江南蘇州の雅な夜景は、古来から天下の文人達に愛されてきた。
薛秀は友人の唐文青と共に、橋の上からその光景を眺め回していた。田舎出身の薛秀は、蘇州の美しさを人づてにしか本や書画の中でしか知らなかった。
明月のもと、灯りを点した楼閣は鮮やかな輝きを放ち、画舫は音も無く水路を行き交う。水気を含んだ風が心地よく肌を撫でていった。遠くに浮かぶ山々は薄く霧がかかり、あたかも名人の描く水墨画のよう。
「本当にいい場所だ」
薛秀がそう言うと、文青も頷いた。
「そうだな」
若き二人は田舎から上京して科挙の試験を終えたばかりだった。薛秀は親からは寄り道せず帰ってくるよう厳命されている。けれども、文青はせっかく都会まで来て楽しまないのはもったいないと言い張った。そこで断り切れず、友の誘いにのって夜の蘇州を観光することにしたのだ。
「そろそろ宿に帰ろう。明日の朝早くには発たないと」
風景を存分に楽しんだ薛秀が、そう促した。文青は口元を曲げて言った。
「まだ一回りしただけじゃないか」
「もう一刻(二時間)は過ぎたよ」
「ちぇっ、楽しいことはあっという間だよな。試験の時は答案がいつまで経っても出来上がらなくて気が遠くなりそうだったのに」
三年に一度開かれる科挙受験は、朝廷が天下の逸材を求めるため古くから用いてきた制度であり、民にとっては立身出世の王道だった。しかし、その道のりは長く険しい。何十万、何百万という受験生の中で、試験に及第して官僚になれるのはほんのひと握りだけ。したがって競争も苛烈なものになる。受験生の殆どは幼い頃から四書五経をはじめとする経典を暗誦出来るよう読み込み、血が滲むほど筆を握って文章を書く訓練に励む。薛秀や文青も例外ではない。
そして学業には大変な金がかかる。薛秀の父は紙問屋で、家は決して裕福ではなかった。商売柄、お客に文人や本屋が多く、学問で出世することの重要さを理解していた。世間では、役人を輩出した家は三代に渡って食べていけるという。だから貧乏ながらに金を捻出して、息子が勉強出来るようにした。薛秀は六歳になると、地元で有名な家塾に入った。自分以外の子供は、皆それなりに裕福な家の出身で、そのために彼は肩身の狭い思いを味わった。筆は毛が抜けても同じものを使い続けなければいけなかったし、本も多くは買ってもらえず、何より身なりにお金を回す余裕が無かった。家塾の生徒には、そんな薛秀の貧しさを笑う者もいた。幸い、そうして味わった悔しさは、勉学に励むばねとなった。薛秀は誰よりも熱心に学び、いつしか家塾での成績は一番になっていた。文青と出会ったのもこの塾だった。彼は他の子供と違って、薛秀を差別することはしなかった。純粋に薛秀の勉強熱心なところをだけを見てくれる。薛秀も文青を尊敬していた。村一番の富豪の家に生まれながら、それに傲ることもない。容姿も優れ、勉強だけでなく武術や遊びなど何でも出来た。彼はずっと薛秀の憧れだった。
かくして学業に励むこと十年以上、十八歳になった二人は地元での予備試験を突破し、さらに上の本試験のため南京までやってきた。大勢の受験者と共に豚小屋のような狭い個室へ放り込まれ、一晩かけて答案を作成する。それはとてつもなく過酷な時間だった……。
文青が苦々しげに続ける。
「試験中、俺のいた部屋から離れたところで、すげえ臭いが漂ってきてさ。答案を書き上げる時間が惜しくて、椅子に座ったままクソを垂れたらしい。試験管が出てきて、すぐクソを始末しろと命じたんだけど、そいつは『回答が書き上がってない!』って抗議してさ。ま、逆らっていいことはないよな。その場で失格になって、連れ出されていったよ」
薛秀は苦笑した。
「僕だって気が変になりそうだったさ。緊張でずっと手の震えが止まらなくて。頑張って抑えたかと思うと、また始まるんだ。一度、うっかり墨の入った硯をひっくり返しそうになったし。解答用紙がずぶ濡れにならなくて本当によかったよ」
「もうよそうぜ。こんな話は」
「じゃあ、そろそろ宿に帰って休もう」
「帰るのか? もうちょっと楽しもうぜ。ほら、あっちはまだまわってないだろ」
文青が顎をしゃくって、別の通りを示す。薛秀は仕方なくついていった。
深夜にも関わらず、蘇州の街は灯りがあちこち点って、人の数も昼並みに多い。薛秀の故郷では考えられない光景だ。ここのの人達は、夜も眠らないんだろうか?
