「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
夜の森の中を駆けるのは、一人の少女と一人の少年。
無惨に引き裂かれた高価そうなワインレッドのドレスを翻しながら走る少女が手を引いているのは、彼女と同じくらいの年格好の少年だ。少年の身につけた粗末な衣服は泥だらけになり、少年の足はその重さにすら耐えられず、もつれ始めている。
それでも少年は、なんとか顎を上げ、差し伸べられた少女の手を取った。少女は満足げにほほえみ、少年と手をつないで再び走り出す。
だが、もう体力は限界が近い。
森の切れ目が見えてきたが、ふたりの両足は自分のものではないかのように言うことを聞かず、交互に踏み出すことすらおぼつかない。
少女は歯噛みしつつも前に進むことを止めない。一歩遅れるごとに、追手は近づいてくるのだ。
「う、うう……!」
少年は疲労と負傷からか、もはやまともに言葉を口にすることすら困難な状態のようだ。
しかし、少女には少年が目で訴えていることが理解できた。
「もう置いていってくれ」、少年はそう言っているのだ。
「できるわけないでしょ、そんなこと……!」
そう返事をしつつも、少女の目尻には涙が浮いている。
今にも倒れそうな少年に肩を貸し、少女は森の向こうを目指す。
肩越しに視線だけを背後に向けると、木々の間にかろうじて城が見えた。今まで少女の世界の全てだったはずの場所が、今はもうあんなに遠く、小さい。
視線を前に向ければ、森の切れ目からは今まで絵でしか見たことのなかった山々が見える。
世界が、広がっている。今まで知らなかった世界が。
そして、ぎゅっと握った少年の手。今まで知らなかった、感じることもなかった手。
この手を守るためにも、この森を抜け出さなくてはならない。
少女は少年の手をとって、森の切れ目を目指す。
彼女の知らない、外の世界を。
城とその庭。それが私の世界のすべてだった。それで十分だった。
城の住人は、城主であるお父様以外、全員が貴族である自分とは異なる存在だった。私とお父様以外の住人を、私は自分と同じ人間だとも思ってはいなかった。
家畜の世話をし、私たちの身の回りの世話をする存在としか、私は認識していなかった。言葉をかわすこともなく、名前も知らない。
私にとってはそれが当たり前で、自分が閉鎖環境で育っていること、そして、この先もここから一歩も出ずに生きていくであろうことにもなんの疑問も抱いてはいなかった。
来る日も来る日も、お父様の決めた通りに、なんの疑問も持たず、お父様の望む理想の娘となるべく本を読み、マナーを学び、淑女として完成することに自分の人生を費やしていた。
そんな私の日常に異物が入り込んできたのは、私の取るに足りない出来心がきっかけだった。
私は物心ついてから、この城の外に出たことはない。この城の中以外で私が知っている場所といえば、お父様の納める領地のことくらい。そこですら、実際に足を踏み入れたことはなく、自室の窓からぼんやりと眺めていただけだった。それでいいと思っていた。なんの疑問も抱かなかった。
そのはずだった。その日までは。
お父様は、どこか遠い国や知らない街から、得体のしれないものを集める趣味があった。それは見たこともない不気味な形の石像だったり、まったく読めない文字で書かれた本であったり、目を背けたくなるようなおぞましい生き物のホルマリン漬けだったりした。
もちろん、わたしはそれが怖くて、そうした品々が集められているお父様の私室には近づかないようにしていた。部屋の扉の前を通るときすら、扉越しに不気味な声が聞こえてきそうで、両手で耳をふさいで足早に通り過ぎることにしていた。
それでも血筋なのか、わたしはお父様の秘密のコレクションに対して、怖いのと同じくらい興味も持っていた。お父様が仕入れてくるさまざまなものは、この城の中の生活しか知らないわたしにとって、唯一目にすることができる外の世界のかけらだったから。
その日、わたしが目にしたのも、そうしたお父様の不気味なコレクションのひとつだった。
城の庭に止められた、大きな荷馬車。その荷台には、覆いを被せられた何かが乗せられていた。下の方からわずかに覗いているのは、鉄格子。荷台にあるのは、檻だった。
その中には、きっとまた目を背けたくなるような怪物がひそんでいるのだろう。それでもわたしは興味が押さえられず、自室のカーテンを少しだけめくり、その隙間から庭の様子を盗み見ていた。
