「なー、近所のガラ悪い兄ちゃんいなくなっちまったって」
「マジぃ? この間いなくなった人って死んじゃったんだろ?」
「ばあちゃん達すげえ騒いでるよ、送り犬が出たって」
「お前ん家のばあちゃんボケてんじゃん」
「ひっでえ」
「なー悠仁、帰ろーぜー」
「おー」
 同級生がわいわい噂話をしているのを聞きながら、ランドセルにリコーダーを差し込む。閉めようとした蓋は皺が付いて不恰好に歪んだ。少し突っ張った蓋の先を引っ張って金具を捻り、肩に背負うために机から下ろす。途端にずしりと重みを感じて、うへえ、と声が出た。
「あ、明日テストじゃん。俺も持って帰ろ」
「おわっほんとじゃん! サンキュー悠仁」
「どいたまー」
 帰宅を誘った本人が踵を返すのを笑いながら待った。まだ昼を少し過ぎたところで、外は随分と明るい。それでもここ最近はずっと、この時間に家に帰ることになっている。放課後のドッジボールをする機会がめっきり減って少し悲しかった。でも、心配そうな大人達の顔を見るとあまり強く文句も言えない。
「よっしゃ帰ろ!」
「二回目じゃん」
「うっせ」
 どうしても仕切りたがる友人を茶化して、肘で小突かれてまた笑い合った。帰宅を促す先生の声が聞こえる。少しでも皆と喋りたくて、のんびり歩きながら下駄箱を目指した。
 最初が誰だったかはもう覚えていない。この小さな町で、一人、また一人とどんどん行方が分からなくなる人が増えていった。暫くして、獣に食い散らかされたような、人の体の一部が見つかった。それが失踪者のものと分かってからは、あっという間に町の人達は外出することを恐れるようになった。
 失踪者は、決まって夕方から夜にかけて行方を眩ませることが警察の捜査で分かった。即座に夜間外出禁止令が出された。警察が見回りをしていて、今では事前に届け出をしていないと、勝手に外に出てはいけないことになっている。以前友人が、お遣いで父親に煙草を買いに行かされて酷い目にあったと言っていた。そもそも子供に煙草買いに行かせるなよ、と満場一致したが。
 学校もそれに合わせて昼までになった。少しでも危険を減らすためだと、給食を食べた後、通学路に立つ先生達に見守られながら帰路につく。当然授業をする時間が減ってしまうから、本来謳歌するはずだった夏休みの日数がどんどん減っているらしい。日を追うごとに、俺達の夏休み返せ、と恨み言が増えていくのは見逃してほしいところだった。
「さようならー」
「はい、さようなら」
 先生を見つけると挨拶してしまうのはもう反射だ。ひらひらと黄色い交通安全の旗を振っている先生を横目に、脚疲れないのかな、なんて思う。全校生徒が帰るまで突っ立ってないといけないの大変だな、と同情した。横断歩道が青になったタイミングで、渡ろうとする友人達に手を振って別れて、自分はそのまま右に曲がった。
「あ、虎杖くん」
 途中、女の先生に声を掛けられた。確か他の学年の国語の先生だ。他の生徒に手を振っていたのに、こちらに気付いて駆けてくる。
「虎杖くん、また病院に行くの? 大丈夫? 帰り送りに行こうか」
「いいよ! 先生、ジカンガイロードーってやつになっちゃうだろ」
「本当だったら授業してる時間なんだから大丈夫だよ。一人は危ないでしょう」
 こうやって先生に声を掛けられるのは初めてではない。小さな町だから、親代わりの祖父が入院していることは皆知っている。本当は家にも人を寄越そうかとまで言われたけど、流石に俺の気が休まらないことと、警察が定期的に見回りに来てくれることを理由に断った。
 うーん、と困って後ろ頭を掻いて、でもやっぱり、俺はお決まりの断り文句を口に出すのだった。
「大丈夫。近所の兄ちゃんが迎えに来てくれるから!」
 
