オタクには「名前も内容も知ってるけど実際に見たことはない作品」が山ほどあります。それが映画、さらにはスクリーンでとなれば見られる機会は限定的、作品によっては絶望的なもの。
というわけで今回見てきたのは、まさかスクリーンで見ることになるとは思わなかったこの作品!
押井作品は劇パトや攻殻機動隊などはしばしば再上映されていますが、よもや本作をこの令和の世にスクリーンで見る機会が巡ってこようとは見抜けなかった、この海のリハクの目を持ってしても。
本作を知ったのははるか昔、いまだ天地の境曖なりし頃に親戚の家に置いてたアニ◯ージュがきっかけでした。なので内容は知ってて、立派にダメなオタクになってからはたくさんのクリエイターに影響を与えてきた作品だということも知りました。しかし、作品を実際に見たことは今日までなかったんですよね。
実は本作、以前サンサン劇場で押井作品のリバイバル上映をやってたときにTwitter(頑なにXとは呼ばない)にて「言うだけはタダなので言うけどビューティフル・ドリーマー上映してくれないかな」とツイートしたところ「ちょっと難しいです」との返信を頂いたのでまあ難しかろうなあと思ってましたが、以前サンサン劇場に「攻殻機動隊 4Kリマスター」を見に行ったときに壁に本作のポスターが掲示してあった時は人目も憚らず思わずガッツポーズをキメていました。ありがとうサンサン劇場。讃えよサンサン劇場。崇めよサンサン劇場。
そして待合室にはどっから持ってきたのか当時のポスターが!
こういうの見ると一気に「あの時」に引きずり込まれてしまいます。マクー空間かな?
文化祭を明日に控え、準備に追われる友引高校の面々。しかし、夜食を買いに行った終太郎は、友引町から出られないという異常に気づきます。一方、体調を崩して自宅に帰った温泉マークに間違って強力下剤を渡してしまったことに気づいた保険医のサクラは、温泉マークの自宅がまるで何十年も放置されたかのようにカビだらけになっていることに気づきます。
温泉マークはサクラに「文化祭の前日」が繰り返されていると訴えます。その仮説を裏付けるように、電車は次の駅にはたどり着かず友引町に戻ってきて、帰宅しようとした面々も結局友引高校に戻ってきてしまいます。
最終手段として終太郎は町内に隠してあったハリアーにて上空への脱出を試みますが、彼らが目にしたのは巨大な亀の石像の背に乗った、町ごとまるまるくり抜かれた友引町だった――!
この世界の正体は? そしてこの異常事態を引き起こしたのは誰なのか?
いやーーーーー面白かった! まさに80年代のSF! まさにセンス・オブ・ワンダーといった感じの作品でした。
いきなりラストカットの話なんですが、本作のタイトル登場のタイミングとその演出があまりにも最高だった。
わたくし人形使いの「タイトル登場のタイミングとその演出が最高にかっこいい作品」は「最強殺し屋伝説国岡」だったんですが、本作はそれをしのぐ文句なしの殿堂入りとなりました。あの、一連の事件がすべて終わったあと、事件の直接的な犯人であった夢を作る妖怪・夢邪鬼がしれっと文化祭の準備に勤しむ面々に紛れ込んでいて、そして看板にかけられていた覆いを外すとその下から満を持して「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」のタイトルが現れる――今思ったんですが、これは「これまでの事件は『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』というお話でした(なのでこの段階でも「この世界」はまだ夢の中かも……?)」というメタフィクション的な演出でもあったのかも。
また、本作は前述の「攻殻機動隊」と合わせて押井守監督の代表作とされることが多いですが、なんかもう上映開始直後からおなじみの友引町のそこかしこから押井臭が漂って来はじめて笑ってしまいました。「友引前史」のあたりとかもう3分の2くらい劇パトだったしな……。
「友引前史」のみならず、千葉さん演じるメガネ……というかもはやメガネというキャラに扮した千葉さんのキャラがあまりにも強烈すぎる。久しぶりに見たけど完全に本人だしなこれ……。
こないだ「攻殻機動隊」を見てきたせいか、本作における「夢と現実にそれほど明確な差はない」「夢の中にいる者が夢の中にいることを自覚することは困難」というくだりはどうしても清掃員のアレを思い出してしまいます。「攻殻」では植え付けられた夢=疑似記憶からは逃れられず、しかし現実は、そしてそのよすがとなる自我は不安定なまま、というのに対して、本作は夢の都合の良さも現実の不安定さも笑い飛ばすだけの活力を感じました。押井作品はあんまり活力とかそういう方向のポジティブを感じないシニカルかつペシミズム的な作風なんですが、本作はもとがスラップスティックコメディである「うる星やつら」だからか、全体的に大きな活力を感じました……が、そう考えるとあのラストシーンが余計にネガティブなものに思えてきた……。
本作ではこの不安定な夢の世界を、夢邪鬼は浦島太郎の話に喩えて、「浦島太郎だけでなく村人全員が亀を助けて龍宮城に行ったとしたら?」と語ります。この奇妙な例え話からの、巨大な亀の背に乗った友引町の姿。このへんはもう一種のワイドスクリーン・バロックですよね。
本作は一見「同じ1日を繰り返す」というループもののように思えますが、実際には「ごく限定された環境に閉じ込められる」という脱出ものの側面が強いように思えます。そして、その状況が、「衣食住が保証されたサバイバル」という言葉に象徴されるように危急のもの「ではない」というのがまた面白い。
本作の黒幕は夢を作る能力を持った妖怪である夢邪鬼でしたが、その夢の主は実はラムだったというオチも、そこから脱出する理由付けも本当によかった。
ラムは別につらい現実からの逃避とかではなくて純粋にこの友引町での生活が永遠に続くことを望んでいたし、夢邪鬼も夢邪鬼で今まで見せてきた人間の夢が邪悪なものになってしまったことをに疲れ、純粋に幸福を追求したラムの夢を永遠のものにしようとしていたというわけで、この一連の事件のどこにも悪意は介在してないんですよね。そしてそもそもこの夢の世界を壊さなくてはいけない理由もないはず。
しかしあたるはこの夢の世界からの脱出を試みます。その理由は「自分が好きな女の子からは、好きだからこそ自由でいたいから」。自他境界線ですよね。
こうした「理想的な夢の世界に閉じ込められる」というシチュエーションはさまざまな作品で用いられます。そしてそこからの脱出手段、ひいてはそもそもそこが夢の世界に過ぎないことに気づく理由、きっかけもまたさまざま。これはやや強引な解釈かもしれませんが、本作における「夢の世界からの脱出者たる条件」は、ユング言うところの集合的無意識である夢の中にあってなお自他境界線を保ち続けることだったのかもしれません。
こうして感想を書いていると、やはり本作はループものというよりも脱出ものだった気がします。それも、「文化祭の前日」という形をした「いつかは必ず過ぎ去る青春の日々」からの脱出。あるいは、青春の日々がいつかは過ぎ去ってしまうことを受け入れて、その日へと一歩近づく明日を迎えるための物語だったのかも。