覆いを被せられた檻は荷馬車から降ろされ、台車の上に乗せられて運ばれていく。あの大きさだと、お父様の私室には入らないだろう。どこか別の場所に運ばれるのだ。
と、風に煽られて、檻に被せられた覆いが大きくめくれ上がった。その拍子に、檻の中にいる何者かの姿が、ほんの少しだけ見えた。
一瞬だけしか見えず、覆いの影になっていたせいで、「それ」の姿ははっきりとは見えなかった。けれど「それ」はたしかに人間の形をしていた……ように思えた。
でも、あんな人間がいるものだろうか。
手足は異様に痩せ細り、ねじ曲がり、体に枯れ木をまとっているようにすら見えた。そして、何よりもその目。まぶたがないようにすら見える、ぽっかりと空いたふたつの穴。
その姿が太陽の光に照らされた瞬間、その謎の生き物はすさまじい悲鳴をあげた。顔を近づけていた窓ガラスがびりびり震えるくらいの悲鳴で、わたしは思わず後ろに倒れてしまった。
体を起こし恐る恐る庭の方を伺うと、激しく揺れる檻を、男の人たちが数人がかりで押さえ込み、運んでいくところだった。
まだ高鳴っている胸を押さえながら、わたしの頭の中はさっき見た謎の生きもののことでいっぱいだった。あれはいったい何だったのだろう。あのものすごい悲鳴が、まだ耳の奥に残っているようだ。
その日ベッドに入ってからも、私の頭からはあの謎の生きもののことが離れなかった。
決まった時間以外に自室から出たのは、初めてのことだった。緊張と興奮で、今にも倒れそうだった。しびれて動けなくなりそうな足を賢明に動かし、わたしは部屋を抜け出し、廊下に出た。
お父様は必要なこと以外、話さない。もちろん、私も必要なこと以外お父様と言葉をかわさない……というよりも、自分の言葉はすべてお父様お付きの執事を通してしか伝えたことがなかった。それ以前に、私からお父様になにかを、特に自分の気持ちや疑問を伝えることなんて、めったになかった。
もちろん、あの謎の生きもののことをお父様に直接聞くなんてことはできなかった。お父様は私に、淑女にそんな振る舞いを求めてはいない。
だから、わたしが直接確かめるしかなかった。私にそんなふうに考えさせるほど、あの謎の生き物はわたしの興味を引いたのだ。
あの時、覆いがめくれて檻の中に太陽の光が差し込んだ時のことを思い出す。あのすさまじい悲鳴。あの生き物が光に弱いのは明らかだ。
当然、わたしは自分が住んでいるこの城のすべてを知っているわけではない。だけど、陽の光が差さない場所で、なおかつあの大きさの檻を置いておける場所なんてそういくつもあるわけではない。
わたしはお父様や使用人たちの目を盗んで、毎日少しずつ心当たりのある場所を調べるのが日課になった。
厨房の裏や中庭の物置小屋の影、いろんなところを探し回ることに、わたしはいつしか今まで感じたことのない種類の楽しみを感じるようになっていた。
あの謎の生き物の居場所を探すことは、お父様に命じられたことでもなければ、お父様が求める淑女の姿でもない。わたしが、生まれて初めてわたしがわたしの意思でやり始めたことだ。わたしは生まれて初めて、自分のためだけに行動している。それが、自分にそんな事ができるのだということが、とてもうれしかったのだ。
そして、わたしはついに目的のものを見つけた。日課となっている毎朝の礼拝堂でのお祈りのときだった。
毎日通い慣れているはずの礼拝堂の床に違和感を覚えたのは、ほんの少しの足音の違いだった。
幸い、朝の礼拝堂にはわたししかいない。遠慮なく身をかがめて床を検める。叩いてみると、ついさっき違和感を覚えた床と他の場所とでは明らかに音が違う。
恐る恐る床の隙間に指を差し込むと、わずかに床板が浮いた……落とし戸になっている。
ごくり、と自分の喉が鳴るのがはっきりわかった。ここだ。
さすがに今から調べるわけにはいかない。日が落ちてから来るしかない。
わたしは何度も振り返りながら、礼拝堂を後にした。
カンテラの頼りない光に照らされた礼拝堂への道は、通い慣れているはずなのに、全然知らない道に思えた。
こんな夜中に自室を出ているという罪悪感と興奮が、わたしの一歩一歩を震えさせていた。それでもわたしは礼拝堂にたどり着き、朝のお祈りのときに見つけた落とし戸を慎重に探った。
指先が震える。今にも突然礼拝堂の扉が開き、お父様が現れる、そんな想像が頭から離れない。急がなくては。
――見つけた!