 「病院なんか寄らねえでさっさと帰って宿題しろ」と殴られた頭を摩って、病院の自動ドアをくぐった。病室がある二階から降って出入り口まで来たのにまだじんじんと痛んでいる。明日にはたんこぶになるな、と予想して、冷蔵庫に湿布が仕舞ってあったか思い出す。もしくは氷嚢作るかなと首を回したところで、「お」と声が漏れた。
「よ!」
「……おう」
 真っ黒な男だ。座っていた花壇から腰を上げて、ぱんぱんと尻を叩いている。光の加減で模様が浮き出る上等そうな着物で花壇にいつも座っているものだから、「高そうなのになあ」と思わざるを得なかった。
 初めて会ったのは、学校が昼で終わるようになってすぐの頃だったと思う。ここよりも少し俺の家の方に行った道の途中で、迷子の子供みたいに蹲ってたのが彼だった。具合が悪いのかと思って話しかけても、心あらずと言った感じだろうか、どこを見ているのか分からない目をしてずっと黙っていた。しょうがないから人を呼ぼうと病院に戻ろうとすると、男は突然立ち上がって付いてきた。意識あったんか、と驚いた。あっちに病院あるから、具合悪いならそこで診てもらえ、って伝えて帰ろうとしたら、何故か男は病院に背を向けて俺に付いてきた。んんん? と混乱しきりだ。結局どう動いても俺に付いてくるものだから、もうこうなったら家通り過ぎて交番まで行こう、と歩いた。金魚のフンみたいに男は黙って付いてきた。
 でも、交番に行く途中の俺の家の前でぴたりと止まって、男は途端に踵を返して去って行ってしまった。えっどういうこと? 頭にハテナを浮かべる俺を余所に、男はさっさと歩いて行って背中さえ見えなくなった。黒い着物に紺色の帯が差し色で入っていたけど、髪色も相まって「なんか変な黒い男」という印象の方が強かった。俺は男のことを不審者として通報した方がいいか迷ったけど、でも変なことやろうと思えば今までの時間で十分できたよな、と首を傾げてしまった。結局俺はその後、見回りに来た警察におやすみなさいと挨拶だけして寝てしまった。先生が「楽観的なのはお前の長所だけど短所でもあるぞ」と言うのはきっとこういうところなんだろう。
 それから男は、毎日のように病院に行く俺を家まで送り届けてくれている。
「お前さあ、名前は?」
 決まって、男は俺の後ろを歩いた。隣に移動しようとすると何故か避けられる。じゃあ俺が後ろに、と思っても背中を見せないまま逃げられた。どうしても後ろを歩きたいらしい。
 いい感じの石ころを見つけたので蹴りながら歩いている。周りの茂みに突っ込んだら負けだ。コントロールには自信がある。本当は交互に蹴ってくれたら楽しいんだけどな。後ろを振り返っても、男は仏頂面でじっとこちらを見つめていた。
「記憶喪失? か何なのか分からんけどさ。名前覚えてないの」
「……」
 男は無口だ。というよりも、考えている時間が長いのだと思う。話しかけると大体眉間に皺を寄せる。元からそんなに口数が多い方じゃないんだろうけど、思考がまとまらなくていつまでも言葉を探しているような、そんな印象があった。
「……めぐみ」
「おお?」
 長い沈黙の後にぽつりと落ちた声に、思わず感嘆した。こいつ名前あったんか、と、尋ねておきながら感動した。
「めぐみ、だった、と思う」
「めぐみ! めぐみな!」
 最低でも一ヶ月は一緒に帰っているというのに、名前さえ知らなかったことに今更驚く。出会いが奇妙なだったからだろうか、名前という常識を気にしたことさえ無かったのだ。滅多に返事を返してくれない男が、名前という情報を明かしてくれたことが何だか嬉しくて、口の中で何度も繰り返す。
「めぐみ! 俺、悠仁」
「……ゆうじ」
「うん。悠仁」
 男の瞳は、やっぱりどこかぼけている。焦点が合っていないのだ。遠い風景を眺めるような、そんな目をしている。
 でも、俺の名前を呼んでくれたとき、一瞬目が合ったような気がして嬉しかった。
 いつの間にか、蹴っていた石はどこかに行ってしまった。
 
