えずき、鼻水を啜りながら、綾瀬はなんとか泣きやもうとしていた。そのいじらしい努力をわたしは黙って見ているほかなかった。頬を伝う涙を拭ってやりたいと思ったが、触れていいかわからなかった。わたしはそのとき、なんの了解も得ていなかったのだ。
すぐに泣きやめないと覚ると、綾瀬は泣き顔のままわたしの腕をひっぱって空き教室に移動した。行動は潔かったが、とにかく泣きじゃくっていた。
教室の隅にたどりつくと、綾瀬は抱きしめてもいいか、と言った。拒む理由はなかった。頷くと、綾瀬はわたしを抱きしめた。子どものようなやりかただった。腕ごと抱きしめられたので、抱き返すことは難しかった。それでもわたしはどうにか綾瀬の背中に手を回した。そうしなければいけないと思った。綾瀬の髪はサイダーのペットボトルを開封したときに一瞬だけ立ちのぼる香りをもっと甘くてさわやかにしたような、そういう匂いがした。
綾瀬はしばらくきつくわたしを抱きしめていて、やがて体を離すと、今度は髪を撫で、目尻をなぞり、手を握った。大変やさしい手つきで、でもこめられた力はつよかった。なぜこんなに必死なのだろう、まるで最後みたいだな、これが最後みたいだ、とわたしは思い、あとになってそれがあながちまちがいでもなかったことを知る。綾瀬はあのときすでに、覚悟をしていたのだった。
どのくらいくっついていたのかわからない。しばらくして綾瀬はのろのろと動き出した。無言で自分のスマホをわたしに手渡し、そしてそのまま三メートルほど後ずさった。そうして、深呼吸をしてから微笑した。
「話しておきたいことがあって」
と、そう言った。
「もし話してる途中でわたしの様子がおかしくなったら、それで緊急通報して。救急車と警察を呼んで、それから自宅に電話をかけて、わたしのお母さんとお父さんに、愛してたって言って」
少し迷う素振りを見せてから、綾瀬は引き攣った顔で笑った。でも、わたしが暴れ出したら、とにかく逃げて、悲鳴を上げて、絶対に逃げきってね、とつけ加えた。……笑って言うことではなかった。
このときの綾瀬の心情を思うと、わたしは
「まだ見える? 犬が?」
囁いた。綾瀬はややあって、頷いた。それを見てわたしは心底がっかりしたが、表情には出さなかった。意地でも出さない。
キスには魔法があると思ったのだった。一か八か、呪いを解けるんじゃないかと思った。よく考えれば無理に決まっていた。綾瀬の身に降りかかっているのは呪いではなく、わたしは王子でもプリンセスでもなかったのだった。知っていた。
告白した日、綾瀬がそうしてくれたように、綾瀬を抱きしめて、ただくっついていたかった。でも、違うよなあ、と思った。違うよなあ、まだためしてないことがあるもんなあ。
わたしはずるずると体を離し、無理矢理に微笑んだ。
「綾瀬、見てて。いや、見てなくていいか、待ってて」
三歩下がった。下がるあいだ、ずっと綾瀬の顔を見ていた。こころを決めて、背を向ける。渡り廊下を進んだ。引きずっていた金属バットを浮かせた。耳障りな音が消える。
かわりに楽しげな歓声が耳に届いた。顔を上げると、廊下の先、特別棟の四階の窓に数人の女の子がはりついているのが見えた。ソフト部の後輩だ。あそこは物理室だ。補講でもあったのかもしれない。
後輩たちはわたしと目が合うと、きゃあっとさらにうれしげに声を上げた。もしかしてキスしているところを見られたのかもしれない。そんな場合ではないのに、ちょっと照れた。照れて、ごまかすためにバットを持ったまま大きく手を振った。
綾瀬が予言されたという神社に行った。綾瀬から聞き出した情報を元に、例の老人が確かにそこにいたことも突きとめた。だが老人は何年も前に死んでいた。ペットショップでトイプードルも見たし、その小さな体を抱きさえした。綾瀬の恐れた遊園地があるらしい場所にも行った。雑居ビルが建ち並ぶ、なんの特徴もない通りだった。わたしはなにも見つけられないまま、その周辺を闇雲に、執拗に歩き回った。
こんなに忙しい時期になんの収穫もないのにうろつき回り、きっとひとに知られたら正気の沙汰ではないと言われるのだろう。でも残念ながらわたしは正気だった。狂ってはいなかった。まともだった。だからこそ救いはないのだった。
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綾瀬と遊園地に行きたい
初公開日: 2021年03月15日
最終更新日: 2021年03月15日
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