秋が去って冬の気配が強まる。強く吹き付ける北風は指先から徐々に体温を奪っていった。ヒースクリフがある噂を聞いたのはそんな日のことだった。
――賢者を殺すと世界の全てが思い通りになるんだってさ。
街でそんな言葉を聞いた。思わずヒースクリフが足を止めて振り向けば、二人の男が楽しげに言葉を交わしながら歩いているのが見える。その背中からは敵意や害意などは感じられない。あくまで、世間話をしているだけに過ぎない。そんな雰囲気の彼らにヒースクリフは困惑した。
もしかして聞き間違い?それとも何か勘違いした?そうヒースクリフが迷っているうちに男たちは人混みに紛れて見失ってしまう。心の中に残った違和感を抱えながら、ヒースクリフもまた足を進めた。
このことは誰かに言うべきなのだろうか。けれど聞いたのはあの一瞬の言葉だけ。どうしよう。ヒースクリフは慎重に考えた。
(念のために言っておいた方がいいのかも……。なら、誰に? やっぱりファウスト先生かな)
ヒースクリフは店の商品を吟味しているふりをしながら冷静に考え込む。そんな彼の隣に一人の男が並び立った。
薄汚れたローブを身に纏って、どこかほんのり異臭がする。ずっと何か独り言を言っているようで、男の口元はずっと動いたままだった。
ちょっと怖いかも。ヒースクリフは不自然にならない程度に男から離れようとして、ふと動きを止めた。
男の独り言はほとんど聞き取れない。けれども、微かに聞こえてくる単語にヒースクリフは眉を寄せた。
(……賢者?)
男は賢者といった。それと同時に先ほど聞こえてきた変な噂を思い出す。
聞き間違いかもと思っていたあの言葉がもし仮に本当だったらどうする? 市場で世間話のように話されるほど広まっていたとしたら? 変なことを考える人が出てきてもおかしくはないだろう。
ヒースクリフはそのまま男の隣で耳を澄ませた。神経を集中させて、彼は目を丸くした。
(この男、魔法使いだ)
集中しないと気がつかないぐらい魔力が薄い。元から魔力の弱い魔法使いなのか、それとも魔力を隠すことに長けた魔法使いなのか。そこまではわからなかったが、ヒースクリフは緊張した。
(……事故、に見せかける?)
聞こえてきた単語にヒースクリフは呼吸を忘れる。賢者、事故に見せかける。そんな言葉から嫌な予感がした。ヒースクリフは気が付かれないように男を見る。フードの影からその口角が嫌に吊り上がっていることに気がついて、ゾッと背筋を凍らせた。
先ほどの街中で見かけた二人組からは感じなかった感情。害意。まずい、とヒースクリフの頭は警告をうるさいぐらいに出した。
(止めないと。でも相手は魔法使いだし、向こうが俺に気がついているのかもわからない。実力が読めない。俺一人で何とかできるかがわからない。下手に動くと逃げられるかも)
咄嗟に頭をフル回転させる。せめてもう一人、誰か居てくれたら。誰かに伝えることができたなら、と思うが残念ながらヒースクリフは一人で出掛けていた。もし誰かと一緒に出掛けていたなら戻ってこないヒースクリフを心配して誰か来てくれるかもしれなかったのに。
だが今更そんなことを考えても仕方がない。一人で何とかしないと。そう考えたヒースクリフの視界の片隅に、魔法使いが過ぎった。
店の外。多くの人が行き交うその流れに逆らうようにして歩いている北の魔法使い。瞬間、その左右で色の異なる瞳と目が合って、ヒースクリフはゆっくりとその場を動いた。
チラリとローブの男を確認する。男がヒースクリフを気にかけるような素振りはなく、このままなら逃げられるようなこともないだろう。ヒースクリフは店を出て、オーエンのコートの裾を握った。怪訝な顔をする彼に、ヒースクリフは小声で話しかける。
「少し手伝ってほしいことがあるんだけど」
「急に何。嫌だよ」
オーエンの言葉は想定内だった。ここで素直に頷いてくれるようなやつでないことは、同じ賢者の魔法使いとしてよく知っている。
「オーエンが満足できるまで生クリームを作る」
「いいよ。で、お前は何に巻き込まれたの?」
あっさり掌を返したオーエンを引っ張って、ヒースクリフは店内の男を指さした。その指先を追って、彼は眉を寄せた。
「少し、耳を貸して」
やっぱりいいよ、なんて言わなきゃよかったかも。そう考えながらもオーエンは頷いた。
「え、何ですかそれ」
魔法舎の談話室。ファウストやシャイロックに呼び出された賢者は、ヒースクリフからの報告を聞いて目を丸くした。
「ひとまず今日のところはヒースとオーエンが何とかしてくれたみたいだが、噂が広がっている以上同じことを企む連中が現れるかもしれない。今後、一人になるのはやめた方がいいだろう」
「もし出かける予定がある時は誰かしら声をかけてくださいね」
そんなシャイロックの言葉に晶は頷く。
ヒースクリフの聞いた噂に、危害を加える計画を実際に立てていた魔法使い。知らない人に敵意や害意を向けられているかもしれない。言いようの知れない恐怖に襲われて、晶は体を震わせた。
「でも、あの時のヒースクリフは見ものだったよ。聞きたい?」
巨大なボールを抱えたオーエンは妖しく目を細めた。口元についた生クリームを舐めてから、挑発的に晶を見つめると同時にヒースクリフが慌てたように立ち上がる。
「あの男と対峙した時のヒースクリフ。まるでゴミでも見るような目をしながら淡々と男を詰めていてすごかったなぁ。こいつ、意外と北の魔法使いも似合うんじゃない?」
「オーエン!」
わざとらしく笑う彼に、ヒースクリフが声を荒げる。けれどもそれ以上何も言えなくて、ファウストがため息をついた。
「ヒースは東の魔法使いだ。あまり変なことは言わないでくれ」
「ファウスト先生に怒られちゃった。あの時のヒースクリフを見ても同じことが言えるのかな」
オーエンは面白そうにヒースクリフを見やる。彼が困ったようにオロオロしているのを満足げに眺めたあと、オーエンは煙のように消えた。
持っていたボールごと消えた。ネロから借りた物なのに、ちゃんと返してくれるかな。そんな、現実逃避をしながらそっとヒースクリフは晶から視線を逸らした。