「爺ちゃんさあ、送り犬って何か分かる?」
「送り犬だあ?」
 悠仁くんこれあげる、と花屋の店員におまけしてもらった花を活けながら聞くと、祖父は露骨に顔を歪めた。「くだらない」と顔に書いてある。いつまで経っても解決しない失踪事件に鬱憤が溜まっているのか分からないが、友人達から「送り犬」という言葉を聞くことが随分増えた。皆揃って祖父母達が騒ぎ立てているらしい。祖父も何か知っているんじゃないか? と思って聞いてみたらこの反応だ。けっ、と祖父は「馬鹿らしい」と言わんばかりに吐き捨てる。
「あんなもん、くだらねえ妄想だ。とち狂ったジジババ達が騒いでるだけだ」
「自分もジジイのくせに」
「ゲンコツ欲しいか」
「やだ!」
 べ、と舌を出して飛び退いた。そのまま突っ立ってったら祖父のゲンコツの範囲内だった。危ない危ないと胸を撫で下ろして、「で?」と続きを促す。祖父は握っていた拳を忌々しげに解くと、力を抜いてベッドに背を預けた。
「山道歩くと後ろにぴったり犬が付いてくるってえ妄想だ。転んだら食い殺される、とか言ってな。昔も一度騒ぎになったが、そん時は冬眠し損ねた熊に襲われただけの話だった」
「……へー」
 獣に食い散らかされたような体。失踪事件に付いて回る言葉を思い出す。
 猟友会にも協力を頼んでいるらしいが、目立った成果は無いらしい。町の定食屋でふてぶてしく食事をしている連中がいたら十中八九猟師だ。大した兆候や手がかりも無く、終わりの見えない依頼に飽き飽きとしているのがよく分かる。まだ聞こえる範囲で文句を言っていないだけ良い方だ。だが、彼らももうそう長くは滞在しないだろう。
 一体この生活がいつまで続くのだろう。嫌な事件だよなあ、と祖父のベッドに上体を預けた。布団から祖父の匂いがして何だか嬉しくなる。これから家帰るのかあ、やだなあ、と布団にぐりぐり頭を擦り付けていたら、「馬鹿なことしてねえでさっさと家帰れ」と今度こそゲンコツを食らった。
 
「……っていうか、送り犬ってめぐみじゃね?」
 ランドセルを背負って階段を降り、ナースステーションの看護師さんに手を振ったところでそう思った。病院から虎杖家へ向かう道はそこそこ山道だ。体力に恵まれている自分は何ともないが、以前付き合ってくれた友人がぜえぜえと息が上がっていたのを思い出す。「お前この道を毎日帰ってるの? マジで?」と何回も確認されたのは事件が起こる前だった。家に帰るまで何度か道端で休憩を挟んだのを思い出す。
 山道を歩くとぴったり付いてくる。合っている。いや彼は人間だけど。どうしよう俺転んだら食い殺されるのかな。祖父は妄想だと言っていたが、なんだか少し怖くなってくる。あの仏頂面は自分を食うタイミングを虎視眈々と狙っていたのだろうか。いや虎じゃなくて犬だけど。いや犬じゃなくて人間だけど。考えているうちに訳が分からなくなってきた。でも病院を出たらきっと男がいる。もうこうなったら正面切って聞いてしまおうか。さようならと元気に挨拶したのに、出入り口の前で悶々と悩んでいるものだから、だんだん看護師さんからの視線が痛くなってきた。
 よっしゃ聞いたろ、と決心した。えいやっと元気良く駆け出して、自動ドアの前で立ち止まる。走らないでねー、と控えめに投げ掛けられた声に心の中で謝って、顔を上げる。
「……あれ?」
 自動ドアが開いた先、いつも花壇に座っているはずの男の姿は無かった。
 
 なんだか拍子抜けしてしまった。あれだけ病院のロビーで悩んだのが馬鹿みたいだった。
 一人の帰り道は随分久しぶりだ。毎日男が一緒だったから、寂しいとまで感じてしまう。夕日で橙色になり始めた道に、ランドセルに括られた給食当番の袋の影がぶんぶん元気に揺れていた。
 男は口数こそ少ないが、それでも話を聞いてくれている、という妙な安心感を抱かせてくれる。こちらが変な行動をすると、ちょっと動揺したように影が揺れる。たまに手を差し出そうとして引っ込めるのを見たこともある。その影を見るのが楽しくて、わざと変な行動をすることがよくあった。
 でも、一人きりの帰り道は、何の面白みも無くてとても退屈だった。立派な木の枝も蹴りやすそうな石も何も無くて、あっという間に家が見えてくる。俺の家こんなに近かったっけ、と溜め息を吐いて一歩足を踏み出した。
 その時、自分の影にぬっと大きな影が重なった。
「っあ!?」
 だん、と強く突き飛ばされて地面に前から倒れ込む。受け身もろくに取れなくて、地面に擦った頬と膝が痛かった。ランドセルの上に重たい「何か」が乗っている。肩を骨が軋むほど強く掴まれて息が詰まった。ぐっと上半身に掛かる重みが増して、後頭部に熱風が掛かる。いや、風じゃない。これは息だ。生温かい液体が首筋に落ちてきて、驚いて喉が鳴った。
 食われる、と思った。
「――」
 次の瞬間、犬の唸り声が聞こえた。
 背中に乗っていた「何か」が前に勢い良く弾き飛ばされて、それに引き摺られて俺の体も少し前にずれた。地面にあった石がごりり、と額を擦って歯を食い縛る。
 遅れてやってきた冷たい風が背中を撫でて、軽くなった体に安心して脱力した。頭の向こうで荒い犬の呼吸が聞こえる。それと一緒に、肉を裂いているような音と断末魔も。絶対に血が出ている額と押さえ付けられた肩が痛くて動けなくて、俺は暫くそのまま地面に倒れ込んでいた。じわじわ痛みが弱くなっていくと、今度は恐怖で体が震え始める。
 俺は今、何に襲われていたんだろう?
「……めぐみ」
 口に出たのは祖父ではなく、男の名前だった。何故か、確信があった。
 情けなく震える腕を地面に付いて、力を込めて体を起こす。起き上がるだけの動きがこんなに疲れることだなんて知らなかった。やっとの思いで地面に尻を付いて座り込んで、暗くなり始めた空を見上げた後、後ろを振り向いた。
 予想に違わず、男はそこにいた。でも、驚いたように目を見開いて、自分の組んだ手を呆然と見つめていた。
 キャンプファイヤーで友人と遊んだ時の、犬の影絵の組み方によく似ていた。
 
