静かにエレベーターの扉が閉まり、そこで雪平は溜息を吐いた。一人になって漸く、今日が終わったのだと実感する。ここ最近はバレンタインだから何だと有難い事に特集を組んでもらう機会も増え、撮影やインタビューの仕事がやたらと多かった。当日も別の撮影や生配信だのと朝から晩まで仕事だった。時計を見ると、あと30分で日付も変わろうとしている。
「結局、間に合わなかったなぁ」
 狭い空間に雪平の言葉が虚しく響く。右手にぶら下げていた、小さな紙の手提げ袋を見て苦笑する。そこで、エレベーターは到着の合図を鳴らし目的の階に止まった。開いた扉から廊下へ出る。目的の部屋は、すぐそこだ。
 部屋の前まで来て、鍵を開けドアノブを回す。ドアを開くと、キッチンの灯りが薄暗い廊下に漏れていた。こんな時間に? と疑問に思ったのと同時に、そのキッチンから物が落ちるけたたましい音と、日天の慌てる声が聞こえてきた。
「日天くん⁉」
 脱いだ靴を並べるのも忘れ、急いでキッチンへ駆け込む。日天が何か怪我でもしたのではないかと思うと、冷静ではいられなかった。キッチンを見ると、床やシンクが茶色い粉で染まり、ステンレス製のボウルが床の上でゆらゆらと転がっている。その傍らに茫然と、両膝を付く日天がいた。
「……大丈夫?」
「……雪平……」
 日天に怪我が無さそうな事に一先ず安心し、声を掛ける。日天はぽつりと恋人の名前を呼ぶと、困った顔であははと笑った。
「ごめんな、俺は大丈夫だ。今片付けるから」
「待って、掃除機持ってくるよ」
 キッチンに入った時から香っていた甘い香りに、それが何なのか察しの付いた雪平は、手でそれらを拾おうとする日天を止めキッチンを出た。
「……悪い」
「気にしないで」
 掃除機を片手に戻ってきた雪平に、バツが悪そうに日天が謝る。そんな顔をして欲しくなくて、大丈夫だよと雪平は優しく言って微笑んだ。すると日天も、まだぎこちなくはあるが笑ってくれたので、雪平は笑みを深めた。
「日天くんが一人でお菓子を作るなんて、珍しいね」
 床に散乱してしまった茶色い粉、ココアパウダーを粗方片付け終えると、雪平は始終落ち着きのない日天に尋ねた。やらかしてしまった自己嫌悪から落ち込んでいるせいかと思ったが、それだけではない様な気がしたのだ。その証拠に、雪平に言われ分かりやすいくらい日天の肩がびくりと反応する。一瞬、沈黙が流れる。焦っているのを誤魔化すように、日天が抱えていたボウルをシンクの上にぎこちなく置く。コン、とこの空気に似合わず、気が抜ける音が二人の間に響いた。
「ま、まぁ、な……」
「……もしかして、僕の為に作ってくれようとしてた?」
 この時期にお菓子作りとくれば、目的は概ねバレンタインだろう。普段は雪平の手伝い程度にしか料理をしない日天が、わざわざ雪平のいない時に一人で作ろうとしていたのだ。恋人である自分へ贈るためだと確信を持って聞いた。
「うっ……」
 と、あからさまに隠し事がバレてしまった時の反応をした日天は、諦めたように溜息を漏らした。そしてぽつぽつと、事の経緯を話してくれる。
「雪平の言う通りだ。本当はちゃんと作れるか自信なかったし前もって準備しておきたかったんだけど、出来たら出来たで隠す場所思いつかなくて当日作る事にしたんだ。そしたら全然上手くいかなくて何回もやり直してたらこんな時間だし、雪平は帰ってくるし……大失敗だ」
 それで、慌てた拍子にボウルを落としてしまったのだろう。自分を惨めに思ったのか、日天の瞳に涙が滲む。
「ごめんな……雪平に喜んで欲しかったのに、これじゃ逆効果だよな……」
 震える声で言う日天の、今にも濡れそうな涙袋をそっと雪平の手が撫でる。そして静かに、首を横に振った。
「違うよ、日天くん。謝るのは僕の方だ」
「へ……?」
「日天くんはこんなに僕の事を想って頑張ってくれたのに、僕は忙しさにかまけて作るのを諦めたんだ」
 ほらこれ、そう言って掃除中シンクの上に置いていた紙袋を掲げる。それはシンプルな模様が描かれ、中央に英字のロゴが印刷された物だった。中には一つだけ、紙袋と同じデザインの箱が入っている。
「作る暇が無いからって、売られているチョコになってもしょうがないって、甘い考えになっちゃったんだ。ごめんね……」
 買いに行けたのだって今日ギリギリで、バレンタインコーナーには売り切れた物が多く、雪平が人目を引いた事もあって十分に選ぶ時間も無かった。しかし全部仕方が無い事だと妥協してしまったのだ。必死になってくれた日天に比べたら、物凄く自分が浅はかな考えだったと雪平は自分が恥ずかしくなった。雪平が謝ると、今度は日天がぶんぶんと首を横に振る。
「そんな事ない!別に手作りでもお店のでも、貰えたら嬉しいぞ!それにほら、雪平の手作りならいつも食わせてもらってるし、お菓子だっていつでも作ってくれるだろ?だから気にするな!な?」
 日天を励ましたかったはずが、いつの間にか雪平の方が励まされていた。その事がおかしくて、笑う場面でもないのに自然と口角が上がる。
「日天くん……ありがとう。僕もね、同じ気持ちだよ。どんな物でも、日天くんのその気持ちが嬉しい。だから、日天くんの作ったお菓子、僕に頂戴?」
 何度も作り直したと言うからには、それだけ作ったお菓子があると言う事だ。雪平が帰ってくる直前まで、作りかけだった物もある。それら一つ一つを日天が自分の為に作ったのだと思うと、全部欲しいと考えてしまう自分は欲張りだろうか。
「そ、れは……」
「ね?お願い」
 日天は雪平のお願いに弱い。お願いされれば、NOと言えないのだ。
「~~っ!不味かったら無理しなくても良いからな!?あと……一つくらいは、ちゃんとしたの渡したい……」
「じゃあ、ここからは僕もお手伝いするよ。二人で作ろう」
 雪平がそう言うと、日天は頷きやっと笑顔を見せてくれた。日付はとうに15日に変わっていたが、二人のバレンタインはまだこれからである。
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