文青はずんずんと街の奥へ進んでいく。そのうち、薛秀は通りの雰囲気が何だか変わってきたのに気がついた。空気の中に、花のような芳香が混じっている。
「ねえ、そこの先生方」
あでやかな声に呼びかけられて、二人は振り向いた。薛秀はぎょっとした。分厚い化粧をした五十くらいの女が、不自然なほどまぶしい笑みを浮かべて立っている。もっちりした肌からはきつい香が漂い、目に悪い派手な柄の着物、指先につまんだ手巾をひらひらさせるあだっぽい仕草……。薛秀は十八年の人生でこんなけばけばしい女を見たことがない。驚きのあまり、どう対応したものかわからずかたまってしまった。
文青がいち早く反応した。
「俺達を呼んだんですか?」
女がにこにこ顔で頷く。
「ええ、そうよ。少しうちの店に寄っていかない? あなた達、試験の帰りなんでしょ。これまでの疲れを癒やしていきなさいな」
その背後には、派手な装飾をした三階建ての楼閣がそびえていた。中からはしきりに女の歌や嬌声が響き、あちこちに飾られた灯籠が怪しい輝きを放っている。薛秀もおぼろげに、ここが遊郭なのだとわかった。
文青がにやりと笑みを浮かべた。
「行こうぜ、秀。どうせ蘇州へは滅多にこれないんだ。これまでの苦労を思えば、少し遊んだってばちは当たらないさ」
薛秀は赤くなった。
――遊郭って、確か女の子と遊べる店だっけ? でも、遊ぶって具体的にはどうするんだろう? 僕みたいな貧乏で勉強しかやってこなかったつまらない人間でも、相手にしてくれるのかな。
彼も年頃だから、女子への興味は多分にある。あるけれど、勉強漬けの毎日でそれどころではなかった。だから男女の楽しみについても、ぼんやり頭をめぐらせて空想するのがせいぜいだった。
薛秀は及び腰になった。
「駄目だよ。両親に知られたらきっと怒られる。それに、僕はお金が……」
「ちょっとだけだって。ばれやしないさ。お金のことなら、俺が誘うんだから心配いらないよ」
強引に薛秀の腕を掴み、店へ引っ張り入れようとする。女の笑みがますます広まった。
「決まりね。さあ、こちらへどうぞ」
広間に通された途端、薛秀は自分の目を疑った。まるでお金持ちの豪邸のようにきらびやかな内装が広がっている。幾つか並ぶ円卓では、酔っ払った男達が美しい妓女と戯れていた。薛秀は真っ赤になった。
「小杏、いらっしゃい」
女が手巾を振って呼びかけると、若い娘が奥間から駆けてきた。まだ十三歳くらいだろう。髪を結い、化粧もしているが、女に比べると随分身なりが簡素だった。女と同じなのは、これまたえにこにこと笑みを絶やさないところだった。
「いらっしゃいませ、お客様」
小杏がぺこりと頭を下げる。緊張していた薛秀は、この子が妓女なのか、と思わず一礼で応じた。と、文青が肘打ちをして、小声でたしなめた。
「バカだな、こいつは下女だぜ」
やり取りを見て、小杏がぷっと吹き出す。薛秀は恥ずかしさで爆発しそうだった。女が素知らぬ体で、下女に命じる。
「小杏、こちらの若様方をお部屋へ案内してあげて」
「はい。どちらのお姉さんのところへご案内しますか?」
「空いているところでいいわよ。そうね、惜夕ちゃんのお部屋にしなさい」
女はそう言い捨てると、また表での客寄せに戻っていく。小杏の案内で、薛秀と文青は店の奥に進んだ。薛秀は何だか足下がおぼつかなかった。
「こちらです。中でお待ちください。今、姉さんは化粧を直しているので、呼んできますから」
部屋の中に入った途端、薛秀はまたしても驚いた。古書の陳列された棚に、壁からつるされた山水画、年代物の机には、高級な筆と翡翠の硯が置かれている。大広間はけばけばしかったのに、ここは壁も床も落ち着いた色合いだ。これのどこが妓女の部屋なのだろう。まるで教養豊かな文人の部屋ではないか。呆気にとられる薛秀の横で、文青が可笑しそうに笑った。
「こいつは凄いな。一体どんな子が出てくるんだろう」
薛秀は落ち着かなかった。親の命令を破ったことにも気が咎めていたし、初めて経験する廓遊びには緊張するし、しかも通された部屋はおよそ妓女らしくない。
けれど、そんな不安な気持ちも部屋に入ってきた妓女の顔を見た途端、どこかへ吹っ飛んでしまった。蘇州の素晴らしい景色ですら、この娘の前では色褪せ、価値を失った。
世の中にはこんな女性がいたのか。柳の腰、三日月の眉、丹花の唇、古来から女性の美を表現した言葉は幾つもある。けれども、この妓女の素晴らしさを説明するのには、彼がこれまで読んだあらゆる本の表現を使ってもまだ足りないように感じられた。
妓女は二人の前に来ると、しなやかな動作で腰を折った。
「秦惜夕と申します」
鈴みたいに美しい声。薛秀は挨拶を返そうとしたものの、唾が喉に詰まってしまい、声が出てこなかった。文青が答えてくれた。
「どうも。唐文青と申します。こっちは同郷の友人で、薛秀といいます」
右足がぎゅっと痛んだ。文青に踏みつけられたのだ。薛秀はようやく我に返った。
「も、申し遅れました。薛秀といいます」
秦惜夕がにっこりと頷く。
「ようこそおいでくださいました。お二人とも、南方のお方ですね? 訛りがあるようですけれど」
「江西の田舎生まれです」
