今まで雨は嫌いだったけど、君に会ってから好きになれたんだ。
思えば君がチームに配属された日も雨だった。リーダーに連れられてやってきた君の、土砂降りの音にかき消された挨拶の言葉は、結局何だったのか。
「メローネお帰りなさい」
「ただいま。まさかこんなに降るとは思ってなかったよ」
「わわ、びしょぬれだ。タオル持ってくるから、ちょっと待ってて」
テーブルに文庫本を置き、君は応接間からいそいそと抜けだして行く。次の標的の身辺調査の途中で、予報外れの雨に降られてしまい、大急ぎで帰って来たのだ。薄暗いアジトには、彼女以外誰もいないようだ。窓を叩く大きな雨粒を静かに見つめながら、君がやって来た日を思い出す。
「はい、タオル。お風呂入る? それとも、何か温かいものでも煎れようか?」
「ああ、Grazie. ……こうやって髪を拭いてもらうの、悪くない。子供の頃に戻ったみたいだ」
「ふふふ。今日の仕事はどうだった? 上手くいった?」
「途中で雨が降らなけりゃな。全く、今日一日で済むかと思ったのに……」
小さな手がわしわしと俺の髪を拭う。服までびっしょりになった濡れネズミ状態でソファに座るのは憚れたが、彼女が座れと催促するもんだから、従うしかない。
目の前の卓上に置かれた小説は、俺の読めない日本語のものだ。タイトルは分からないが、なんとなく作者の名前だけなら形で分かる。
「モリオウガイ」
「え? ああ、小説のこと? 「高瀬舟」って本」
「タカセブネ。 日本語は難しいな」
「でも今、作者の漢字は読めてた」
漢字のフォルムでなんとなく分かっただけだと説明したが、彼女からすればそれが読めているということらしい。彼女がそう思っているなら、もうそれでもいいのだろう。
森鴎外のこと、雨のこと、ばらばらのパズルのピースが集まり、組み込まれていくように、君と俺の関係が浮かび上がる。窓に張り付く水滴と、薄暗い照明、彼女の輪郭をなぞっていくうちに、君とこの言い様のない感情を共有して欲しくなった。
「君は覚えているか。ここに来た日のこと」
「覚えてるよ? ああ、そういえば雨だったね」
「あの日、どういう感情だったんだ? 怖かったか? だってリーダーはあんな奴だろう。リーダーの後ろにいた君は、暗殺チームに加入する奴というより、これから殺される標的みたいだった」
「えへへ、そうだね、リーダーは確かに怖かった! でも、そうだなぁ、怖いもあったけど、でも一番は不安だった」
記憶にトリップしよう。反芻しよう。あの日の音、気温、匂いまでも鮮明に、今のように思い出せる。俺はあの時君が嫌いだった。それでも、刻みこまれるように覚えているのは、君が好きだから。
* * *
「お前ら静かにしろ。今日からチームに配属される者だ」
リゾット・ネエロの声はざわついた応接間に染み入る。彼の巨躯の後ろで難民のように震えている少女は、誰の目も見ずにただ床を見つめていた。
リーダーの紹介の後、彼女の小さな声は挨拶を零したのだが、一番遠い所に座っていた俺には、雨音と季節外れの雷鳴のせいで何も分からなかった。
まるで汚いものを見つめるような、その視線が酷く不愉快で、俺は初対面で君を嫌うことを決めた。
チームにも上手く馴染めず、一人でぽそぽそと食事をしている所をよく見た。リーダーは責任者という立場もあるのだろうが、酷く世話焼きな性分もあるのだろう、よく気にかけていた。イタリア語が不自由な彼女の為に教則本を買い与え、根気良く教えているうちに、簡単な会話ならできるようになっていた。
「今夜も一人か。チームには馴染めないか」
「ごめんなさい。 その、皆はきっと私が嫌いです」
「……皆じゃない、俺は別だ」
