉欲に尽くす。この眺めを写真に切り取って三文雑誌にでも載せてみたら、どれだけの男が真斗を犯してみたくなるだろう――などと、ふと考える。んむ、と急な膨張に真斗が呻きをあげた。
「ん、……ふふ、元気ですね」
「おまえが悪い……も、やめろ、って」
「黒崎さん、俺を」
 しっかりと立ち上がってきたそれに頬を摺り寄せ、真斗は重たげな睫毛の向こうから問うてくる。「壊してください」熱い吐息が先端に吹きかけられる。「壊して」
 ――そんなに優しく、困ったように抱かずに。
 瞳の紫紺が、闇を孕んで揺れる。絶句した黒崎を見つめながら、真斗は黒崎の腰をまたいだ。
 真斗が今夜こんなにも乱れたがっているのは、きっと何かわけがあるのだろう。黒崎の上で腰を揺らし、貪欲に熱をねだる肢体を抱きながら、黒崎は思った。真斗と身体を交わしあってからだいぶ経つが、こんなとき真斗はたいがい、何かしらの葛藤を抱えていた。それが何なのか訊くのはきっとひどくたやすい。けれど、本人から口にしないのであれば、黒崎は積極的に聞くことはなかった。今日のように。
 爪先で淡く立ち上がる乳首を搔き、もう一方のそれを強く吸う。同じボディソープのにおいの奥にまろく香る真斗そのもののにおいや味は、黒崎の脳を甘やかに痺れさせていく。ひとつにならない身体同士を打ち付けて、肉のぶつかる音がはじけるたびに、真斗ははらはらと言葉をこぼした。
 好き。そこが良い。気持ちがいい。
「すき、ああ、愛しています……」
 胎を散々に突かれ、もう何度目か薄くなった精をこぼして喘ぐ真斗は、やっぱり泣いているように黒崎には見えた。ひどく痛々しいと思った。
 二日間降り続いた雨は、早くに咲いた桜を濡らし枝から剥がしていった。
 黒崎がその報せを聞いたのは、他の人間と同時か、僅かに早い程度だった。三文ゴシップ誌のオンライン・ニュースに記された、よく知った字面の、他人。
 
『聖川真斗、社長令嬢と結婚か?』
 
 その日から、真斗の携帯電話は通じなくなった。
 ***
「よっぽど暇なんだね、聖川の記事を載せるなんて」
 同じ撮影の楽屋に来るなり雑誌を放り出したレンの声は、冷たかった。空色の目も、いつもの柔らかい暖かな春の始まりの色じゃなくて――なんだか、早乙女学園の時のレンを不意に思い出した。
「暗いニュースばかりだから、マサのニュースを飛ばせば売れると思ったのかな? マサのファンはショックだよね。こんなのでも」
 俺たちは『恋愛禁止』だ。いまさらアイドルがそんなの古い、ってよその事務所の人たちからは言われたりするし、俺だって別に律儀に従ってるわけでもない。いいなって思った子とはそれなりにまあそういうこともしてるし、そもそも目の前のレンなんてこういう雑誌を賑わせたのは二、三度じゃきかないんじゃないかな。
 でも、今はそういうのに本気じゃない。俺も、きっとレンも。恋愛は罪なんかじゃないけれど、俺たちはシャイニング事務所の――ちがうね、ファンのみんなの『もの』なんだ。誰かを独り占めしちゃいけないし、されてもいけない。たくさんのファンレターに、声援に、あなたはわたしの王子様、わたしの太陽、大好き、ってすごく真摯に言われるんだ。そのことが、何よりも俺は嬉しい。
 見開きに、マサがピンで写った写真――ああこれ、新しい映画の宣材写真かな――が紙面の八割を占めていて、肝心の相手どころか確かなことも書いていない。ただ、『聖川真斗(25)が某日、都内某所で社長令嬢のAさんと会食をした』という内容がくだくだしく書いてあるだけ。
「『これが見合いであるならば、聖川家という大財閥の嫡男である彼にとっては、またとない結婚相手だろう』――本当にお見合いなのかな」
 レンは無言でスマホを見ている。返事が返ってくるとは俺も思ってない。
 マサは財閥の嫡男で、レンも財閥の息子だ。俺なんかには予想もつかないけど、「家」というものでマサとレンは昔随分と確執があった。側から見たら、自分に持ってないところをお互いに見出して無い物ねだりして傷つけあってるって感じだった。そういうことも開けっぴろげにしてくれるほど、今の二人の関係は柔らかくなった。まあ、時々まだ喧嘩めいたこともしてるけどね。
 で、マサのことに戻るんだけど。
「こんなのはどうでも、いいんだけどさ。――マサは、……いつかは辞めちゃうのかな。アイドルも。ST☆RISHも」
「イッキ」
 レンは諭すような声で俺を呼ぶ。だってさあ、と続けてみても、その先は言葉にできない。なんとなく、したらまずいなって俺でもわかる。
 アイドルとして成功して見せるって、そう言ってマサは芸能活動を続けることを厳しい父親に認めさせたんだって聞いた。うん、俺たちはまだまだかもしれないけど、ひたすらに輝くものに向かって走ってる。仲間がいなかったらできないことだってたくさんあった。一人でもかけたらダメだったんだって思う。でも。それでも。
「……マサ、大丈夫かな」
 俺のメッセージも、ST☆RISHのグループにも、たぶんレンのも、マサからの返信も既読も付かない。マネージャーさんは、今日と明日は偶然マサはオフだって言ってる。事務所の判断を仰ぐほどのニュースでもないらしかった。たぶんこれは、ST☆RISHの聖川真斗じゃなくて、『聖川家の嫡男』のニュースだから。
 ――蘭丸先輩は、もうこのニュースを知っただろうか。
 俺もレンも、ST☆RISHのみんなもQUARTET NIGHTの先輩たちも、みんなマサと蘭丸先輩がそういう仲だっていうことを知ってる。こっちは「本気」の恋のほうだよ。もう、ずいぶんと前から。
 マサが蘭丸先輩のことを時々、本当に時々――内輪の酒の席で話すとき、嬉しそうで幸せそうでいじらしくなるほど可愛らしくなっちゃうのだって。もっともっと前、実らないはずの恋だ、って寂しそうに笑っていた昔のことだって、俺は知ってる。だから応援した、いっぱい。マサが蘭丸先輩を見る目は、ほかの誰を見るのとも全然違うこと、知らないのはマサだけだっただろう。あの勘がよくて優しい蘭丸先輩が気付かないわけなかったから。
 そうか。だから俺は、なんか悲しくてさみしくて、悔しいんだ。
 俺は鳴らないスマートフォンを取り出して、もう一度メッセージアプリを開いた。
 ***
 
