ベッドサイドを、ゆっくりと歩いてみる。
なんとか歩けたので、手を離してみたが、それでもゆっくりなら歩けた。久しぶりの、床を踏みしめる感触。素足のままの足の裏に、板張りの床の感触が冷たく響く。
部屋の外に出てみても、なにもなかった。ひとはおらず、機械もおらず、ただ家は静かだった。
リツカは居間の椅子に座り、テーブルの木目をなぞる。自分が知るよりも、テーブルはさらに使い込まれていた。その感触がわかった。
「……いま、いつ?」
何年経ったのかもわからない。リツカはようやく軋まなくなってきた喉で、言葉ではない音を鳴らした。
台所の、井戸につながった装置から水を汲み、カロリーになるものを探す。なんでもいいからと探したが、それこそ買い置きの飴玉くらいしか出てこなかった。仕方がないので飴玉をまた噛み砕く。味が違ってよかった。
それも八割がた食べ尽くし、ようやくまともに動くようになったあたりで息を吸い込む。
「ゲーティア!いる?」
ばたん!とすさまじい音がした。
駆けることも面倒になったらしい。足音もなく空を翔けて、蹄持つ獣のすがたをしたものがやってくる。ガゼルに似た姿に、樹木のようなツノ。使い魔のゲーティアだ。
「リツカ!!!!」
宙にあった脚がたたらを踏んだ。
「おはよう、ゲーティア。いまはいつ?わたしはどうして起きてるの?……ソロモンは、どこ?」
「質問が多い!」
ゲーティアは叫んだが、ぶるぶると頭を振って、それから。
膝をついた。それは恭順に似た、リツカが正面からは初めてみる、それだった。ソロモンに対してゲーティアがそうするところを、彼女は何度も見てきたけれど、自分に対してするところを、リツカは初めて見た。リツカが絶句するにはあまりある仕草だった。
「無事の帰還、心よりお喜び申し上げる」
おそらく、彼なりの万感がこもるそれを、リツカは聞いて。
ゆっくりと『呼吸』をして、それに答えた。
「……ありがとう。戻ってこられて、わたしも嬉しい」
それは嘘ではなかった。あの日、置いていくことを悲しんだのは、ひとつも嘘ではない。終わる覚悟をしていたのに、また目覚めが来たというのは、不思議でおかしな感覚でもあるけれども。
「ゲーティア。質問が多くてごめん、でもひとつずつでいいから答えてほしい」
「……貴様が眠りに落ちてからは、三百年以上が経っている。今の暦は私も知らない」
「…………」
早いとも、遅いとも。リツカは言わなかった。ただ目を細めて、それを聞いた。
「お前が起きたのは、王の差配だ。王が技術者を連れてきて、お前の修理をさせた。けれど、それでは起動に至らなかった。もう三年以上前の話になる」
「この補助パーツがつけられたのはそのとき、ってことか。それで自己修復が進んで、こうなったと……なるほど、この時代にはいい技術者さんがいるんだね」
「あれが当代最高だろう」
「とんでもない人を捕まえたもんだね」
リツカは苦笑した。どこから捕まえてきたのやら。
「それで、最後の質問の答えは?」
「王はここにはいない。ここから西の遠方にて戦準備だ」
「…………はい?」
リツカは瞬いた。戦準備。どうしてそんなことを?
