2086年。
 日本は、枯れていた。
 いつもどおりに通路が騒がしくなるのを聞いて、アキラは「拝水」の時間が近いことに気づいた。
 家とも言えない、コンクリートの床を粗末なプラスチックの板で仕切っただけの空間から足を踏み出す。
 乾ききったコンクリートで四方を囲まれた地下空間は、普段は分厚い壁に阻まれており人の気配はあまり感じられない。正確な人数など誰も知らないが、そもそもこの周辺で暮らしている人間の数自体がそれほど多くはない。地下世界全体でも、どれだけの日本人が生き残っているか。
 しかし、「拝水」の時間だけは、どこにこれだけの人数が住んでいたのかと不思議になるくらいの人数が続々と集まってくる。その列の中から漏れ聞こえる苦しげに咳き込む声に、アキラは顔をしかめた。
 通路――信じられないことに昔は水路だったらしい――を進んでいく列の中に、アキラも同じように混じって歩いていく。
 列が向かうのは「神像」のもとだ。
 誰かそれを作ったのか、アキラは知らない。生まれたときには「神像」はすでにあった。この集落の大人たちの多くも同じだろう。「神像」、そして「拝水」の儀式は、彼らにとっては当たり前のものだった。
 「神像」のもとへと粛々と歩みを進めている人々の姿は、神に祈りを捧げるために列をなす信者たちのようだ。
 いや、実際に彼らは神に祈りを捧げるために列をなしている信者だ。神に名はなく、その教えにもまた名はない。信者を教え導く教祖もいない。そもそもこの宗教に――「これ」を宗教と呼ぶならばだが――名前はないのだ。
 「神像」が安置されているのは、集落のもっとも広いエリアだ。均等にコンクリートの柱が配された空間を見上げると、上には闇がわだかまるばかり。各所に設置された投光器の光も、その空間すべてを照らし出すには至らない。
 すでにたくさんの人々が「拝水」の儀式のために集まっているが、それでもこの空間の3分の1も満たしてはいない。来年にはこの数は、もっと少なくなっているだろう。
 「アキラ、おはよう」
 その群衆の中から声がかかった。
 この地下世界では、昼と夜の区別がほとんど失われている。会ったときの挨拶が「おはよう」、別れるときの挨拶が「おやすみ」だ。
 声をかけてきたのはキョウコだった。アキラの家から通路を三本ほど隔てたところに住んでいる少女。
「おはよう、キョウコ。……体の調子は大丈夫か?」
「そんなに心配しないでよ。まだそんなにひどくないんだから」
 そう言いながら、キョウコは小さく咳き込んだ。アキラは、その小さな咳と、キョウコがこぼした「まだ」という言葉が胸に突き刺さるのを感じて歪んだ表情を隠すために、目を逸らした。
 周りに集まった群衆のあちこちからも、小さく、あるいは激しく咳き込む声が聞こえる。――母が死んだときも、同じように咳をしていた。最後の言葉よりも、苦しげに咳き込む声のほうが耳に残っている。
 誰もが、ここではそうなのだ。
 環境のせいか、栄養が足りないせいか、あるいは他に原因があるのか。誰もがこうして、喉や肺をやられて、咳き込みながら弱り、やがて死んでいく。
「――キョウコ、俺が必ず、お前を、みんなを、助けてやるからな」
 その自分の言葉に空々しさを感じるくらいには、アキラは成長していた。こんな言葉、気休めにもならない。それでも、キョウコは笑ってくれた。
「うん、頼りにしてるよ、アキラ」
 群衆は徐々に列をなし、アキラとキョウコはその中に混じった。列は少しずつ進んでいき、やがて投光機の光に浮かび上がる「神像」の姿が見えてきた。
 「神像」は、壁面に設えられた巨大な顔面だ。誰がいつ作ったのか走らないが、その文字通り巌の如き[[rb:顔 > かんばせ]]は、千年も一万年もこの地下世界に暮らす人々を見守り続けているように見える。
 そしてその暮らしを見つめ続けるこの物言わぬ神は、人々の苦しい生に涙を流している。その涙こそが、この地下世界で生活する人々の生活を支えているのだ。
