ファンデーションの粉を含んだ柔らかなリス毛のブラシが、頬の上をくるくると軽やかに滑る。目を閉じてそれを受け入れていた勝己だったが、ふと己のマネージャーが今、何をしているのか気になった。
まぶたを薄く開き、眼球をつと動かして、奴が立っているであろう現場の片隅に視線を向ける。――そして、視界に飛び込んできた光景に、勝己は思わず舌を打ちそうになった。さすがにそれは耐えたけれど、覚えた苛立ちはしっかり表面に表れる。くしゃりと表情を歪ませれば、勝己の顔にブラシを滑らせていたヘアメイク担当の女の口から「あ、こら、勝己くん、怖い顔しないで」と要求が飛んできた。うるせえ、それどころじゃねえんだよ、とわめき散らしたいのをぐっと我慢して、勝己は肩の力を抜いた。ついでに、反射的に握ってしまった拳をそろそろと解いていく。
自分は役者だ。己の感情に蓋をすることくらい造作もない。――けれど、ひとたび波風立った気持ちは簡単には落ち着いてくれない。胃がムカムカする。勝己の意識と視線はもう、あっちに釘付けだ。
出掛けに勝己が選んでやったとことん地味なスーツを、しかし勝己の思惑とは裏腹に嫌味なほどさらりと着こなしてしまう、スタイルの良い男。顔の半分を覆い隠す大きさの、お洒落とは対極にあるはずの野暮ったいサングラスを掛けさせているにもかかわらずどこか洗練された空気をまとっている男。――三年前から勝己のマネージャーをしている轟が、ひっそりと気配を消して立っている。
轟の向かいには『いかにも』といった風体の男性――この現場のプロデューサーが立っていた。鼻の下に蓄えたちょび髭、色付きの眼鏡に、肩に掛けられたピンク色のカーディガン。絶妙に全てが似合っていない中年親父は熱心に轟に話し掛け、時おり腕を伸ばしてスーツに包まれた身体に触れようとする。その見え見えの下心は胸くそが悪くなるほどだ。人のもんに手ェ出そうとしてんじゃねえよ死ね、と内心お行儀悪く吐き捨てた。
早くあの場から轟を連れ出したい。そう思うのにわずかに崩れた化粧を直されたあとには、今度は乱れなくセットされた髪にプラスチックのコームがあてられた。今日はそこまで動きのある映像は撮っていないのに、何をそんなだらだらと整える必要がある。はよ終われ、と今にも貧乏ゆすりをしてしまいそうなくらい、じりじりと焦る。そうしてようやく化粧直しを終えた勝己はパイプ椅子からぴょんっと勢いよく立ち上がり、早足の大股で轟の元に向かった。
「おい」
二メートルほど離れた場所から轟を呼べば、奴は雑な会釈でプロデューサーの話をぶったぎり、勝己の前に急いでやって来た。その忠犬ぶりに優越感を覚える。
「どうした?」
けれど、どこまでも呑気なその声には腹が立った。あまりに危機感がなさすぎる。自分は頭のてっぺんから爪の先に至るまで勝己のものなんだという自覚をもっとちゃんと持ってほしい。
あのプロデューサーは享楽主義の漁色家で、しかもかなりの面食いだ。女でも男でも自分の好みに掠った奴は、プロデューサーという立場を利用して食っちまうって話だった。忌々しいことに轟は奴のお眼鏡に適ってしまったんだろう。
勝己の仕事中、つまり人前に出るときには必ず掛けさせているサングラスのおかげで顔の半分は隠せているけれど、轟の綺麗に通った鼻筋や小さく薄い唇なんかはどうしたって晒されたままだ。きっと美しい顔立ちをしているんだろうな、というオーラはとても隠しきれるものではない。轟は背だってすらりと高く、質のいい筋肉に包まれた肉体は衣類越しでもその素晴らしさがよく分かる。目の肥えた業界者は勝己が必死に隠そうとしている轟の魅力などすぐに見破り、勝己の監視網をかいくぐって巧みに轟を誘惑しようとするのだ。それをいつものらりくらりと躱している本人が、その下心に気付いているのかは知らないが。
「……ネクタイ」
「ん?」
「ちょっとずれてる」
「マジか」
「ったく。しっかりしろよ、大人だろ――おら、少し屈め」
まだ成長期の訪れていない勝己では、長身の轟の首元に触れるのもひと苦労である。――それは、暗に轟と自分は釣り合っていないのだと示されているようでひどく腹立たしい気持ちになる。
そんなくだらない嫉妬に胸のうちを燃やされるなんて、馬鹿みたいだ。