「まぁ、そうでしたの。では、うちの店にあった染付けの磁器をご覧になりまして? 江西の景徳鎮で買った名品ですのよ」
彼女の話し方には、まるで再会した旧友を相手にするような親しみがこもっている。薛秀は自然と緊張がほぐれていくのを感じた。文青の方など、すっかりくつろいでいる様子だ。笑いながら話しかけた。
「そういえば、このお部屋は書物や画が沢山ありますね。とても驚きました」
「ええ。どれも私の趣味で買い込んだんです。あちらの水墨画は洛陽の古物商から、机の文房具は江南でも有名な収集家の富豪から……。でも、一番お金がかかったのは本棚に挿してある棋譜かしら。古人の名局を記したもので、百両近くもしたんですの」
「へえ、それは凄い!」
文青おと秦惜夕が仲良く会話しているのを見て、薛秀も焦った。自分も何か話さなくては。幸い、書画の話題ならついていける。壁に掛かっていた「夏夜追涼」の詩の清書がふと目に留まる。これだ。
「そ、そちらの詩の清書も素晴らしい筆遣いですね。どちらで買われたのですか?」
「あたくしが書いたんですの」
「えっ、あなたが?」
にこやかだった妓女の表情が一変し、口元が真一文字になる。ややあって、淡々と言った。
「筆も握れない妓女が、この蘇州で商売出来ると思いまして?」
「い、いやあの……」
口ごもる薛秀を睨んでいた秦惜夕は、口元を袖で隠し、くすっと笑いを漏らした。
「わかっておりますわ。田舎のご出身ですし、こういう店にご縁も無かったのでしょう。でも、気をつけてくださいな。蘇州の妓女は気位の高い方が多いんです。不用意に口を滑らせますと、楼の窓から突き落とされましてよ」
「は、はい。気をつけます」
薛秀はペコペコ頭を下げた。彼の故郷では、女子が学問をしたり、書画や文房具を買い漁るなどということはありえなかった。これが都の女性なのか。
秦惜夕は小さく手を振った。
「やめてくださいな。お客様に頭をさげていただいたんじゃたまりません。せっかくいらっしゃったのですから、存分に楽しんでいただきませんと。とににかく、おかけになって」
二人は言われるままに腰を下ろした。そこへ、先程の下女が酒と料理を運んでくる。薛秀が初めて見るものばかりだ。
秦惜夕は、部屋の隅にかけてあった琵琶を手に取った。
「座興がてらに、一曲歌わせていただきましょう」
しなやかな手つきで、びわを奏で始める。そこに鈴声の歌が加わる。薛秀は酒を飲み、ものを食べるどころではなかった。ぼうっと秦惜夕を見つめ、曲に聴き入っていた。
それからの時間は、生涯でも最も幸せな瞬間だったかもしれない。歌が終わると、秦惜夕は科挙試験について二人に尋ねた。女性と学問の話をするのは初めてだ。しかも、難しい文章や、過去の詩人の話題になっても、秦惜夕は淀みなく応じてくれる。彼女の教養の深さに、薛秀はひたすら驚いた。
ふと喉が渇いて、薛秀は皿に盛ってあった苺のような果実を一つ手に取った。かじってみると、苦いうえに硬くて食べられない。秦惜夕が目敏く気づいて、くすりと笑った。
「茘枝は初めてですか? こうするんですのよ」
薛秀の手から果実をつまむと、爪先で赤い皮をはがしていく。中から白い実が姿を見せた。彼女はにっこりしながら、それを薛秀の口元へ運んだ。彼は緊張で背をぴんと伸ばしながら、口の中へ受け入れた。噛んでみると、ぷつりと実が弾けて、甘い果汁が広がる。
初めて食べた味に、薛秀は感嘆した。一方で、歯がゆい思いがした。こんな美しい子と遊べるのに、自分ときたら身なりは悪いし、話も挙動もぎこちない。一方の文青は慣れたもので、惜夕をからかって笑いを引き出したりしている。薛秀は、自分が分不相応な場所にいることを意識せずにいられなかった。
あっという間に、夜が明けた。
「また、いらしてくださいな」
惜夕の言葉に、文青は落胆を露わにして答えた。
「そうしたいけれど、江西から出てくるのは楽じゃないからね。まあ、今回の試験に受かれば都で最終試験があるから、途中で立ち寄れるかもしれない。落ちたら……ここへ来るのは、三年後、次に試験を受けにくる時だろうな」
「いつまでもお待ちしていますわ」秦惜夕は腕輪と簪を外した。「お二人に差し上げます」
文青が先に手を伸ばし、簪を取ったので、薛秀は腕輪を選んだ。銀で出来ているのかずしりと重い。物凄く高価なのだろうな、と思った。
名残惜しい気持ちで、二人は部屋を出た。
帰り際、表にいた女が帳面を差し出してきた。薛秀は目玉が飛び出しそうになった。見たこともない金額が記されている。父が一年、いや三年働いてようやく支払えるような額だ。廓遊びというのは、こんなに金のかかる娯楽だったのか。一気に心が冷たい現実へ引き戻され、汗が背中から滲み出てきた。幸い、隣にいた文青が銀を出し、支払いを済ませてくれた。
二人はそそくさと蘇州を出た。
「ごめん。僕の分までお金を出してくれて。何年かかるかわからないけど、必ず返すよ」
「え……あぁ。気にするなよ」
文青の返事がぼんやりしたものだったので、金持ちの彼でもさすがに廓遊びの出費が痛かったのだろうと思い込んだ。
確かに素晴らしい時間だったけれど、所詮一時の娯楽なのだ。父の忠告を無視したことを、薛秀は今更になって後悔した。
