――なら、どうする? わたしに何ができる?
確かに、この誰にも顧みられず狭い檻の中に閉じ込められた少年の命を握っているのはわたしだ。けれど、じゃあわたしにこうやってわずかなパンとスープを与える以外のことができるというのだろうか。
小さい頃に一度だけ読んだ絵本の記憶が、ちょうど今手元にあるカンテラの光のように思い出された。高い塔の中に閉じ込められたお姫様を、勇敢な王子様が助ける物語。
絵本の中の王子様のように、わたしはこの少年を連れて逃げることが……できるのだろうか。この屋敷の中しか知らないわたしに。少年と同じように、この屋敷という檻に閉じ込められているわたしに。
どこからか吹き込んできた夜風に、ランタンの小さな灯りが吹き消された。不意に訪れた闇が、わたしの両肩に明らかに重い。
無力感が押し寄せてきた。わたしの存在なんて、このランタンの灯りと同じ。ほんの少しの風で吹き消されてしまう程度のものでしかないのだと、部屋を満たした重い闇が囁いてくるようだ。
体が小刻みに震え始めた。寒さからではない震え。
そんなわたしの手に、触れるものがあった。少年の手だった。
少年は何も言わない。言葉を発しない。けれど少年は、わたしの手に触れてくれた。それは、この屋敷の中の誰もしてくれないことだった。お父様さえ、してくれなかったことだった。
自分の手さえ見えない暗闇の中で、少年の手のぬくもりだけがはっきりとわかった。ごわごわした体毛、太い鉤爪……明らかに、普通の人間のものではない手。けれど、その手ははっきりと暖かかった。
顔をあげると、暗闇の中にぼんやりと緑がかった光がふたつ、浮かび上がっている。
少年の瞳だった。
吸い込まれそうな、不思議な瞳。カンテラの灯りに比べても小さなもののはずなのに、その光はわたしの周りにわだかまる闇をすべて振り払ってくれそうだった。
手探りで彼が入れられた檻の格子を探し当て、錆で手が汚れるのにも関わらず重い檻に自分の体を力いっぱい引き寄せる。格子の隙間から無理やり顔を突っ込むように、少年の顔に自分の顔を近づける。
「必ず……必ずここから出してあげるから!」
彼が言葉を理解できているかは未だにわからないし、彼も何も言葉を話さない。彼がわたしの言葉を聞いてどんな顔をしているのかさえ、この暗闇の中ではわからなかった。
けれどわたしの胸の中には、彼をここから連れ出して自由にするという使命がはっきりと焼き付けられた。
誰に決められたことでもない、この世で自分だけが決めたこと。
どうすればいいのかはわからない。できるかどうかもわからない。
でも……必ずここから彼を連れ出す。そう決めたのだ。
そしてわたしは、そうせざるを得なくなった。
その話を耳にしたのはまったくの偶然だった。屋敷の使用人たちが話しているのを立ち聞きしたのだ。お父様がこれまでのコレクションのほとんどを手放し、あるいは処分するという。その話を聞いたときに、わたしは真っ昼間でこれからダンスのレッスンがあるにも関わらず礼拝堂に走っていった。もう聖母像の視線も気にはならなかった。わたしが求めているのはあの、暗闇で光っていた緑がかった瞳だけだ。
地下道は、深夜と違って薄暗いもののランタンはいらない。それに、もう何回も通って少年の入った檻のある部屋はわかっている。体中をホコリだらけにしながら、わたしは少年のいる部屋の扉を開いた。
――いない。
大小さまざまなサイズの檻が、乱雑に組み上げられた墓標のように見える。そして、そこにある檻はすべて空だった。めまいをこらえ、わたしは檻に両手をかける。
積み上げられた檻の影にいるんじゃないか。窓のあたりに隠れているんじゃないか。わたしは両手が錆で汚れるのも構わず、空の檻をつかんでは引きずり下ろし、つかんでは放り投げた。
けれど、うめき声を上げる存在はそこにはいなかった。がらん、とことさら空虚な音を立てて、ここに誰も居ないことをわざわざ強調するかのように転がった。
そして、わたしの頭の中も空っぽの檻のようにがらんがらんと音を立てていた。少年がどこに行ったのか、いつの間にここから運び出されたのか、行きているのか、それとも死んでいるのか。そうしたことを考えることすら、できなかった。