きっと君は、リーダーが好きだったのだろう。ベイビィ・フェイスを教育する片手間で、視界にチラチラと入り込む二人を見ているとムカムカする。オドオドと怯えたように人の表情を察する仕草も、自分は弱者だとアピールし続ける傲慢さも、それでいて誰かに助けを求めない愚かさも、俺は嫌いだ。
リーダーは彼女を気に入ってはいたようだが、それ以外のメンバーはというと、腫れものを扱うような態度だったというのが一番的を得ていただろう。
俺はそもそも嫌いだからなるべく避けていたし、イルーゾォもそんな様子だった。俺と違うのは、イルーゾォは少し性根が悪いから、リーダーに気付かれない程度に嫌がらせを繰り返していたのを覚えている。嫌がらせと言っても、使っていたコップを隠したり、彼女の分の食事の量を少し減らしたりなど、割とみみっちいことだったが。
ギアッチョとホルマジオは無関心だ。用件があれば話しかけはするが、何せイタリア語が上手くない。必要最低限以下の話しかしていなかった筈だ。ペッシはマンモーニだし、性根が優しい奴だから、何かと気にかけてはいたようだが、やはりそれも言葉が通じず、上手くいっていない。
プロシュートはリーダーとも込み入った仕事の話し合いをすることが多かったから、そこそこ交流はしていただろう。リーダー不在の日には代わりに世話をしてやるし、イタリア語の勉強もスパルタ方式ではあるが付き合っていた。彼も結構な世話焼きだから、たまにドルチェを買い与えて甘やかしていたようだ。
暗殺チームへの配属が決まったと言えど、すぐ任務を任されるわけでもない。そもそもこいつに殺しができるのか怪しいレベルだったし、配属とは名ばかりで性処理用の女か、そのうち風俗か好き物のジジイに売り飛ばされるとばかり思っていた。
少しイタリア語を覚えた彼女は、籠もり切りだった部屋から出てくるようになった。応接間のソファで、イタリア語の勉強をしたり、時々本を読んでいる姿を目撃することも増えた。
その日も雨だった。昼まで眠っていて、だるさと頭痛を引きずりながら階下に降りる。アジトには彼女以外誰もいなかったから、自分の世話は自分でしなくてはいけないし、何より気まずくて不快だった。突如響いた足音に、彼女は少し驚いた様子で肩を揺らす。何もそんなに驚く必要もないだろうに。大げさなんだよ。そう思いながらキッチンに向かい、大した食料が入っていない冷蔵庫に溜息を吐く。
ペットボトルの水を取り出し、ぼんやりとソファに座る彼女を見つめる。アジア人特有の細い黒髪に、白人とは違う染みも雀斑もない病的な白い肌。人形のように小さな骨格。丈夫で強いベイビィが産めそうにはないだろう。ベイビィの母体にも使えない、暗殺もできない、そんな人間を招き入れて、リーダーは何を考えているのか。
ふと、彼女の手の中の小さな本に目を移す。イタリア語で本が読めるレベルまで語学力が付いたのかと思ったが、どうやらそれは彼女の母国語の本のようだ。生憎、日本語に精通していないので、何を読んでいるのかは分からない。
「あ? 本? んなもん本人に聞けばいいだろ」
「……俺と彼女が仲悪いこと知ってるだろ」
「マンモーニが。ガキじゃあるめぇし、成人してるなら仕事上くらい割り切れ」
その晩帰ってきたプロシュートに、彼女に何を買い与えたのか聞いてみたが、当然と言っちゃあ当然の答えで返された。そのもっともができれば苦労してない、と零せば、プロシュートは大きな嘆息と共に彼女の本のタイトルを教えてくれた。
「日本の作家とか言ってたな。確か、オウガイ・モリ」
「オウガイ!! ディ・モールト! 彼女オウガイが好きなのか!」
「なんだお前。日本の作家が好きだったのか」