忘れよう。もう同じ失敗はすまい。秦惜夕の美しい笑顔、香り、歌声、薛秀は心の中に刻み込まれているそれを、無理矢理振り払った。
薛秀と唐分青が実家に帰ってほどなく、合格の発表日になった。薛家の一同は親戚も含めて、唐家の大きな屋敷に招待された。一緒に試験の結果を待とうというのだ。受かっても落ちても、苦労をいたわるべく宴席の準備が整っている。唐家も親戚や友人含め、数十人が広間に顔を揃えていた。
薛秀も両親も、唐家を訪問するのは初めてだった。村一番の金持ちである唐家は、複数の土地を持つ地主であり、一族が色んな商売でもうけを出している。上座に案内された薛家の三人は、丁寧なもてなしと、豪華な料理を前にして、とにかく落ち着かなかった。
「旦那様! 大変でございます!」
唐家の使用人が、広間へ駆け込んできた。声が静まり返り、人々は一斉に使用人へ顔を向けた。
「及第でございます! 薛家のぼっちゃんが、及第されました!」
誰もが雷を浴びたような表情だった。直後、歓声が爆発した。壁が揺れ、屋根瓦が滑り落ちるほどの騒ぎになった。殆ど狂ったような喜びぶりだ。薛秀の祖父は、卓に何度も頭を叩きつけて、これが夢でないことを確認していたし、叔父の一人は薛秀の前に跪いて「お役人様! おめでとうございます!」と拝む始末だった。
唐家の人達も我がことのように祝福してくれた。近所の人々も知らせを聞きつけてやってきた。
薛秀は夢見心地だった。人の顔が次から次へと押し寄せてきて彼にお祝いを述べる。対応に追われながら、じわじわと喜びが胸に広がっていくのを感じた。本当に及第したのだ。小さい頃からの学業の苦労が、とうとう報われた。これで貧乏から抜け出せる。両親達に楽をさせてやれる。
最後に、文青が現れた。
「やったな、秀!」
「ありがとう」薛秀は答えて……ようやく彼が合格出来なかったことに思い至った。何と声をかけたものか迷った矢先、文青が笑顔で肩を叩いた。
「俺も次の試験で絶対受かってみせるからな。君はその間に出世して、俺のためにいい席を用意しておいてくれよ」
薛秀はほっとして答えた。
「うん。もちろんだよ」
その後、彼は北京での最終試験・殿試――合格者達の順位づけのために行われる試験で、基本的に不合格者が出ない――にも受かり、晴れて役人になった。
三年が過ぎた。薛秀は都で一年勤務した後、県知事として揚州に赴任し、二年間真面目に働いた。それからまた別地方へ赴任するよう命令が出た。役人が一つの場所に長く居着くと、地元の商人や地主と癒着して不正を働く原因になりやすいのだ。薛秀のもとにも、時々賄賂を持ち込む怪しい輩が来たこともあった。しかし、彼はあくまで清廉な役人として職務をまっとうした。
赴任前、薛秀はしばしの休暇を与えられて故郷に帰った。すると思いがけないことが待ち構えていた。両親が縁談を組んでいたのだ。相手は地元の富豪・郭家の令嬢だった。名を金芳という。歳は薛秀の四つ下で十七歳。令嬢といっても、田舎のことだから都の華やかな娘に比べるとたかが知れている。郭金芳の容姿は平凡で、化粧も身なりもあまり洗練されていない。商家の娘だから多少は字を知っているが、文章はまったく書けなかった。書画や音曲、遊びにも疎い。この数年、田舎を離れていた薛秀は女子を見る目も多少肥えていたから、金芳の格が低く見えてしまうのも仕方なかった。
薛秀の感じた不満はそれに留まらなかった。長らく故郷を離れていたせいか、田舎のみすぼらしさや、人々の教養の乏しさが嫌でも目につくのだ。都の人間は、みんな身なりに気を遣い、言葉も上品で礼儀を心得ている。ところが田舎ときたらどうだ。風呂にはなかなか入らないし、服に穴が空いても気にせず、唾を飛ばしながら下品な言葉を口にする。話題も合わなかった。都や赴任先の揚州では、いつも同僚の文人達と政治や芸術について、酒を片手に楽しく語りあったものだ。田舎の話題といえば、誰と誰が喧嘩しただのといった、近所のしょうもない事件のことばかり。話していてもまるで面白くない。
もっとも、薛秀が故郷への見方が変えたのと同じように、人々の薛秀を見る目もまるきり変わっていた。以前、彼のことを貧乏だと笑い物にしていた家塾の生徒達は、今や役人になった薛秀に仕返しされると思っているのか、顔を合わせるのも避けるようにしていた。また、薛家の親戚達は、自分が偉くなったわけでもないのに「役人の身内だから」という理由で、村の中で幅を利かせていた。叔父の一人は薛秀が帰郷するなり、賭場の借金がたまっているので肩代わりしてくれと泣きついてきた。また、会ったこともない遠縁の従兄が突然訪ねてきて、商売でもめ事を抱えているから力を貸して欲しいと、賄賂つきで頼んできた。薛秀はどれも突っぱねた。一度助けの手を出すと、この類の輩は骨をしゃぶり尽くすまで離さないのだと、役所の裁判絡みの仕事でよく理解していた。両親とて変化がなかったわけではない。表向きは謙遜しつつも、息子をいかに立派に教育したか、自分にどれほど先見の明があったか、周囲へ吹聴している。薛秀はいい加減うんざりだった。