 顔面の両目に当たる部分からは、この地下世界で暮らす人々がなによりも求めているものが流れ出していた。
 水、である。
 誰が作ったともしれないこの神像の瞳から流れる水は、慢性的な水資源不足に悩まされるこの地下世界の大きな糧となった。それが信仰となるのに時間はかからなかっただろう。アキラが物心つく頃にはすでに「神像」を中心とした信仰は完成されており、「神像」から流れ出る水は「拝水」と呼ばれ、人々の生活と同時に信心をも集めていた。この地下世界に水をもたらしてくれる「神像」は、人々の生活の中心であり、そして決して安全で幸福な暮らしができているとは言えない人々の、心の拠り所ともなっていた。
 「神像」の両側に並んだ大人たちから金属製の器を受け取り、流れ出る水を汲み取る。汲み取りながらアキラは、「神像」の物言わぬ顔を見上げた。投光機の光が作り出す陰影は、深い悲しみの表情にも、静かな微笑みの表情にも見える。しかし――神は沈黙したままだ。神は、何も話さない。
 その代わりに、列の後ろの方で怒声が上がった。にわかに騒ぎが大きくなり、アキラは反射的にキョウコを背中にかばう。
「ダメじゃ! その水を飲んではならん!」
 見ると、人だかりの向こうには一人の老人が意味不明なことを喚き散らしていた。
「な、なんだあれ? 何を言ってるんだ?」
「あ、あたし、前に見たことあるよ……」
 アキラの背中で身を竦ませながら、キョウコがぽつりともらす。
「前にもいたんだ、水を飲むな、その水が俺たちを殺しているんだって、大声で怒鳴ってた人たち……」
「水を飲むなだって? ばかな……」
 水を飲むなということは、死ねと言っているのと同じことだ。あらゆる資源が不足しているこの地下世界でもっとも必要とされている資源である水を飲むなというなら、どうやって行きていけというのか?
「死んだお父さんからも聞いたことがあるよ。昔からああいうことをいう人たちが時々現れたんだって……」
「昔からああいうのがいるのか……病気でおかしくなっちまったのかな……」
 なおも声を張り上げながら数人がかりで引きずられていく老人を見送りながら、アキラは不安にかられた。確かに、ここでの暮らしは健康が保証されているとはいえない。もしかしたら自分も、何かの病気にかかってあんなふうに正気を失ってしまうかもしれない。
 腹の底が冷えるような不安にかられ、アキラはすがるように「神像」を見上げた。
 神は、何も答えない。
 数日後の「拝水」の時間。
 いつものように人々は「神像」の前に列をなし、物言わぬ神に感謝の言葉を捧げながら水を汲んでいた。アキラとキョウコもまた同じように列に並び、水を汲み、別れて自分の家に向かう。
 その途中の曲がり角の暗がりから、何かが聞こえた。人の声だ。
「な、なんだ……?」
 その曲がり角は自分の家とは逆の方向で、今まで足を踏み入れたことがない通路だった。この地下世界は無数に入り組んだ通路と階層で構成されており、日常生活で行き慣れない通路に足を踏み込めばそのまま帰ってこられなくなる。そのため彼らの生活ルートはほぼ固定されており、順路を外れることはそのまま死に直結することすらある。
 しかし、アキラは好奇心に引かれるように、おそるおそる曲がり角の向こうを覗き込んだ。
カット
Latest / 47:19
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
紅楼夢表紙お礼SSを書いていきます。
初公開日: 2026年01月18日
最終更新日: 2026年01月18日
ブックマーク
スキ!
コメント
紅楼夢表紙お礼SSを書いていきます。
最新話書く
いきてきたる本編書いてる
いかもん
穹ヴェル前提の虚ヴェ(寝取られ
💫と結婚してて人妻の👓おじちゃんがなんかよくわからん理由で🟨に手を出されて寝取られる話
fz