勝己に言われた通りに、轟は膝を折る。無機質な黒いガラスに目元を隠された男の顔がゆっくりと勝己の鼻先に近付いてくる。これほどまでの至近距離なら、サングラス越しに轟の涼しげな形の瞳が窺えた。こちらをじっと見つめてくる切れ長の瞳を負けじと見返しながら、勝己は轟の濃紺のネクタイに指を伸ばした。
勝己が命じることに轟は何でも従う。立てもしゃがめも座れも寝ろも。――釣り合うとか釣り合わないとか、そんなの関係ない。考えるだけ無駄だ。意味をなさない。
だって轟の世界の中心は勝己で、轟は勝己の『所有物』なのだ。
轟焦凍は三年前に勝己が公園で拾った男だった。
そこは多くの浮浪者が起居していることで有名な公園だった。当然そんな不穏な場所で子供が遊ぶはずもなく、どの時間帯も不気味なほど静かで、いつだって澱んだ空気が漂っている。勝己もその公園にはあまり近づくなと母親に口酸っぱく言われていたけれど、小学校から自宅までのショートカットとしてよく通り抜けていた。
あの日もそうだ。夏の終わりの、日差しがやたらと強かった日。
公園を囲むように設置された植え込みの前に敷かれた段ボールの上には、両手では数えきれないくらいの汚れた人間が蹲り、眠っていた。それを横目に見ながら足早に敷地を渡っているとき、その中にやけに若い奴がいることに勝己は気が付いた。左右で紅白にわかれた髪を肩あたりまで伸ばし、薄汚れたジーパンに元は白かったのだろう黄ばんだTシャツを着ている男。長い足を三角に折り畳んで座り、浮浪者にしては綺麗に筋肉のついた腕を気だるげに投げ出していた。その鍛えられた腕に興味を惹かれてじろじろと見ていたら、ふいに視線が交わった。
伸びきった前髪の隙間から覗いた瞳は、頭髪と同様に左右で色がわかれていた。淡いグレーと、緑がかったブルー。宝石じみた二色の瞳に勝己は息を呑む。あっという間に魅了された。喉が渇いて仕方ない。――こんなにも何かを欲しいと思ったのは、はじめてだった。
吸い寄せられるようにふらふらと近づいて、手を差し出した。
「来い。俺のヒモにしてやる」
先日クランクアップを迎えたドラマの中で覚えた単語を口にすれば、男は虚を突かれたように目を瞠った。そして、ぱちぱちと緩慢に瞬きしたあとでくっとおかしそうに口の端をあげた。その笑顔も、勝己の胸を鋭く抉った。
男の手を引いて家に帰ると、出迎えた母親は公園に寄ったことをこれでもかと叱ったが、男を追い返したりはしなかった。
風呂に入れて汚れを落とし、伸びきった髪と髭を整えてやれば、そこにいたのは芸能界でもお目にかかれないような容姿の男だったから、勝己はとにかく叫び出したい気持ちになった。ジャングルの奥地で山ほどの宝物を見つけた冒険者は、きっとこんな気分なんだろう。
名前を聞けば低く艶のある声が、とどろき、と名乗った。
以来、勝己は轟に住む場所と三度の食事を与え、自分に従事させる代わりに賃金を手渡している。
まだ十五歳に満たない勝己は、どんなに仕事が立て込んでいても二十一時には家に帰れる。轟と向かい合って食事を取り、順番に風呂に入って、大きなベッドに共に寝転がるのはだいたい二十二時。
間接照明のみが灯った寝室は薄暗い。けれど、しばらく目を凝らしていればだんだんとその闇に慣れてくる。
穏やかに微笑み微睡む男の頬を、勝己は手のひらで包み、撫でる。形の良い額、きりっと整った眉、睫毛の長い切れ長の瞳、高い鼻梁、つるりとした頬、木造りな唇。順番に指で辿っていけば、ふふ、と吐息を漏らして轟が笑った。
「くすぐってえよ」
「うるせえ、黙ってろ、ヒモ野郎」
スーツの代わりにくたくたのスウェットを着込んだ轟は、家の中でも勝己に従順だ。すぐに言う通りにして黙り込む。それでも唇のラインは愉快そうに歪んでいる。そこに自分の唇を近付けて、勝己は食むようにキスをした。轟の色違いの瞳が、喉元を撫でられた猫みたいに細くなる。
応えるように逞しい腕が背中にまわる。布団の中で足が絡む。そうしていると背後から眠気が緩やかに襲い掛かってきて、勝己はうとうと瞬きした。
「おやすみ」
鼻先が触れ合う至近距離で轟がそれはそれは綺麗に笑う。胸がじんと痺れて、たまらない気持ちになった。
この男の素顔がとびきり美しいことは、自分だけが知っていればいい。そう心の底から思う。
轟は、勝己だけの宝物なのだ。
終わり
ありがとうございました!七分オーバー、無念!