両親の家で食べた料理も、舌が受けつけなくなっていた。酸っぱい漬物に作り置きの肉、味の無い吸い物。我慢出来なくて、彼はよく唐家に出入りした。そこなら都会料理に慣れた薛秀でも満足出来るものが出てきたからだ。けれども、一番会いたい人はいなかった。唐文青は今度の科挙試験に備えて一ヶ月前から蘇州に泊まり、勉強に励んでいるという。文青にだったら、このさびれた田舎への不満を思う存分ぶちまけることが出来ただろうに。薛秀は赴任前に、南京に寄って必ず文青に会おうと決心した。
数日後、郭金芳との結婚式が行われた。改めてその容姿を目にして、薛秀はやはり好きそうになれないと感じた。その晩、彼は義務的に初夜をすませた。しかし、金芳を抱きながらも頭の中に浮かんでいたのは、三年前蘇州で会った秦惜夕のことだった。
南京の景色は三年前と変わりなかった。薛秀は故郷にいるよりずっと落ち着きを感じた。唐家でもらった消息を頼りに、色街近くの宿屋を訪れると、果たして唐文青はそこにいた。髭を短く切り揃え、都会風の洒落た身なりをしている。
「秀か。よく来たな。親父にきいたのか?」
薛秀は頷いた。
「久しぶりだね。元気そうで良かった」
「まあな」文青は顎をしゃくった。「入れよ」
二人は卓を挟んで座った。薛秀は、別れていた三年間のことを話した。文青は親身になって聞いてくれた。
「つまらない連中のことなんか気にするなよ。役人になったからって、君は君だ。俺にとっちゃ変わりやしないさ」
薛秀は胸が温かくなった。
「ありがとう。そういえば、もうすぐ試験の日だったね。一ヶ月も前から南京近くに逗留しているなんて、随分やる気じゃないか」
「ああ。ま、勉強ももちろんだが、つき合いの関係もあるんでね。ここには三年前からよく顔を出すようにしてるのさ」
「つき合いって?」
「蘇州の彼女を覚えてるか」
薛秀はどどきりとした。
「秦……惜夕?」
「そうだ。この三年間、よく彼女のところへ遊びに通ってた」
「本当に? 君の厳しい親父殿が、よく許したね」
「ちょいと知恵を働かせたのさ。蘇州に学友がいるから、そいつと勉強すれば受験の励みになるってね。俺が惜夕の詩や画を親父に見せたら、あっさり信用してくれたよ。優れた学才のある人間とつき合うのはいいことだってね。それで月に一度くらいはこっちに顔を出してた」
「もし惜夕が妓女だとばれたら、大目玉を食らうぞ」
「ばれやしないよ。それより、今日はせっかく会えたんだ。一緒に惜夕の店に行かないか?」
これはまたとない申し出だった。帰郷での鬱憤や、望まぬ結婚への不満を解消するのには、文青と遊びに出かけるのが一番だと思った。
「いいね。行くよ」
惜夕の店に来るのは三年ぶりだ。表門には、昔と同じくあのけばけばしい女が立っていた。文青の姿を見かけると、しなをつくって声をかけた。
「あら、唐さん。大事な試験前なのに遊びにいらしたの?」
「ちょっとだけな。惜夕はいるかい」
「さっき前の客が帰ったところよ。あら、そちらは……?」
文青の後ろに従っていた薛秀を、訝しげに見る。文青はにやりとした。
「俺の友達だよ。素性を知ったら、あんた腰を抜かすぜ」
「あら、そうなの。よくぞいらっしゃいました。楽しんでいってくださいね」
女は文青の言葉を話半分の様子で受け流しつつも、薛秀へ丁寧に一礼した。まあ、覚えていなくても無理は無い。三年前にたった一度来ただけだし、今の彼は堂々たる役人、身なりも以前より立派になっている。
二人は下女の案内で奥部屋に入った。中では、秦惜夕がちょうど鏡の前で髪をすいているところだった。
「やあ、惜夕。遊びに来たぜ」
惜夕が手を止め、振り向いた。
「ま、試験前なのに、不真面目な方ね」
口元に淡い笑みが浮かぶ。薛秀は胸が高鳴った。相変わらず美しい。薛秀は、この三年に会ってきた色んな女性と秦惜夕を頭の中で比べてみた。単なる美しさでいえば、確かに惜夕を上回る者もいたが、それでも彼女が一番だと思った。忘れがたいあの三年前の夜の思い出が、そう感じさせるのかもしれない。
「あら……」
視線が薛秀に注がれる。文青が悪戯っぽく笑った。
「こいつ、誰だと思う?」
「ええと……待ってちょうだい……。そう、薛様ね! 三年前、文青様と一緒に遊び来てくれたでしょう」
薛秀は胸が高鳴るのを感じた。覚えていてくれたのだ。文青の紹介を待たずに、自分から進み出た。
「そうです。薛秀です。姉さんが今もこの廓にいると聞いたので、今日は挨拶にうかがいました」
「文青様から聞いてますわ。無事試験に及第して、役人になられたって。さあ、おかけくださいな。今日は存分に楽しんでいってくださいね」
言いながら、小さな柔らかい手で薛秀の腕をとり、椅子に座らせる。すぐに下女を呼んで酒と料理を用意させると、自ら薛秀の隣に腰かけて、杯を勧めた。
文青がからかい気味に言った。
「ちぇ、常連を差し置いて新参に優しくするのかよ」
「あなたは大事な試験の前でしょう。お酒を控えなくちゃ。さ、薛様。お友達は気にせず、あたくしとお付き合いくださいね」
薛秀は満足げに頷いた。もうかつての初心な若者ではない。役所の宴会や接待は遊郭で行われることも多かったから、この三年で薛秀はこういう場所の楽しみ方もそれなりに心得ていた。美女を肴に、酒をゆったりと味わう。ふと、秦惜夕が訊ねた。