 
 
 
 「何か」に襲われた後のことはよく覚えていない。気が付いたら家の布団で寝ていた。悪い夢だったのかと思ったが、額や頬や膝に負った傷は残念ながら現実で、手当てされたガーゼを剥がすと痛々しく血を滲ませていた。調子が悪いとその日はズル休みをして、翌日登校したら血相を変えた先生達に保健室へ連行された。「盛大に転んだ」と誤魔化したが、ただでさえお家に一人なんだから遠慮せず大人に相談しなさいと怒られた。一体どんな転び方をしたらこうなるのかとか、誰かに襲われたんじゃないかとも。襲われたことには襲われたんだろうけど、どう説明したらいいのかも分からなかったから、ひたすら転んだ体で通した。
 朝から保健室送りになった後、当然友人達からの注目の的となった。最初こそ「なんだそのガーゼかっけえ」と興奮していたものの、試しにぺろりと剥がして傷を見せてみると一斉にドン引きされた。ゼッテー痛えじゃん、お前今日サッカー絶対ヘディングすんなよ、と念を押された。そもそも体育は「傷に障ったらいけないから」と先生から止められて参加できなかった。ゴネた。
 だが実際、額の傷はじくじくと痛んだ。見た目はだんだん塞がっていくのに、痛みは日を追うごとに増していくものだから、なんで? と疑問に思う。でも、額という表面ではなくて、もっと頭の奥が痛んでいるような気もした。
 祖父は怪我をした俺を見てがっと肩を怒らせたが、俺が警戒して一歩下がったのを見ると、深く息を吐き出してちょいちょいと手招きしてきた。ランドセルを下ろしながら恐々近付くと、自分の横の布団を叩いて上がるよう促してくる。上がるよう誘われたのなんて初めてじゃないだろうか。ちょっと感動しながらベッドに乗り上げると、皺だらけで少しカサついた手で、俺の額を撫でてくれた。
「……痛かったか」
 今までに聞いたことがないくらい、優しい声だった。込み上げてくるものを抑えきれなくて、抱き着いてそのまま少し泣いた。
 
 男はと言うと、変わらず見舞いを終えると病院の前の花壇で座って待っている。
 でも、確実に眉間の皺が増えた。というかたまに頭が痛いのか手で押さえている。「大丈夫?」と聞いても「大丈夫だ」としか返ってこない。具合が悪そうなくせに、俺の後を付いてきて家まで送って帰るのは意地でも止めない。体調不良の人に頻繁に話しかけるのも悪いかなと思って、話しかけたりちょっかい出したりする回数は確実に減った。以前よりも確実に居心地が悪くなっていくのを感じる。
 俺達の関係が悪くなっていくのと反比例するように、失踪者はぱったりといなくなった。
 