「なんで?もうあの国はないでしょうに」
ゲーティアはかるく首をかしげた。ガゼルの顔だけ見ればいっそ愛らしいほどだが、残念ながらその瞳がすべてを裏切る。
「貴様が王に教えたのだろう。願われ、それに応えることを」
「……教えられたとは思ってないよ。請われれば叶える、それは願われたから応えることとは、すこし違うでしょう?」
「……そうか。貴様は知らないのだったな」
「なにが?」
ゲーティアは感慨深げに言ったが、リツカは首をかしげるだけ。まあいい、とゲーティアはまた頭を振った。
「王の元へ行け。王はこれから戦だ、貴様ならば援護もできるだろう。私はここの守りを任されているから、ここを離れることができないが、お前は違う。……王はもう壊れかけだ、戦などに行けば、また無為に人を救ってどんどん傷んでいく。だから急げ、急いでくれ。王を、……王を、助けてくれ」
ゲーティアの声は慚愧のようなそれであった。
彼は使い魔であり、魔術機械とは根本から違うもの。彼では、ソロモンを直すことはできなかったのだ。
「わかった。燃料と魔力はある?」
「燃料は乾パンがある。魔力は私のものを限界まで持っていけ、もとは王の魔力だ、使えるだろう」
「……いいの?あなただってここを守ってるんでしょう」
「だが王が戻らねばなんの意味もない」
ゲーティアは言い切った。ふわりと床にあった戸が開き、その下から乾パンの缶、チョコレート缶、それから固形レーションのパッケージが出てくる。
「わ、なにこれ?!」
「食料だ。開けてやる」
ゲーティアはこともなげに言って、魔力ひとつでそれをすべて開けてやった。
出てきたそれを、リツカはしゃくしゃくと消費していく。食べなれないなどと言いながら、彼女はそれをしっかりと腹に収めた。
最後に、ゲーティアのツノに手をかざし、魔力を吸い上げていく。
もとはソロモンのそれとはいえ、ゲーティアに与えられたあとで変質しないわけではない。多少難儀したが、リツカは本当に限界まで吸い取った。
「……容赦のない」
「けど、ソロモンのところまで行けないほうがまずいでしょう?」
「ああ。お前しか行けない。そして、お前ならば王の居場所もわかるだろう」
「わかるよ。いまはぼんやり、ああ遠いんだな、ってことと、方角くらいしかわからないけど……近づけばもっと鮮明になる」
ゲーティアはすこし微笑んだようだった。リツカは目を丸くする。
「行くがいい。時間はあまり残っていないぞ」
「……ありがとう、着替えて行ってくる!」
ばたばたと、寝間着の貫頭衣を脱ぎ捨てて、適当なワンピースに袖を通す。硬めの靴先のブーツを履いて、リツカは地を蹴って空を翔けた。
陸路を行く時間があるとは、ゲーティアも言わなかったし、それを止めることもなかった。
飛べば飛ぶほどわかることがある。昔と、魔力の規模が違う。なにかで相当使い込んだのか、それとも別の要素か。
わからないが、急ぐしかない。リツカはただただ空を急いだ。
そうして、空を一直線に駆け抜けた果てで。
見慣れない人影を見た。その人はたった一人で。とんでもない術式を、それこそその状態で使えば自爆としか言えない術式を組もうとしていて───否、幻影を解いて、見慣れた銀髪を広げた人だった。
「っ、せいやああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
ためらいなく光弾を紡いだ。まだいける。この程度の敵は指先ひとつで仕留められる。
それが、魔力さえあれば、極致にある術式で戦える、『暁の星』の真価だった。それはいまも、変わりなく、翳りなく。
そしてリツカは知っている。その魔力が、自分が唯一適合する、その魔力の持ち主が、世界にたった一機しかないこと。ひとりしか、いないこと。どんな容姿であろうとも、そのひとはたったひとり。
おおいなる予言の君。マスター・ソロモン。荒野に坐す、無欠の沈丁花。
だから、ただ叫んだ。
そんなことをしないで。そんなことはしなくていい。あなたの敵は、わたしが打ち倒すから。
どうか、死なないで。
「ソロモン!!!!」
あなたのそばにいさせて。
わたしは、そのために作られたから。その道をわたしが選んだのだから。
ずっとそうしてきたように、またあなたの隣にいたい。
─────再び、深い眠りにつくまでは。
見開いた金の瞳が、いつよりも感情で濡れていた。
おしまい!!!!!!!!!!!!!!!!!