「薛様は、どちらにお勤めですの?」
「うん。都で一年働いた後、揚州で二年県知事をしたんだ。次はまた地方へ移動さ」
「蘇州からは遠いんですの?」
訊ねる度に、少しずつ身を寄せてくる。
「まだはっきりと決まっていないんだ。近い方が、僕も嬉しいけどね」
「近かったら、毎日遊びにいらっしゃいます? そうしてくれたら、あたくし、嬉しいですわ」
甘い声と共に、笑みを振りまく。髪からは得も言われぬ香りが漂った。
やれやれ。こんな風に迫られたら、殆どの男はたまらないだろうな。三年前に誘惑されたら、自分はとても耐えられなかっただろう。
文青が大袈裟に顔をしかめた。
「おい、二人だけでお楽しみか? 惜夕、今日は俺のおかげで彼を連れてこれたんだぜ。いつまでも放っておかないで、少しはこっちの相手もしてくれよ」
江南蘇州の夜景は実に美しかった。唐文青は友人の薛秀と一緒に、橋の上からその光景を眺めていた。
薛秀が感嘆の呟きを漏らした。
「本当にいい場所だ」
「そうだな」
文青も頷いたが、薛秀とは少し感嘆の意味が違っていた。彼が見ていたのは景色ではなかった。お目当てはもっと別の場所にあったのだ。
若き二人は、田舎から上京して科挙の試験を終えたばかりだった。堅物な薛秀は「寄り道せず帰るよう、親に命じられたから」と試験が終わるなり支度を始めた。文青はそれを押しとどめ「せっかく都会に来たんだから少しくらい遊んでいくべきだ」と力説した。何とか説得も成功し、こうして夜の蘇州へ連れ出したのだった。
街は赤い灯籠が竜のごとく連なり、殆ど昼と変わらない明るさだ。人の数も多い。
薛秀は表通りを回ると、満足したように言った。
「そろそろ宿に帰ろう。明日の朝早くには発たないと」
文青はまだ戻るわけにはいかなかった。本来の目的地は街の奥、もっと裏通りの方にあるのだ。
「まだ一回りしただけじゃないか」
「もう一刻は過ぎたよ」
「ちぇっ、楽しいことはあっという間だよな。試験の時は答案がいつまで経っても出来上がらなくて気が遠くなりそうだったのに」彼は足を進めつつ、時間稼ぎのために話し続けた。「試験中、俺のいた部屋から離れたところで、すげえ臭いが漂ってきてさ。答案を書き上げる時間が惜しくて、椅子に座ったままクソを垂れたらしい。試験管が出てきて、すぐクソを始末しろと命じたんだけど、そいつは『回答が書き上がってない!』って抗議してさ。ま、逆らっていいことはないよな。その場で失格になって、連れ出されていったよ」
薛秀は文青の意図には気づかず、一緒についてきた。
「僕だって気が変になりそうだったさ。緊張でずっと手の震えが止まらなくて。頑張って抑えたかと思うと、また始まるんだ。一度、うっかり墨の入った硯をひっくり返しそうになったし。解答用紙がずぶ濡れにならなくて本当によかったよ」
三年に一度開かれる科挙受験は、朝廷が天下の逸材を求めるため古くから用いてきた制度であり、民にとっては立身出世の王道だった。しかし、その道のりは長く険しい。何十万、何百万という受験生の中で、試験に及第して官僚になれるのはほんのひと握りだけ。したがって競争も苛烈なものになる。受験生の殆どは幼い頃から四書五経をはじめとする経典を暗誦出来るよう読み込み、血が滲むほど筆を握って文章を書く訓練に励む。薛秀や文青も例外ではない。
文青は故郷でも神童として誉れ高かった。村一番の富豪の家に生まれ、幼い頃から学問・武術・芸術に遊びとあらゆる分野に通じ、どんな子供達にも負けなかった。人より優れすぎているというのも、時としては酷なもので、彼はいつも退屈していた。同年代の友達とは、何をやっても簡単に勝ててしまうからつまらない。
そんな彼の前に現れたのが薛秀だった。村の同じ家塾に通う生徒で、貧しい家の出身にも関わらず、彼の学才は文青にひけを取らなかった。薛秀が塾の課題で一番の成績をおさめた時、文青は悔しさよりも喜びを感じた。自分と対等な学力を持った存在がいたことに。以来、二人は親交を結んだ。互いに切磋琢磨し、学問に励むこと十年、十八歳になった二人は地元での予備試験を突破し、さらに上の本試験のため南京までやってきた。大勢の受験者と共に豚小屋のような狭い個室へ放り込まれ、一晩かけて答案を作成する。さすがの文青も根をあげそうになるほど過酷な時間だった。
自ら科挙の話題を持ちだしたにも関わらず、文青は話していて嫌な気分になってきた。
「もうよそうぜ。こんな話は」
「じゃあ、そろそろ宿に帰って休もう」
薛秀がすかさず提案する。気がつくと、大分街の奥まで来ていた。文青はにやっと笑った。今更引き返すなんて出来るものか。
「帰るのか? もうちょっと楽しもうぜ。ほら、あっちはまだまわってないだろ」
彼は顎をしゃくって、別の通りを示した。
そこに、お目当ての店がある。薛秀の返事を待たずに、文青は歩き出した。