 あの方はひどいお方です。とても、とてもひどい。
 ――ええ、私ごときではあの方を汚すに足らないことなど分かっております。それでも私は、私の中のあの方を殺めたのです。この手で。
 飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドルグループのおひとり。芸能に疎く生きている私でも、そのくらいは存じております。尤も、お名前とお顔をそれと知ったのは、もう何年も前のことなのですけれど。
 この家におんなとして生を受けた時に、私の行く末は決まっておりました。教養を身につけ、適度に社会というものにも触れ、そして適齢のうちに家格の釣り合う――というよりは、名実ともに利益のある出身の殿方と婚姻を結ぶ。政略結婚、というものです。父と母も、祖父と祖母も、親戚は概ねそうでした。古いとお笑いになる向きもございましょうし、あるいは立ち上がれ自立せよと詰る方もいらっしゃるでしょう。しかし私は、それで幸福だったのです。
 あれはまだあの方が芸能学校をお出になってそう経たない頃、私は十七になったばかりでした。家同士が決めた婚約者候補のそれぞれ筆頭同士、お名前とお家柄だけは聞かされていましたが、まだ恋そのものを知らぬ子どもであった私は、父に差し出された立派な装丁の釣書を精一杯の不服を示して受け取りました。二つ年上の、大財閥のご嫡男。姿かたちがその人となりのすべてではないと申せども、未だ夢の中には居たかった、そんなことを考えながら私はその表紙を開き、柔く透ける薄紙をめくり――そして、恋に落ちたのでございます。
 
 写真の中にたたずんでいたのは、美しい人でした。今まで見てきた、誰よりも。
 青くさえ写る黒髪は艶々しく、眦は凛々しく、白の中にほんの一滴血を落としたような頬には少年と青年の間にしか捉え得ない翳りまでもが色めいてありました。
 財閥を継ぐことに悩み、芸能の道を模索しているという、両家にとってはやや頭の痛いであろうその姿勢も、生まれてこの方結局流されながら生きてきた私には、また魅力のひとつにも映りました。
 私に否やのあろうはずは、ありませんでした。縁談ははずむように決まりました。
 紅葉の色づく季節、あれやこれやと振袖に帯にと用意し、せめても化粧の手管を学び、私はあの方に御目文字しました。まだ二十歳に届かぬ者同士、どちらかといえば付き添いの、親族同士の顔合わせに近かったのかもしれません。それでも、若い私は凍えそうなほど緊張していました。写真で見るよりさらに幾層倍水際立ったお姿の、――初めて恋をした方とお会いしたのですから。
 声は慎ましやかでいながら凛々しく、落ち着いていて柔和な雰囲気の方でした。少し、お疲れのように見えたのは、後から理由が分かったのですが。
 私はその方にすっかりのぼせてしまって、この方といつか結婚の式を挙げる時、その傍らにいる己があまりに見劣りしやしないか、ああ、そもそもまだどうなるかはわからないのだから、などと、小さな頭の中でくるくると考えて、具合が悪くなりそうでした。
「緊張していらっしゃいますか」
 親族が席を外して二人きりに向い合せたホテルの喫茶ラウンジで、あの方は初めて私に向けておっしゃいました。柔らかく低い声でした。忘れはしません、この方は本当にどこまでも誠実な方だと、私は思い知ることになるのですから。
「好きな人がいるのです。この場になるまで、断ることができずに申し訳ありません」
 頭の中が真っ白になりました。私は、立ち上がり頭を下げるその方を、自分でも使ったことのない言葉でとどめていました。ええ、ええ、もう何も仰らないでくださいまし。
「私にも、……密かに慕っている殿方がいるのです」
 そうなのですか。彼の方は驚いていたようでした。詳しいことはわかりません、何せ私は――お笑いくださいませ、初めて恋をして、初めて失恋をしていたのです。
 私の心を置き去りにして、私達は円満にこの縁談が破談するように密かな申し合わせを致しました。心臓に千本、万本の針が突き立ったような心持ちでした。
 
 
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初公開日: 2020年04月02日
最終更新日: 2020年04月02日
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蘭真 うたプリ R18二次創作