「虎杖くん、体調悪い?」
 額の傷が乾燥した瘡蓋になって剥がれ始めた頃、頭痛はすっかり酷くなっていた。
 算数の先生が覗き込んで聞いてくるのに緩慢に頷く。先生は心得たと言うように頷いて、クラスに少しだけの自習を言い渡すと、俺のランドセルを開いて荷物を詰め始める。今日保健室に行くのは二回目だ。朝から保健室で寝てやっと回復したと思ったのにこのザマだった。車を回す先生が決まるまで、保健室で少しでも寝ておけという計らいらしい。でも、授業が本格的に再開している今、この小さな町の先生の数なんて高が知れている。
「先生、俺さ、寝て休んで皆と同じ時間に帰る。そしたら他の先生も手空いてるだろ」
「でも、」
「寝てるだけだもん。大丈夫だよ」
 ううん、と先生は唸ったけれど、人がいないのは事実だ。授業終わったら起こすからね、絶対安静にしててよ、とベッドでまで言い付けられて、苦笑いして横になった。保健室のドアが閉められた音が聞こえる。保健室の先生も今は校舎を回っている時間らしい。消毒液の臭いが祖父のいる病院を思い出させて、布団に包まっていたら瞬く間に眠りに落ちた。
 後ろから押されたように前によろけて、次の瞬間、ぱっ、と、視界に赤が舞った。
 びたたっと液体が地面に叩き付けられる音がやけに耳に残る。急速に膝から力が抜けていくのが分かった。制御が利かないまま地面に崩れ落ちて、前を歩いていた背中が振り返る。
 顔は見えない。ただ、慌てたように何かを叫んで、手を差し出されたのが見えた。
 その手を掴もうとして、目が覚めた。
「……あー」
 頭は相変わらず痛い。でも、さっきよりはマシだった。これなら歩いて帰れそうだ。
 布団から起き上がって壁掛け時計を見上げると、まだ三十分も経っていない。まだ今日の授業が終わるまでに、給食とその後の授業も一時間ある。一度起きてしまうと、そこまで待つのが面倒だと思ってしまった。
 保健室の先生の机の上にあったメモを一枚拝借した。『歩けそうなので帰ります 虎杖』と簡潔に書いて、その机に置いていく。外に繋がる扉を開くと、ご丁寧に靴まで準備されていた。これ幸いとそのまま履いて校門を目指す。
 給食の時間すら来ていない真昼間の道を帰るのは、なんとなく背徳感があった。祖父のいる病院に行こうかと思ったが、受診するお金が無いし、見舞いなんて行こうものなら殴られそうだ。このまま真っ直ぐ家に帰ろう、と、最近舗装したばかりのアスファルトを踏みしめる。通学路で古いアスファルトと新しいアスファルトが混在しているので、次はどこが新しくなるのかを予想するのは密かな楽しみだった。
 もうすぐ夏が来る。緑が鮮やかになった木々が風に揺れて、でもそのさざめきがじわじわと頭痛を引き起こし始めた。時折ざあっと強く吹く風と擦れる葉音が、先ほど見た夢に重なって苦しめてくる。
「……いてえ……」
 一歩一歩が重くなる。気休めにならないと分かっていても頭を押さえてしまう。額だけでなく、こめかみや頭の奥までずきずきと痛かった。生理的な涙で視界がぼやける。こめかみに当てた親指を揉み込んでどうにか痛みが和らがないか試したが無意味だった。
 ざわざわという音に混ざって、耳鳴りがする。
「いっ」
 がつ、と地面の隆起に気付かず、躓いて倒れ込んだ。手を頭にやっていたおかげで手を付けたが、古いアスファルトは陽の光を受けて生温く手の平の皮膚を圧迫した。それでも、傷になるほどではない痛みにほっと安心する。
 そうして気が緩んでいたものだから、目の前に広がった黒い影に反応が遅れた。
「ゆうじ」
 辿々しい響きだった。彼の声で呼ばれる名前を聞いたのはいつぶりだろう。言うほど彼と長い時間を過ごしたわけではなかったけれど、長らく呼ばれていなかったような気がする。いや、この名前で呼ばれること自体が珍しい。だって彼は、いつも俺のことを、
 そこまで考えたところで、あれ、と顔を上げた。
「ふしぐろ?」
 途端、影が一層濃くなった。地面に付いていた両手と膝が、粘着質な音を立てて沈む。
「あっ」
 とぷん。
 
 
 
「いたどり」
 男は、着物の裾が地面に垂れるのも気にせずしゃがみ込んだ。アスファルトに落ちた自分の影をそうっと撫でる。
 薄い唇が、密やかに弧を描いた。
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【伏虎】送り犬
初公開日: 2021年04月13日
最終更新日: 2021年04月13日
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影にしまっちゃう伏…としまわれちゃうショタ虎…