表通りとは、雰囲気が変わっていた。洒落た石像の置かれた門、まろやかな香、女達の嬌声……。そう、ここは色街だった。蘇州の妓女といえばその道をたしなむ者の間では有名だ。文青は、家に出入りする旅商人からよくその噂を聞いていた。天女のような女達が、歌や酒でたっぷり楽しませてくれるのだと。とりわけ、科挙受験を終えた文人達は、その疲れを癒やすべく誰もが遊郭へ足を運ぶ。文青も年頃の男だ。故郷では味わえないお楽しみを、是非ともこの機会に経験しておきたかった。ただ、一人で行くのは少し心許ないから、薛秀を連れてきたのだった。
ふと、艶やかな声に呼びかけられた。
「ねえ、そこの先生方」
振り向くと、派手派手しい着物をまとった女が笑みを浮かべ、指先につまんだ手巾をひらつかせている。歳は五十くらいだろう。とっくに女の春は過ぎている。文青はたじろいだが、すぐに気を取り直した。
「俺達を呼んだんですか?」
年増女がにこにこ顔で頷く。
「ええ、そうよ。少しうちの店に寄っていかない? あなた達、試験の帰りなんでしょ。これまでの疲れを癒やしていきなさいな」
文青は女の背後にある三階建ての楼閣を見やった。外面は悪くない。歩き回って店を選ぶ時間ももったいないし、声をかけてくれたこの店で楽しむのも悪くないと思った。
彼は、隣で硬直している薛秀に言った。
「行こうぜ、秀。どうせ蘇州へは滅多にこれないんだ。これまでの苦労を思えば、少し遊んだってばちは当たらないさ」
「駄目だよ。君の両親に知られたらきっと怒られる。それに、僕はお金が……」
「ちょっとだけだって。ばれやしないさ。お金のことなら、俺が誘ったんだから心配いらないよ」
「決まりね。さあ、こちらへどうぞ」
年増女が手巾を振って案内する。文青は及び腰な薛秀の腕を掴み、中へ引き入れた。
大広間に通された。内装や家具は大したものだった。あちこちの円卓で、客の男と妓女が戯れている。
年増女が店の奥に声を飛ばした。
「小杏、いらっしゃい」
十三歳くらいの娘が、文青達のところへ駆けてきた。簡素な身なりからして、恐らく下女だろう。けれど、低い身分とは思えないほど可愛らしい容姿だ。田舎ならお嬢様といっても通るかもしれない。文青は、自宅で雇っている下女達の顔を思い浮かべてみた。どれも目の前の娘には遠く及ばない。
「いらっしゃいませ、お客様」
小杏がぺこりと頭を下げる。薛秀が反射的に返礼したので、文青は友を小突いた。
「バカだな、こいつは下女だぜ」
やり取りが聞こえていたらしく、小杏が吹き出す。まったく、薛秀ときたら初心もいいところだ。年増女が命じた。
「小杏、こちらの若様方をお部屋へ案内してあげて」
「はい。どちらのお姉さんのところへご案内しますか?」
「空いているところでいいわよ。そうね、惜夕ちゃんのお部屋にしなさい」
女はそう言い捨てると、また表での客寄せに戻っていく。小杏の案内で、文青と薛秀は店の奥に進んだ。
「こちらです。中でお待ちください。今、姉さんは化粧を直しているので、呼んできますから」
その部屋はおよそ女らしくなかった。古書の陳列された棚に、壁からつるされた山水画、年代物の机には、高級な筆と翡翠の硯が置かれている。見事に文人趣味だらけだ。恐らく、男受けを狙ってのことなのだろうな、と文青は推測した。都会の遊郭、とりわけ南京のような場所は文人の客が多い。だから妓女達も詩や文章を書き、書画や骨董などの芸術に通じているという。身体だけを売り物にする田舎の商売女とは、まったく違うのだ。
「こいつは凄いな。一体どんな子が出てくるんだろう」
文青はいよいよ楽しみになった。彼は遊郭へ雲雨の楽しみばかりを求めに来ているのではない。そんなものは、屋敷にいた頃、気に入った下女を寝床に連れ込んで経験している。
彼はあらゆる意味で自分に相応しい女性を探していた。家柄、容姿、教養、性格……。生憎、田舎には文青の目に叶う娘は見当たらない。両親は、半年ほど前に富豪の郭家の令嬢と縁談を結ぼうとしていた。名を金芳といって、文青とは小さい頃に遊んだ仲で、お互いのこともそれなりに知っている。正直、文青は不満だった。金芳は内気な性格で、教養も無く、何より容姿がよくない。両親が縁談に前向きなのも、単に家柄がいいという理由だけなのだ。
文青は、自分で理想の女性を探し出そうと思った。都会の妓女なら、少なくとも容姿は教養の面では田舎娘よりずっといいだろう。まずは何事も経験だ。
文青の期待は裏切られなかった。入ってきた妓女の顔を目にした途端、部屋中が華やいだ気がした。
歳は十六くらいだろうか。化粧も薄く、着物もどちらかといえば地味だった。簪や腕輪の類は身につけていたが、やはり派手なものは無く、一層地味さを強めている。
しかし、この娘にははなから化粧も豪奢な衣装も必要なかった。持って生まれたままの自然な美しさを備えていた。艶やかな髪、葱のような肌、果実にも似た唇。まるで江南の清水を全身に注ぎ込んで生まれたような娘だった。
妓女は二人の前に来ると、しなやかな動作で腰を折った。
「秦惜夕と申します」
「どうも。唐文青と申します。こっちは同郷の友人で、薛秀といいます」
ところが、隣の薛秀ときたら、完全にかたまっている。文青がその足をさりげなく踏みつけると、友ははっと我を取り戻した。
「も、申し遅れました。薛秀といいます」
秦惜夕がにっこりと頷く。
「ようこそおいでくださいました。お二人とも、南方のお方ですね? 訛りがあるようですけれど」
