そこに行こうと言いだしたのは、孫娘だった。地名すら記憶の底に封じ込めていたのだが、たまたまテレビで放送されていたのを見たらしい。娘夫婦はもちろん、妻でさえそこに私がいたことを知らないものだから、すぐさま予定が決まってしまった。反対することはできなかった。そんなことをすればきっと、理由を聞かれる。話すわけにはいかなかった。この平和な暮らしを享受している彼女らに話せる覚悟は、まだない。半世紀以上経ってもこの状態から抜け出せない。だからこれはもう、墓まで持っていくべきなのだろう。
 休みのたびに雑誌をめくっては何を食べようか、どこへ行こうかと顔を突き合わせている。その顔のどれもがきらきらと希望にあふれていて、とても楽しそうだ。そんな光景を見せられては、成り行きに任せるしかない。
 一度だけ、行かないとはっきり言ってみたことがある。すると孫娘の眉の間がぎゅっと縮まった。今にも泣きそうだった。大きな瞳に涙が溜まりきる前に、私は急いで撤回せざるを得なかった。彼女には笑っていてほしいのだ。私のつまらないわがままで笑顔が消えるなんてことがあってはならない。あとできることといったら、計画が無事に果たされるのを待つだけだった。
 大型連休の初日。快晴。同じく旅に出る人々にもまれながら、列車に乗り込んだ。彼女たちは荷物と期待を抱え、めいっぱいおめかしをしている。普段は庭仕事で土に汚れている妻も、今日は特別綺麗に見えた。女たちの会話は尽きない。婿は早々にいびきをかき始め、私も窓越しの陽気にうとうとと舟を漕いだ。
 しかし、とある瞬間眠気が散った。やはり体は覚えているものだ。移りゆく景色に当時の面影はまったくないというのに、心が叫んでいる。私は確かにここを通った。列車なんてものはなく、自らの足で。遠ざかろうと必死だった場所に、だんだんと近づいている。足の指先がしびれ、手が震え始めた。行きたくない。あそこに戻れば殺されてしまうぞと過去の自分が警鐘を鳴らす。列車の喧騒が、耳の奥から響く悲鳴と怒号にかき消される。
「……なた、あなた!」
 妻の声が聞こえて、はっと我に返った。
「ちょっと、大丈夫? 具合でも悪いの?」
 ぎゅっと握りしめた手のひらには冷や汗が溜まっている。額に手を当てられ、自分の体が熱を持っていることに気づいた。娘も心配顔でこちらを見つめている。だいじょうぶ? と孫娘からは舌っ足らずな言葉がかけられた。
「……少し、酔っただけだ」
「そう? じゃあ風にあたったほうがいいかもね」震えている手をさすりつつ、妻は娘に顔を向けた。「窓、開けてくれる?」
「わかった。もう、照くんたら肝心なとき役に立たないんだから」
 婿の足をまたぎ、よいしょと窓を押し上げる。春の、爽やかな風が車内に舞い込んだ。すると。
「あ! おはなだ!」
 孫娘が身を乗り出して叫ぶ。私は目を瞠った。小さな指が指した先には、一面の菜の花畑が広がっていたのだ。花たちは、あの荒野を黄色いじゅうたんに染め上げていた。
 私の頭の中に、仲間たちの、敵の、生きては死んでいった姿が駆け巡る。地獄、であった。あれは、生きている人間の見るものではない。土煙と、動かない体と。死に包まれていた。その影は、跡形もなかった。
 ただ、日の光をいっぱいに浴びている黄色が青空の下を埋め尽くしている。
 不意に何かがこみあげてきて、この胸が、心が、満たされていくような感覚を覚えた。
「えっ? ちょっと、どうしたの急に!」
「おじいちゃん、なんでないてるの?」
 騒ぎ立てる妻を横目に、首をかしげている孫娘を胸に抱き、窓の高さまで上げてやる。わあ、という歓喜の声。新しい未来の産声だ。
 ああ、あの死の国がこんなにも美しく生まれ変わっている。花畑はまるで墓標のように、かつての戦場を包んでいた。
『次は終点、……です。次は……』
「あっ次で降りなきゃ。照くん起きて! 着いたよ!」
「……ん、あー?」
「ほら寝ぼけてないで!」
 車掌のアナウンスに、娘があわてて婿を起こす。ぼんやりとしている彼を揺さぶり、荷物を下ろすように言っている。
「あなた、みやちゃんの体が冷えちゃうでしょ。ほら、窓閉めて」
「ああ」
「わたしあそこでおしゃしんとる!」
「はいはい。忘れ物はない?」
「……ないよ。大丈夫だ」
 すっかりいつもの調子に戻った家族を振り向き、私は列車の窓を閉めた。
 
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春の創作ワンライ最終回を書きます
初公開日: 2020年04月02日
最終更新日: 2020年04月02日
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