わずかな隙間に指を突っ込み、なんとか落とし戸を開ける。その向こうには、小さなはしごと、そしてカンテラの光では照らしきれないほど広い闇が広がっていた。地下から吹き上がってくる冷たい空気に、わたしは身を震わせた。
でも、自分でも意外なことに、身をかがめてはしごの一段目に足をかけたときには、怖さよりも興奮が上回り始めていた。
わたしの生活は、お父様の求める理想の娘、理想の淑女であるためにあった。そんななか、わたしは初めて、お父様に命じられず、自分の意思でこうしている。そのことに、わたしは不思議な興奮を覚えていたのだ。
慎重にはしごを降りると、土臭くひんやりした空気がわたしを包んだ。カンテラを掲げると、地下の空間は意外にしっかりしているものだった。周囲の壁や天井はしっかりと補強されていて、壁には燭台がかかっている。
ごくりとつばを飲み込み、わたしはその空間の奥へと歩いていった。
礼拝堂の地下にあった空間は意外なほど広く、少し進むと左右にドアが現れた。ノブを回すと、鍵はかかっていない。
汗ばんだ手でドアノブをひねり、ほんの少しだけドアを開ける。わずかな隙間から部屋の中を覗き込むと、そこにはたくさんの絵画や石像らしいものが積まれていた。……お父様のコレクションだ。
きっと、この地下室はお父様の部屋に入り切らない品々の保管場所なのだろう。
それなら、ここに――。
わたしは地下室を少しずつ進みながら、左右に配置された部屋の中を確かめていった。カンテラのぼんやりした光に浮かび上がる不気味な動物の剥製に思わず声を上げそうになりながらも、わたしは目的のものを探すのをやめられなかった。
そして――。
わたしはついに、地下室のいちばん奥の部屋、最後の部屋の前に来た。音を立てないように慎重にドアに耳を当てる。
決して厚くはないドアの向こうからは、かすかに何かが動く気配がする。
ここだ。ここにいる。あの謎の生き物はここにいるのだ。
空気の土臭さも忘れて、わたしは深呼吸した。ぐっと手に力を入れ、ドアノブをひねった。
ドアの軋む音が、不自然に大きく聞こえる。
部屋の中は、他の部屋とは違って、空の檻だけが詰め込まれていた。
その中にひとつだけ、中身のある檻があった。
いつでも逃げ出せるように慎重に距離を取りながら、カンテラをかざす。
檻の中にいるなにかは、いっけんボロ布の山に見えた。しかし、よく見れは布の端からは、あのとき覆いの隙間から見えた、枯れ枝のような足が覗いている。
一瞬死んでいるのかと思ったが、ボロ布に包まれたそれは、かろうじてもぞもぞとうごめいている。
少しずつカンテラの光を近づける。
ボロ布をかぶったその生き物はカンテラの光を感じたのか、弱々しく身を震わせた。
ボロ布の塊の隙間から薄汚れた手らしきものが伸び、私はようやくそれが人間らしいということに気がついた。
ふらふらと伸ばされたそのやせ細った手は、は私が今まで見てきたどんな人間のものとも、それどころか、どんな生き物のものとも違っていた。まるで暖炉にくべる薪のようにガサついて、庭師が切り落とした小枝のように細かった。
そんな漠然とした不満を抱えた私の生活に、その日から、今まで知らなかった異物が割り込んできた。鎖で繋がれた、知らない生き物が。
その日から、私の世界にひとつの「未知」が加わることになった。
どうやら人間らしいその生き物は、檻に入れられて飼われていた。私は今までどおり、お父様の言いつけに従って日々の学習をこなしつつ、暇を見つけてはその生き物の様子を伺うようになっていた。
その生き物の檻は、城の片隅にある物置の中に置かれていた。私が物置の扉を時間をかけて開けると、檻ががたんと大きな音を立てた。
・パート3
ようやく森を抜けたときには、すでに足の感覚がなくなり始めていた。少女にはもはや少年を叱咤する余裕もなく、草の上に倒れ込む。