「江西の田舎生まれです」
「まぁ、そうでしたの。では、うちの店にあった染付けの磁器をご覧になりまして? 江西の景徳鎮で買った名品ですのよ」
これだ。俺はこういうのを求めていたんだ! 文青はすっかり嬉しくなった。
「そういえば、このお部屋は書物や画が沢山ありますね。とても驚きました」
「ええ。どれも私の趣味で買い込んだんです。あちらの水墨画は洛陽の古物商から、机の文房具は江南でも有名な収集家の富豪から……。でも、一番お金がかかったのは本棚に挿してある棋譜かしら。古人の名局を記したもので、百両近くもしたんですの」
「へえ、それは凄い!」
出し抜けに、薛秀が口を挟んできた。
「そ、そちらの詩の清書も素晴らしい筆遣いですね。どちらで買われたのですか?」
「あたくしが書いたんですの」
「えっ、あなたが?」
「筆も握れない妓女が、この蘇州で商売出来ると思いまして?」
にこやかだった惜夕が眉をつり上げ、鋭く切り返す。
文青は内心、舌打ちした。秀、お前ってやつはいくら何でも鈍すぎるぞ。俺まで世間知らずに思われるじゃないか。こんなことなら、事前に都の色街について教えておくんだった。
「い、いやあの……」
おろおろする薛秀を睨んでいた秦惜夕は、口元を袖で隠し、くすっと笑いを漏らした。
「わかっておりますわ。田舎のご出身ですし、こういう店にご縁も無かったのでしょう。でも、気をつけてくださいな。蘇州の妓女は気位の高い方が多いんです。不用意に口を滑らせますと、楼の窓から突き落とされましてよ」
「は、はい。気をつけます」
しきりに頭を下げる薛秀を、秦惜夕は手を振ってあしらった。
「やめてくださいな。お客様に頭をさげていただいたんじゃたまりません。せっかくいらっしゃったのですから、存分に楽しんでいただきませんと。とににかく、おかけになって」
文青は腰を下ろした。先程の下女が酒と料理を運んでくる。酒は恵山の水を使った上物だ。料理も珍しい海鮮がふんだんに使われている。
秦惜夕は、部屋の隅にかけてあった琵琶を手に取った。
「座興がてらに、一曲歌わせていただきましょう」
しなやかな手つきで、びわを奏で始める。
あっという間に、夜が明けた。
「また、いらしてくださいな」
惜夕の言葉に、文青は落胆を露わにして答えた。
「そうしたいけれど、江西から出てくるのは楽じゃないからね。まあ、今回の試験に受かれば都で最終試験があるから、途中で立ち寄れるかもしれない。落ちたら……ここへ来るのは、三年後、次に試験を受けにくる時だろうな」
「いつまでもお待ちしていますわ」秦惜夕は腕輪と簪を外した。「お二人に差し上げます」
文青は簪を取った。彼女の髪の香りが染みついていると思ったのだ。
名残惜しい気持ちで、二人は部屋を出た。
帰り際、表にいた女が帳面を差し出してきた。
二人はそそくさと蘇州を出た。
「ごめん。僕の分までお金を出してくれて。何年かかるかわからないけど、必ず返すよ」
「え……あぁ。気にするなよ」
薛秀と唐分青が実家に帰ってほどなく、合格の発表日になった。薛家の一同は親戚も含めて、唐家の大きな屋敷に招待された。一緒に試験の結果を待とうというのだ。受かっても落ちても、苦労をいたわるべく宴席の準備が整っている。唐家も親戚や友人含め、数十人が広間に顔を揃えていた。
薛秀も両親も、唐家を訪問するのは初めてだった。村一番の金持ちである唐家は、複数の土地を持つ地主であり、一族が色んな商売でもうけを出している。上座に案内された薛家の三人は、丁寧なもてなしと、豪華な料理を前にして、とにかく落ち着かなかった。
「旦那様! 大変でございます!」
唐家の使用人が、広間へ駆け込んできた。声が静まり返り、人々は一斉に使用人へ顔を向けた。
「及第でございます! 薛家のぼっちゃんが、及第されました!」
誰もが雷を浴びたような表情だった。直後、歓声が爆発した。壁が揺れ、屋根瓦が滑り落ちるほどの騒ぎになった。殆ど狂ったような喜びぶりだ。薛秀の祖父は、卓に何度も頭を叩きつけて、これが夢でないことを確認していたし、叔父の一人は薛秀の前に跪いて「お役人様! おめでとうございます!」と拝む始末だった。
唐家の人達も我がことのように祝福してくれた。近所の人々も知らせを聞きつけてやってきた。
薛秀は夢見心地だった。人の顔が次から次へと押し寄せてきて彼にお祝いを述べる。対応に追われながら、じわじわと喜びが胸に広がっていくのを感じた。本当に及第したのだ。小さい頃からの学業の苦労が、とうとう報われた。これで貧乏から抜け出せる。両親達に楽をさせてやれる。
最後に、文青が現れた。
「やったな、秀!」
「ありがとう」薛秀は答えて……ようやく彼が合格出来なかったことに思い至った。何と声をかけたものか迷った矢先、文青が笑顔で肩を叩いた。
「俺も次の試験で絶対受かってみせるからな。君はその間に出世して、俺のためにいい席を用意しておいてくれよ」
薛秀はほっとして答えた。
「うん。もちろんだよ」
その後、彼は北京での最終試験・殿試――合格者達の順位づけのために行われる試験で、基本的に不合格者が出ない――にも受かり、晴れて役人になった。